第52話 問題児
ダンジョン周辺とそれ以外では時間の進み方が違うので、ヒト族の冒険者はしばしば時差ボケを食らう。しかし――ダンジョンの外に一歩も出られず、中に閉じ込められている魔族は別として――「時間停止」を扱えるエルフ族は滅多に時差ボケを味わわない。
朝起きて夜眠る、または夜起きて朝眠る。そうして固定された睡眠サイクルを諦めることが、お掃除エルフのファーストステップと言えるだろう。
真夜中にダンジョンから解放されようが真昼間に解放されようが、すぐさま体を休められなければお話にならない。
外が明るいと寝つけないなんて言っていられないのだ。出勤したのが真夜中で、あれから何時間も経過したのに外に出たらまだ暗い! 頭がおかしくなりそうだ――なんて言っていられない。いついかなる時だってすぐに眠れなければ、まともに活動できないのだから。
退勤から次の出勤時間までに休むのはもちろん、勤務中にも平均一、二回中抜けして仮眠休憩する必要がある。だと言うのに満足に眠れないとなれば、疲労と睡眠不足が蓄積されて倒れるのみだ。いくら屈強なエルフでも、失神する時は失神する。
そうした生活を何千、何万年と繰り返す生き物なので、エルフ族は全種族の中でも特に肝っ玉が据わっているかも知れない。例えば目の前で身内が落盤事故に巻き込まれたとしても、「おわっ、やばい、無事か?」と目を丸める程度である。
エルフと言えば動じない、動じないと言えばエルフ。そんな動じないエルフの一員であるシャルは、自宅へ戻り玄関の鍵を開錠しようとして固まった。なぜなら、外出する際にしっかりと施錠したはずの扉が既に開いていたからだ。
しかもノブの回る音を聞きつけたのか、中から「あっ、おかえりなさ~い!」と居るはずのない者の声まで聞こえたのである。
「シャルルエドゥ先輩! 反省文と企画提案書できましたよ!!」
「貴様、どうして僕の家を知っているんだ。そして、なぜ当然のように中に居るんだ……玄関が開いていることに戦慄したぞ」
滅多なことでは動じないエルフ族の中でも、このアザレオルルという少年は群を抜いて頭がおかしい。小柄な少年は玄関まで出迎えに来ると、いつものように上目遣いでシャルを見上げた。
「自分、すっかり
「ダニーもとんでもない愛称をつけられたものだな……いや、それにしたってツッコミどころ満載すぎる」
至極当然のように鍵の保管場所を把握しているダニエラも恐ろしいが、その話を聞いて実際の行動に移すアズが何よりも恐ろしい。
本来生き物に備わった恐怖心や危機管理能力というのは、生存率を上げるために必要不可欠な能力である。それが欠ければ、自分の向かう先が死地かどうかも判別できないのだから。
しかしこの少年は、地雷原を越えた先にシャルが立っているのを見つけたら「ヒャッホー! 先輩だー!」と真っ直ぐに駆けて行くだろう。仮に地雷が埋まっていると聞かされたところで「ははあ……でもまあ、不発かも知れませんし? そもそも爆発したところで、怪我で済むかも知れませんよ?」程度の感想しか抱けないのだ。
「――貴様は恐らく、母親の胎の中に大切な何かを忘れてきたんだな」
「おっ? ちょっとちょっと、なんですか先輩? ブラックジョークですかそれは? 自分ハーフですよ」
「じゃあ、人工子宮の中に忘れてきたんだろう。もしくはエルフお得意の交配実験による弊害か……恐怖心と道徳心の欠如とは、全く嘆かわしい」
シャルが淡々と言い直せば、アズは「これだから、シャルルエドゥ先輩信者は辞められないぜ!」と良い笑顔で親指を立てた。少年の顔とポーズを見て、シャルは大きなため息を吐き出す。しかしすぐさま気を取り直したように――というか、半ば諦めた様子で「書類を寄こせ」と呟いた。
まず渡されたのは、十五枚分の紙束だ。それなりの厚みと重みのある反省文。確かシャルに対するセクハラ発言をしたことに関した反省文だった気がするのだが、書き始めの一文は「シャルルエドゥ先輩の好きなところ」であった。
シャルはおもむろに紙の持ち方を変えると、そのまま縦方向に引き裂きそうになった。しかし寸でのところでピタッと止まり、全体に軽く目を通して要点だけをかい摘まむやり方で十五枚分全てを速読する。
そして読み終わると同時にまた持ち方を変えて、結局それをまとめて引き裂いた。恐らくエルフ族の腕力をもってすれば、週刊少年ジャンピンだろうが閉じたままの状態で縦に引き裂けるだろう。
引き裂かれた反省文を見て、アズは膝から崩れ落ちた。
「あぁ、そんな! 自分渾身のラブレターが!!」
「……僕は反省文を書けと言っただろう、あまりふざけていると怒るぞ」
「もう怒ってるじゃあないですか! 自分の想いを引き裂くなんて、ひどい!」
「僕は基本的に熱量が足りていないから、滅多なことでは怒らない。ただ、ふざけていい時とそうでない場合というものがある。養成学校を卒業したエルフはもう成人だ。貴様もいい加減ちゃんとした方が良い」
「くぅ……確かに自分も卒業してから約九十年ぶらついて、もうすぐ千八百歳――晴れてR指定の有害指定図書も購入できるようになりますけど……!」
廊下に四つん這いになったまま絶望に打ちひしがれるアズを見て、シャルは「だから、貴様のそういう発言が不快なんだ」と漏らした。恐らく彼の特性上、リビドーもとい性衝動が存在しないせいだろう。ある種ないものねだりのコンプレックスに近いのかも知れない。
「――とりあえず、明日にでも引っ越しすることを決めた」
「え? どうせストーカー先輩に秒でバレるのに、それって金と時間と労力の無駄じゃありません? シャルルエドゥ先輩って物好きですね」
「貴様はしばしば正論を言うから尚タチが悪いな……さて、反省文はもういい。企画提案書を見よう――ただ数時間後にはアティに会い行くから、あまり余裕がない」
シャルが大きなため息を吐きながら促せば、アズは廊下から立ち上がって「はい!」と喜色満面の笑みを浮かべた。
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