遥かなるチェッカーの先へ

綾部 響

1.プロローグ

呆気ない結末

 ―――“聖歴”2015年2月。


 春もまだ遠く、冷たい曇天が空を覆っている。

 ともすれば1年で最も寒い季節と謳われる2月にあって、屋外であるにも拘らず大歓声がここ「ホンダ資立翔紅学園中等部 自動二輪サーキット」に響き渡っていた。

 黄色い声援に包まれたその場所では、何もアイドル歌手のコンサートが行われている訳では無い。勿論、タカラヅカ歌劇が演じられている訳でも無かった。

 それでもスタンドには大勢の観衆……いや、正確には全員がこの学校の生徒である女子中学生が集い、このサーキットのホームストレートに設けられているスタンドで、熱のこもった眼差しを2台のモーターサイクルに向けていたのだった。

 全員が女生徒である理由は至極簡単。この学校は男子禁制の女子学園であるから。

 そしてうら若き乙女たちがサーキットと言う場所で熱狂しているのは、この学園が「バイクレーサー」を育成する事に特化していたからである。

 勿論、一般入試の女子学生も多数在籍している。

 どれ程レーサーの育成に力を入れている学園と言えども、それだけで運営が成り立つ訳もない。実際の処は、全生徒の半分をそう言ったが占めていた。

 しかしどんなにモーターサイクルやその競技に無知であったとしても、周囲にその練習生や関係者が居り共に生活していれば、僅かでも興味が湧こうと言うものだ。

 そしていつしか、モーターサイクルの虜となる。

 今、この場にいる生徒たちは、少なくとも目の前で行われているマッチ・レースを食い入るように見つめる者たちばかりだったのだ。


 再び一斉に、叫声に近い声が湧き上がる。

 その声援を受けて、2台のレーシングマシンが最終コーナーを立ち上がった。

 僅かに前を行くのは、赤を基調にカラーリングされたモーターサイクル。ヘッドライトは付いておらず、その代りにその部分には大きく「1」の文字が描かれている。

 その後を追随するのは、青を基調にしたバイクだ。同じくヘッドライトの部分には「2」と鮮やかに記されていた。

 2つの赤と青は、その流線型のボディも相まって、まるで弾丸の如く大観衆の見守るホームストレートを疾走する。


「きゃ―――っ! 速水はやみ様―――っ! 頑張って―――っ!」


「負けるな―――、千迅ちはや―――っ! 今日こそ勝て―――っ!」


 大声援を受けているのは、その疾駆するモーターバイクのパイロット達だ。

 驚くほど小さなマシンに覆い被ろうかという程、2人の人物はバイクの背に当たるタンク部に自らの身体を押し当てていた。


 言うまでもなく、この激走するレーシングマシンをコントロールしているのはこの学校の生徒……女の子だ。

 では、女子中学生でも運転出来るのだから、このミニバイクは玩具の様な物なのか……と言えば、それはとんでもない話である。


 ―――NFR50Ⅱ。


 日本の……いや、世界を代表するモーターサイクルメーカー「本田技術工業」を代表する名機「NFR500」の最新鋭マシン「NFR500Ⅱ (エヌエフアール500 ツヴァイ)」。

 WGPの最高峰、WGP500に於いて常にトップ争いを繰り広げる、名実ともに世界最速のマシンであるレーサーレプリカ。その50CCモデルがこの「NFR50Ⅱ」である。

 排気量50CCとは言え、その仕様はレーサーマシンと遜色など無い。

 6速トランスミッションを持ち、その馬力はノーマルでも10.7PSに達する。

 最高速度は120Km/hを叩きだし、小型ながらに中々のじゃじゃ馬ぶりを発揮するのだ。

 そしてそれも、市販車レベルでの話。

 レーサー仕様ともなれば、ともすれば排気量で上回る250CCをも凌駕しかねないだろう。

 そんな凶悪な鉄騎を、2人の女子中学生は苦も無く操り、剰えデッドヒートを繰り広げていたのだった。


 2台のマシンは、まるで示し合わせたかのように縦1列となり、互いの前輪と後輪が触れるかと思われる程の距離しか取らずに、全速力で大観衆の面前を通り過ぎて行く。


 ―――スリップストリーム。


 後続車両が、前を行く車両の影に入る事で空気抵抗を軽減させ、前走者よりも少ないパワーで同様のスピードを出す事の出来るテクニックであり。


「ブレーキング勝負だわっ!」


「千迅先輩、やっぱりファイナルラップで勝負を仕掛けてきたわねっ!」


 レースにおいては、最も相手を抜き去りやすいテクニックの一つでもあった。

 そしてある意味その「常道」を地で行くかの如く、後方を走っていた青いマシン……千迅と呼ばれた少女は、第1コーナー手前でスリップストリームより飛び出して、前を行く赤いバイク……速水と呼ばれる少女のマシンへスルスルとカウルを並ばせた。

