初搭乗
―――およそ30分後。
第一自動二輪倶楽部の面々は、部室のすぐ傍に設置されている専用サーキット上にいた。
勿論、全員と言う訳では無い。
残念ながら如何に「本田技術工業」の100%出資学園だとしても、部員全員のマシンを用意する程の予算は無いのだ。
部員数は新入生も加えれば、毎年30~50人在籍している。そしてその様な傘下学園が、全国に10校以上存在するのだ。
それだけのマシンを揃えるなど、どれ程資金に潤沢であっても難しいと言えた。
それでも、新旧含めて20台の「レーシングマシン」がコースに揃うと、まるでプロのレースか大きな大会の様で流石に壮観と言って良かった。
索然とするアスファルトの灰色の中に、色鮮やかなレーシングスーツを纏う艶めかしい姿をした少女たちが集うと、まるでそこは真夏のビーチのように華やかとなる。
もっとも彼女達が跨るのはイルカのフロートではなく、凶悪な咆哮を上げる鉄騎な訳だが。
「みんな、聞こえるかしら?」
ヘルメット内に内蔵されているインカムから、サーキット場にいる全員に向けて本田千晶の声が流れた。
彼女は今回、自身で走行する事は無く、ホームストレートに設置されている3階建てのコントロールタワーで指揮監督を行なっていた。
そんな彼女の元にはこれからサーキットを走る部員たちの、やや緊張感を孕んだ返事が次々と戻って来る。
誰一人異を唱えない事を確認して、千晶は一人頷いて先を進めた。
「皆さんの乗る『NFR250Ⅱ』は、中等部であなた達が乗っていた『NFR50Ⅱ』とは全くの別物です。基本操作に違いはありませんがそのパワー、加速性能、旋回性能、トルク、最高速度……全てにおいて50CCを大きく上回っている正しく〝化け物〟です」
そこまで話した千晶は、意図的に言葉を切った。
この時点で何かしらの質問があるかどうかを探ったのだが、返って来たのは数人の息を呑む音だけだった。
「ですが中等部でしっかりと走り込んで来た皆さんなら、5周も周回を重ねればある程度乗れる様になる筈です。気後れする事無く、まずは楽しんで走って下さい」
そして千晶がそう締め括ると、随分と気合の入った新入部員たちの返事がスピーカーを震わせる。
余りの大声に、千晶は思わず付けていたヘッドホンをずらした程であった。
そして、レースさながらにスタートシグナルが赤の色を灯す。
それを合図として、サーキット場にスタンバイしているマシンが一斉に咆哮を上げる。
勿論これは、レースではない。エンジンの回転数を上げてスタートダッシュに備える必要等無いのだが、これは長く行って来た慣習の様なものだ。
そしてシグナルがブルーに。
それを皮切りにして、先頭に陣取っていた新条帆乃夏のマシンを追随する形で全てのバイクが動き出した。
ゆっくりと……そこだけ見れば、当たり前だがとてもレースには見えない。
それでも空吹かしが過ぎたのか、数台のマシンが前輪を持ち上げウイリーをしようとしており、慌ててアクセルを戻して制御を取り戻す姿が確認された。
「あらら……。注意しろって言っても、パワーに振り回される奴が何人かいるわね―――……」
そんな光景を千晶の隣で見ていた美里が、失笑と共にそう零した。
「でも、今年は転倒する人がいなかっただけ上出来じゃない?」
そんな美里の感想に、千晶は楽しそうにそう答え、そして再びサーキットへと眼を落としたのだった。
帆乃夏を先頭にした一団は、素人が見てもゆっくりとしたスピードでコースを進んで行く。ただしそれは、一列に規則正しく走ると言ったものではない。
コース一杯に全員が広がり、ある者は大きく蛇行を繰り返し、またある者は急発進急停車を何度も行っていた。
勿論これは、ふざけている訳では無い。
ましてや、日頃のうっ憤を晴らすために暴走行為の真似事を行っているという訳でも無かった。
これは正しく、コースを走るライダーとマシンに必要な行為なのだ。
サーキットの路面状況……つまり〝表情〟は、その日その時で違ったものを見せる。
