第四章

侯爵邸の舞踏会

 大広間に足を踏み入れた瞬間、騒めきは消えあたりは水を打ったように静まった。


 ウィンズロウ・ハウスから馬に乗って移動しなければならないほど離れた「隣家」、メルボーン侯爵邸は王宮と見紛うばかりの壮麗な城だ。

 そう、これはもう城だ。断じてタウンハウスなどではない。クラリスは恐れをなしながら、きらびやかに飾りつけられた建物に足を踏み入れた。


 シーズン最後の大規模な舞踏会だ。招待客は少なく見積もって五百人、最終的には六百人を超えると思われた。社交界の重要人物レディ・メルボーンことマージョリー・アンドレア・メルボーン侯爵夫人と、ルフトグランデ王国軍のトップである元帥オーガスト・イライアス・メルボーン侯爵の邸で開かれる、出席すること自体がステイタスになる舞踏会だからだ。


 五百人の出席者。クラリスは目眩を起こしそうだった。母国で出席した王宮主催の舞踏会と同じ規模だ。それを要人とはいえ貴族のタウンハウスで行うのだから、クラリスが呆然とするのも無理のないことだった。


 直前まで一人で赴こうとしていたアレクシスだが、ダンカンの説得によりしぶしぶクラリスの同伴に同意した。もしかしたらそれは、クラリスをがっかりさせたくなかったからかもしれない。


 準備万端整えたクラリスが現れると、アレクシスはダンカンとの話し合い――直前までクラリスを連れていくかどうかで言い争っていた――をやめた。

 髪を黒くしたクラリスは、同じ黒の新しいお仕着せを着ている。

 黒髪と黒い服に、肌は新雪のように眩い白。大きな瞳は珍しい菫色で、小作りな顔と相俟ってどこか浮世離れした雰囲気がある。しかも上質な生地で誂えたとはいえ型どおりのお仕着せだというのに、ほっそりとした身体を包む滑らかな黒い布地は、本人には無自覚の淡い色香を醸し出していた。男装であるが故の危ういまでの美しさは、美少年を性愛の対象とする者からしたら垂涎ものだろう。


 アレクシスは無言で責める視線を家令に向けたが、ダンカンは平気な顔だ。孫を見るような微笑みを浮かべてクラリスを励ました。


「客が大勢いますから、目立たないよう隅にじっとして、美味しい料理でも食べておいでなさい。どのみち注目は全て若に集まります。気負うことはありませんよ」


 主を生贄にするような物言いに反応を迷っていると、アレクシスはすぐに彼女の不安を取り除いた。


「メルボーン侯爵は国軍のトップだ。警備はしっかりしているし、身元の知れない者が入り込む余地はない。侯爵夫妻との挨拶が終わった後は、バリーの言うとおり食事でもして待っていてくれ。用件を済ませたらすぐに帰ろう」


 こくりとうなずいたクラリスの頭に、アレクシスの手が近づく。「若」とダンカンが名を呼んだことで止まった手は、小さく揺らいですぐに引き戻された。


「…………髪粉がついてしまいますので」


 こほん、と咳払いをした家令が指摘する。ぎこちなく顔を逸らしたアレクシスはすぐに馬車へ乗り込み、二人はメルボーン侯爵邸へやってきたのだ。

 アレクシス様は、私の頭を撫でようとしていたのかしら。クラリスはちらりとそう思ったが、すぐにそれを否定した。おそらく、頭にほこりでもついていたに違いない。それを取ろうとしてくれたのだろう。何となく気になって、クラリスは手で髪を整える。


 主だった客は後からやってくることが多い。それを踏まえて早めにやってきたというのに、馬車だまりには既に各家の馬車が連なっている。クラリスは肩に力を入れた。

 ダンカンからは、アレクシスが因縁の相手と揉める可能性があることを知らされている。クラリスの役目は、それをできるだけ穏便に収められるよう努力することだった。


 エントランスで招待状を確認していた従僕は、馬車の紋章でただちに客が誰かを見て取り、急いで執事を呼び寄せたらしい。侯爵家としては気の抜けない忙しい中だというのに、笑顔で出迎えた執事はアレクシスに恭しく頭を下げた。


