第3話 そういうこと
「いらっしゃ〜い」
いつものマスターの、のほほんとした声に迎えられて、ほっとする。
「はぁ、疲れたぁ」
誰に言うわけでもなく、心の声が溢れた。
「2週間ぶりだけど、また海外?」
「違うけど、毎日終電近くまで残業よ! ブラックすぎるでしょ、本気で転職考えようかと」
「大変だねぇ、確かに顔色少し悪いかも」
「もうね、目の下のクマが消えなくて……明日は一日中寝倒してやるわ」
いつものカクテルを置いて、おつかれさまと労ってくれた。
はぁ、美味しい。
時折、マスターと世間話をしつつ、久しぶりに仕事を忘れた至福の時間を堪能した。
「マスター、そろそろ」
と言うと少し驚いたように。
「え、もう? 美佐ちゃんちょっと待って」
と、何やら作ってくれた。
「これサービス。暖まるから、ゆっくり飲んで」
「えぇ、ホットワイン? マスターありがとう」
猫舌の私は、ふぅふぅさせながら少しずつ舐めるように飲む。
「ん、やっぱ美味しい」
ホットワインが半分程になった頃。
「マスター、いつものお願いします」
と言う声が隣から聞こえ、その声に体が反応した。
「雫?」
横を向くと、やっぱり彼女だった。
「お久しぶりですね、美佐さん」
と笑顔で言うと直ぐに前を向いた。
「マスター、ありがとうございました」
「どういたしまして」
テーブルには、私もいつも頼むカクテルが置かれた。
「いつのまに常連さんに?」
「居心地が良くて、このお店。マスターも優しいし」
「しーちゃん、ほぼ毎日来てくれてたよな」
「そんなことないですよぉ、週5です」
しーちゃんって? マスターの鼻の下を伸ばした顔を見たら、なんだかムカついた。
「ところで美佐さん」
「はい?」
「お聞きしたい事がたくさんあるのですが」
そう言われて横を向く。
改めて雫の顔をよく見ると、口角は上がっているもののーー目が笑っていない?
それに、なんか違和感があると思ったのは敬語が固いし「みーちゃん」と呼ばないからか。
「もしかして、何か怒ってるの?」
それまで近くでニコニコしていたマスターが、スーッと離れていった。
一瞬で作り笑いがなくなった。
可愛い子が怒ると、なかなか迫力がある。
「ごめん」
つい、口走ってしまう程に。
「何の謝罪ですか?」
やばい、更に怒らせてしまったらしい。
「えっと、その……」
「最悪ですね」
「私、何かしたかな?」
致したけれど、あれは同意があったというか、むしろ誘われた感じだし。
「なんで先に帰っちゃったんですか?」
「仕事あったし、気持ち良さそうに寝てたから。メモにも書いたよね?」
あの日は朝イチで出張の報告をしなきゃいけなくて、先に出た。宿泊代は払っておいたから迷惑はかけてないと思うけど。
「じゃぁ何で、ちっとも連絡してくれないの?」
少し声が震わせながら、ずっと待ってたのに、と言う。
「えっ、だって連絡先ーー知らないよ」
「は?」
しばらく無言で見つめ合った。
何かが食い違ってるようだ。
「名刺渡しましたよね?」
「あぁ、うん。でも職場にかける程の要件でもないしーーって、ん?」
雫の眉間に深い皺が寄った。可愛い顔が台無しだわ。
「みーちゃん、もしかして裏見てないとか?」
「裏? 名刺の?」
まさか。
急いでバッグの中の財布から、雫の名刺を取り出した。
裏にはしっかりと携帯の電話番号が手書きで書かれていた。
「ごめん」
「それは、何の謝罪?」
「気付かなかった馬鹿な私をお許しください」
ほんとバカ、小さく呟いたけれど眉間の皺はなくなっていた。良かった。
「じゃぁ、はい」
雫が右手を差し出した。
「ん?」
「お名刺を頂戴出来ますか?」
「あ、はい」
慌てて名刺入れから取り出したソレの裏に、番号を書いて渡した。
雫はじっと見て、微かに笑った。
「出ましょうか」
雫の言葉に、私は抗う術もなくバーを後にした。
「どこ行くの?」
「みーちゃんは、どこに行きたいですか?」
うーん、この場合どう答えるのが正解か。また怒らせたくはないから、雫が行きたいであろう場所を考えてみたけれど。もう少し飲む? またはホテル? でも3回続けてホテルというのもなぁ。
いろいろ考えていたら面倒になって。
「疲れたから家帰って寝たい」
ここはもう正直に答えた。
「ん、そうしよ」
あ、良かった。今日は本気で疲れているからその方が助かる、と思う反面ちょっと寂しいかな、でも連絡先も交換したしまたいつでもーーって、あれ?