 その様子はまるで、玩具を見つけて無心に遊び続ける子猫の様に一切の躊躇がない。


「……千迅っ!」


紅音あかねちゃん、もらったよっ!」


 2人は並んだ状態で伏せていたカウルから勢いよく上半身を持ち上げ、目一杯風を受けて減速態勢に入った。

 千迅が無邪気な子猫ならば、それを受ける紅音はどこか堂々とした若き狼と言った処だろうか。

 勿論ヘルメットをかぶり、大爆音エキゾースト・ノートを轟かせている二人には、互いの声など聞こえようもない。

 それでも長く共に過ごしていた彼女達には、互いに相手が何を思い何を口走っているのかが分かっている様だった。

 そしてその言葉通り、千迅の駆る青いNFRが、僅かに紅音のマシンより前に出る。

 勝負は第1コーナーへどちらが先に侵入するか。少なくとも千迅はそう考えていた。

 もっとも、千迅の持ち味はこれ……所謂「突っ込み」しかなく、限界まで減速せずにコーナーへと突入し、その後ハードブレーキングにより一気に抜き去って相手を後方に従えた状態で立ち上がる……しか無かった。

 そしてそれは、長い付き合いである紅音にも手に取るように分かる事である。

 だから彼女は、そんな「チキンレース」などには付き合わず、比較的早い段階でブレーキングに入っており、だからこそ千迅はアッサリと紅音の頭を取る事が出来たのだった。


 最後の1周ファイナル・ラップと考えれば、容易に相手を前へ出すなど得策ではない。

 どれ程技術やスピードに自信を持っていた処で、必ずしも自分の思い通りに事が進展するとは限らない。それがレースと言うものである。


「……ふん」


「へっへ―――んっ!」


 それでも紅音は、千迅に前を譲るかの如く減速した。

 減速と言っても普通では考えられない程のスピード……具体的には時速70Km/hに達している。

 常人ならば怖気づくだろう速度であるにも拘らず、彼女達にそれを気にしている様子はない。

 千迅に抜かれたと言うのに、紅音の方に変化は見られず落ち着いたものだ。

 力ある獣は血気に逸る敵の示威行動にも動じないと言うが、紅音の姿は正にそれだった。

 そして千迅の方はと言えば、まるで恐れと言うものを感じていない。ただ無邪気に相手に絡み、全く物怖じしている風には見えなかったのだ。

 車体1つ分ほど抜き出た千迅は、それまで常に前を走っていた紅音のマシンを初めて従えてコーナーへと侵入を果たした。

 紅音に遅れる事およそ0.5秒後にハードブレーキング。直後にマシンをペタンと傾け、まるで倒す様にしてコーナーを攻略しようとする。

 それまで畳み込んでいた細い脚をニュッと付きだし路面に押し付ける様な姿勢のそれは、モータースポーツの醍醐味「ハング・オン」だ。

 美しいコーナリング・ポジションを決める千迅と紅音。

 このままであったならば、千迅は紅音を抑え込んでチェッカーフラッグを受けていただろうし、紅音は苦戦を免れなかったであろう。


 だが、しかし……。


「きゃ―――っ!」


 スタンドより、多くの悲鳴が沸き起こる。

 千迅がハングオンを決めた直後、彼女のマシンは後輪を、そして前輪を路面に滑らせて見事に転倒してしまったのだった。

 減速していたとはいえ比較的スピードに乗った状態での転倒で、千迅はマシンもろともコースアウトを余儀なくされ、そのままコースバリアと呼ばれる緩衝材へと突っ込んで行った。

 先程沸き起こった驚倒の声は、次の瞬間には溜息に取って代わっていた。

 そしてそんな千迅に動ずる事なく、紅音は見事なマシンコントロールを以てコーナーをクリアし、そのままコースを一人疾走して行った。

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