当日の温度は勿論、湿度や風向に風量、路面に積もる砂や細かいゴミなど、レーサーの足を掬う天然のトラップはそこかしこに潜んでいるのだ。
またそれらは前日の状況にも大きく左右され、本番当日が快晴であっても前日に雨が降っていようものならば、路面が湿度を含んでいると言う事も考えられる。
そう言った観測では分かり得ない情報を、ライダーは実際に走りながら得てゆく。
「綺麗なコースだな―――……」
右に左へと車体を切り返しながら、千迅は初めて走るコースを心の底から楽しんでいた。
その心情が現れているのか、マシンもリズムよく千迅の操縦に応えている。
その姿だけを見れば、とても今日初めて250CCと言うマシンにまたがったとは思えない程であった。
そして、すでにこの
それは言うまでもなく、速水紅音であった。
「……うん。路面状況は悪くないわね」
未だ3分の1しかコースを消化していないが、全周で3Km程度のハーフコースならばコースの東西南北で路面状況が大きく変わる訳でも無い。
まだコースを一回りした訳では無いものの、紅音は経験上それを知っていた。
そして彼女達が、バイクを弄んでいる様な運転をするもう一つの理由は……タイヤだ。
本日は特に大きな問題とはならないだろうが、もしもこれがレース本番……スプリントレースであったならば、この行為は非常に重要となる。
気温や路面温度にも依るのだが、基本的にレース前のタイヤと言うのは冷えておりグリップ力が万全ではない。
当たり前の話ではあるが、タイヤを使用して走行するマシンの場合、タイヤの性能以上に走る事など出来ない。
バイクの作り出すパワーも、ドライバーのパフォーマンスでさえ、それらを路面へと伝えてこそ実現出来るのだ。
故にタイヤが冷えてグリップが万全でない状態のままでは、レース序盤で他車に大きく水を開けられてしまう。
タイヤを機械的に温める「タイヤウォーマー」と言う物もあるが、此れだと今度は温まり過ぎて通常よりも早く摩耗する。
大きな事情や作戦が介在しない限り、この装置は使わない。それならば、出来る限りレース内でタイヤのコントロールをする必要がある。
その他にもマシンのコンディション、自分の体調や感覚など、知るべき事は多い。
それらを知る為の、言わばウォーミングアップ走行が今千迅達の行っている走行なのだった。
そして一番の理由なのだが。
これは言うまでもない、千迅達が「NFR250Ⅱ」に乗るのは今日が初めてだと言う事だ。
それまで乗っていた「NFR50Ⅱ」と大きく違うマシンを少しでも早くものにしようと、様々な挙動を意図的に起こしてその特性を知ろうとしているのだ。
黙々と周回を重ねて6周目……。
「帆乃夏、スピードアップよ」
司令塔に居る千晶からの指示が、帆乃夏のヘルメットだけに齎される。
「は―――い、了解」
それを受けた前を行く帆乃夏が、僅かにスピードを上げる。
未だに多くの者が四苦八苦している状態であっても、当たり前だが帆乃夏には余力があった。
半年以上をこのコースで練習し、今や「ゼッケン2」を付けるライダーなのだ。初心者たちを先導するペースで、疲れる事などある訳がない。
「……ペースアップ!」
「ペースを上げたわね」
千迅と紅音は違う声音で、それでも同じ気持ちでそう呟いていた。
何とかバイクを走らせる事に慣れて来ていた他の新入生たちとは違い、既に千迅達はマシンの特性を大体掴んでいたのだった。
更にそれ以上の情報を得る為には、速度を上げた状態で知るしかない。低速と高速では、マシンの挙動からして全く違うのだから。
相変わらず先頭を行く帆乃夏に、千迅と紅音が真っ先に追走を掛け、他の生徒も何とか追随する。
「へぇ……。今年の新入部員たちは、結構優秀なんじゃない?」
その様子を見ていた美里が、先程の発言を改めて意見を述べ。
「ええ……。面白い事になるかも」
そして千晶は、美里の方を見る事無くそう答えたのだった。
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