月と僕と君と
環
第1話 あと10分だけ
仕事が終わり、帰路につく。
いつもの時間、いつもの電車に乗り、いつもの駅に着く。
電車を降りて、改札を通ったあと間髪入れず、スマホの着信音がなった。
僕の彼女から。
まるで僕が改札を出るのを見ていたかのようなタイミングでスマホが鳴った。
なんてことはない。
いつも乗る電車が時間通りで、僕もいつも通りの経路で改札を出ただけ。
スマホの向こうで彼女の「お疲れさま〜」って挨拶なのか、話の取っ掛かりなのか、いつも通りの声が聞こえてきた。
僕も挨拶代わりに「お疲れ様」と鸚鵡返しに言う。
そのあとは彼女の話がスマホから流れてくる。
僕は話を半分も聞いてないけど、適当なところで「うん」「へぇ」「ふーん」「そうなんだ」「なるほど」って相槌を打つ。
結構タイミングが大事なんだよ。
駅から出ると、家路につく人たち、バス停に並ぶ行列。
薄暗くなった街に商店街の看板のネオンがギラギラとして目が痛くなる。
店が十数軒並ぶ商店街の通りを抜けると、途端にポツンポツンと街灯が並ぶだけのうら寂しい住宅地に出る。
少し傾斜がついたゆるい坂道。
その住宅地の一角に僕の住むアパートがある。
そのゆるい坂道を歩いていると、僕の少し右斜め上に赤い月が見えた。
今夜の月は血のように赤い。
会社の女子社員たちが今夜はナントカムーンだって話していたっけ。
赤い月は空の低いところに浮かび、
僕の少し右斜め上、僕を見つめながら並んで僕に寄り添うように歩く。
スマホの向こうでは彼女が何か話している。
僕は左手にスマホを持ち、耳に当て、適当に相槌を打ちながら、目の端に見える赤い月と並んで歩く。
赤い月は僕の部屋の前までついて来た。
スマホの向こうの彼女の声がやっとハッキリ聞こえてきた。
「もう部屋に着いたの?そろそろ切ろっか?」
遠慮してなのか、なんだか寂しそうな声で聞きてきた。
「いや、もう少し君の声が聴きたい」
赤い月を見ながらそんな言葉が出てきた。
本当は彼女の声なんかどうでもいいんだ。
もう少し、あと10分だけ。
月を見ていたかっただけ。
ドアの鍵を開け一度部屋に入り、冷蔵庫からビールを持ってきて、部屋の玄関前の手すりに寄り掛かり、左手にスマホを持って、スマホから聴こえてくるテンションが上がったBGMに相槌を打ちながらビールを口に含む。
ゴクリとビールを飲みながら赤く艶やかに光る月を眺める。
あと10分だけ。
このビールを飲み終わるまで、僕と一緒に居てくれないか。
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