「一緒の方向?」
「一緒に行きますから」
当然のように言う。
「え、待って。うち来るの?」
「はい、何かまずい事でも? 誰かいるとか?」
「いないけど……今はかなり散らかってる」
最近ろくに掃除もしてないしーー今朝の部屋の状況を思い出してみる。
「あ、残業続きでしたっけ。大丈夫ですよ、私そういうの気にしないので。なんなら一緒に掃除しましょうよ、こう見えて私、得意ですから」
ニコニコしている。掃除好きなんて家庭的なーー
「いやいや、そうじゃなくて。ん? 残業続きって何で知ってるの?」
「ん? みーちゃんのことならなんでも分かるんですよ」
「もしかして、雫、マスターと?」
しーちゃんなんて、馴れ馴れしく呼んでたし、毎日通ってたって言うし。
嘘、まじで?
「違いますよー何勘違いしてるんですかぁ。なんであんなオジーーじゃなくて。とにかく私、そんなに節操なしじゃありませんから」
「そうだよね、あんなオジサン相手にしないよね、はぁ、良かった。え、じゃなんで?」
「なんでもいいじゃん、もう行くよ!」
「えっ、待って」
結局、連れて来てしまった。
気付いてしまった。私は、雫の押しに弱い。
「うっわぁ」
「ごめん、汚い部屋で」
「いや、思ってたほどではないですよ、物が散らかってるだけでしょ」
まぁ、ここ2週間ほどは、寝に帰るだけの生活だったから、それほど汚れるわけではない。服とか食器類を片付けるだけで、なんとかマシになった。
「結局、手伝って貰っちゃってありがとね」
「どういたしまして。二人でやれば早いでしょ。ねぇ、この部屋は?」
「そこはいい! 寝室だから、私がやる」
「ふぅん、いろいろ隠したい物があるのかぁ」
なんてニヤニヤしてるし。
「はっ、ないよ! そんなの、使ってないし」
ムキになって言えば、キョトンとして、それから爆笑してた。
そんなのって何だよーって。
「ほんとに疲れてるんだね、お風呂に入って温まった方がいいんじゃない? お湯ためてくるよ、入浴剤とかある?」
「え、いいよ。それくらい自分で出来るし」
二人で押し合いへし合い浴室へ行くが。
「っていうか、スイッチ押すだけだったね」
クスクスと笑いあう。
ふと目が合って、キスをした。
軽いやつだよ、チュッとリップ音がして、すぐに離れる。
なのに、その瞬間。雫の顔が真っ赤になって、目が泳ぐ。
えっ、今、完全にそういう雰囲気だったよね?