「久しいな、ランス。元気だったか」

「おかげさまで達者にしております。アレクシス様も益々ご立派におなりで」

「それをバリーに向かって言ってくれ。いつまでも子供扱いされて敵わん」


 クラリスは軽口で応じる主が脱いだケープつきの外套を受け取ると、侯爵家の従僕に手渡した。同じように渡されたトップハットとエナメルの柄のステッキを別の従僕に預ける。名を名乗る必要もないのはアレクシスが重要な客である証拠で、流れるような手際はメルボーン侯爵邸に普段から訪れる来客の多さを物語っていた。


 執事自ら案内された大広間には、既に多くの客が集まり会話に興じている。

 高い天井ときらめくシャンデリア。管弦の調べが心地よく空間を満たし、催しへの期待感を否が応でも高めていた。


「まあ、アレクシスじゃないの! 本当に来てくれたのね。待っていたわ!」


 アレクシスが扉口に現れただけで一瞬広間は静まり、一斉に視線が集まった。更に響き渡るような大きな声で叫ばれて、クラリスは緊張で顔を強張らせる。美しく着飾った金髪の女性が、軍服姿の壮年の男性に腕を預けてこちらを見ていた。招待客が左右に身を引き、通路を作るようにしてサッと分かれた。


 ではこれが、舞踏会の主催者であるメルボーン侯爵夫妻ということだ。クラリスはキュッと唇を引き結んだ。

 ここから先はひたすら目立たず、控えめにしなければ。そして万が一にも自分の正体が暴かれることのないよう注意しなければならない。もちろん、アレクシスの従者としての役を果たしながら。

 と、力の入っていた肩に熱を感じて顔を上げる。するとそこには彼が、クラリスの主であるハリントン男爵アレクシスが細い肩に手を置き、冴えた視線を自らの従者に向けていた。

 一見すると厳しいくらいの目つきだが、ほんの少しだけ細めた目の色が優しい。励まされている、と感じたクラリスは背筋をしゃんと伸ばした。


 スッと足を踏み出したアレクシスは、従者を自分の背で隠すようにしながら侯爵夫妻へ向けて上体を折った。


「お招きに与り恐悦です」

「よく言うわ。何度招待状を送ったと思っているの? いつだって断りの返事ばかりだったじゃないの」

「お美しいレディ・メルボーン、どうかご容赦を。高貴な方々に囲まれて、卑賎の身にすぎない私は今にも気を失ってしまいそうです」


 侯爵夫人は親しい仲の気安さでフンと鼻を鳴らすと、アレクシスの全身に視線を走らせた。彼はジュリアナから玩具にされるのを断固として拒否し、自分好みの出で立ちでやってきた。即ち派手な装飾は一切省き、ただし布地は極上で、仕立ては最高の職人の手による完璧なもの、という姿だ。

 これほど格式の高い夜会で、もし他の者が同じ格好をしたらさぞみすぼらしく貧相だっただろう。しかし、アレクシスの素晴らしい容姿に堂々とした態度、恵まれた肢体と合わさると、例えようもないほど粋でエレガントに見えた。


「……相変わらず腹が立つほど素敵ね。そんな格好をして許されるのはあなただけだわ。その上着はどこで仕立てたの? うちの人にも似合うかしら」

「レディ・メルボーン。生憎この上着は肩と腕のラインが全てでしてね。年中剣を振り回している軍人が着れば、不格好な横皺で台無しになってしまうでしょう」

「まあ! 不格好ですって!?」

「ラブ、マージョリー。静かにおし」


 夫を侮辱されたと憤る妻を宥めながら、侯爵は軍人らしく厳めしい顔に笑顔を浮かべた。


「元気なようでなによりだ」

「元帥閣下。お久しぶりでございます」


 軍人らしく逞しい体は、長身のアレクシスよりも頭半分ほど背が高い。赤毛を短く整え、琥珀色の瞳を細めた侯爵は、彼の部下が見たら驚くほど気取らない調子で話しかけた。


「ゲイリーから連絡はないのか」

「先月届いた手紙が最後です。今頃は船でどこかを彷徨っているかと」


 メルボーン侯爵オーガストは、アレクシスの父と昔から親しく付き合ってきた。妻を喪った傷心のゲイリーが、辛さに耐えかねて国を離れたことも理解している。


「そうか。……仕事のほうはどうだ。困っていることがあったら相談してくれ」


 メルボーン侯爵家は領地からの収入と、元帥として国から受け取る俸給で成り立っている。保有資産で言えばハリントン男爵家とは比較にもならない。

 だが、侯爵が気に掛けているのは金のことではない。戦場では鬼神と呼ばれる彼の優しさを、幼い頃から夫妻に可愛がられてきたアレクシスはよく知っていた。



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