そんなファーストキスみたいな反応されて狼狽えた。
「お、お茶でも入れようか」
そそくさとキッチンへ移動した。
「あ、雫は何か飲む? 私はホットワインまでいただいちゃったから、もうお酒は充分だけど、雫は飲み足りないよね?」
冷蔵庫から酎ハイを何本か出しながら、自分が発したホットワインという言葉に妙な引っ掛かりを感じた。
あれ、何だっけ? まぁいいか、
程なくして、お湯が溜まったピーピーという音がしたので、酎ハイをチビチビ飲んでいる雫を残し、私はお風呂へ入った。
気がつけば朝だった。否、もうすぐお昼じゃないか。
隣には、雫がいた。
満面の笑みで、おはよと言った。
可愛い子は、朝から可愛いんだな。
あれからーーお風呂から上がってからーー
雫が入れ違いにお風呂へ行って、私は自分の服の中から雫の着替えになりそうなのを選んで脱衣所に置いて、寝室の片付けをしながら……
しながら、寝落ちした?
それ以降の記憶がないや。
ゆっくりと自分の体を確認する。ちゃんとパジャマを着ている。
雫も私の部屋着を着ている。
「何もしてませんよ?」
寝込みを襲う趣味なんてないし、と言う。
「ん、ごめん」
「みーちゃんは、すぐに謝るんですね」
「え、だって。掃除までしてくれたのに」
雫は呆れた顔をした。
「みーちゃん、私のこと何だと思ってるの? 頭の中、えっちな事で埋まってるとでも? バーで会った時から、するつもりなんてなかったよ。あんな疲れた顔して、心配したんだからね。ちゃんと休んでほしかっただけですよ」
「しずくぅ」
「お腹空いた? 何か作りましょうか。みーちゃんは寝てて」
「待って」
起き出そうとした雫を引き留めた。
もう少しこのまま、くっついていたい。
「しょうがないなぁ」
と言いながらも嬉しそうに、抱きしめてくれた。頭をヨシヨシと撫でるおまけ付きで。
「ねぇ雫、ホットワインって」
その態勢のままーー雫の腕の中でーー聞いた。
「あのホットワインは私を引き留めるためだったの?」
「あぁ、バレちゃったか。もし私がいない時に美佐さんが現れたら引き留めておいて欲しいって頼んでたんです」
「そんな、私は逃げも隠れもしないよ」
「あの時は避けられてると思ってたから、必死だったんですよ」
「ねぇ、それってーーそういうことなの? 私の勘違いじゃなくて?」
勇気を出して、顔をあげて見つめた。
雫は真面目な顔をしてた。
「みーちゃん、私。みーちゃんの事がーー」
「待って、言わないで」
「うっ」
一瞬で哀しげな顔になって。
「私から言わせて」
驚きの顔になる。あぁ、私はどの顔も。
「好きーー雫が好き」
「み、みぃ…みーちゃ……」
途中で泣き出した雫を、今度は私がヨシヨシした。雫の方が猫みたいだなぁと思いながら。
少しだけ微睡んだ後、何か作るからって嬉しそうに起き出したと思ったら、冷蔵庫の中に何も入ってないって怒り出す雫。
「じゃ、食べに行こうよ」
と言う私に。
「嫌だ、今日はずっとここにいたい」
と、駄々をこねる。
結局ピザを取ることにして、それでもピザだけじゃぁと、冷蔵庫の中にある数少ない食材でスープを作ってくれた。
「うわっ、美味しい。料理の才能あるんだね」
「みーちゃん、褒めすぎだよ」
それでも、満更でもないような顔をする。
こうやって少しずつ。
知らなかった一面を知っていく。
そして、好きを積もらせていく。
いや、いきたい。
決して溶かさぬように。
「そういえば、雫、ごめんね」
「今度は何?」
「ホテル、先に出ちゃった事謝りたくて。今日、目が覚めた時に隣に雫がいてくれたじゃない? あの時とっても幸せだった。だから、一緒にいた人が朝起きたらいなくなってるなんて、私、酷いことをした。ほんとごめん」
「うん、分かったならそれでいいよ。もう勝手にいなくならないでね」
「ん、約束する」
いつの間にか雫の顔が目前に迫って、誓いのキスだよと、私の大好きなものが降ってきた。
そのまま押し倒されて気付く。
「今回はしないんじゃなかったの?」
「前言撤回」
慎んで、もとい、喜んで受け入れよう。
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