(一)十三人の合議制
一一八二年、源頼朝の嫡男として鎌倉の比企
生まれながらの『鎌倉殿』である頼家は、古今に例を見ないほどの武芸の達人として成長していった。
・・・・・ 政子は自らの手で育てることを望んだのだが、頼朝は自分を養育
した比企氏に預けることを決めた。比企一族は関東の大豪族でな、京の文化にも
精通しておった。源氏の嫡男としての教養を身に付けさせるためというのが表向
きの理由ではあったが、本当のところは北条に権力が集中することを避けたかっ
たのではなかろうか。比企にとっても、頼朝の後継を囲い込めるとあらば言うこ
と無しじゃからの。
建久十年(一一九九)正月、父・頼朝が死去。頼家は十八歳で家督を相続する。
さっそく頼家は、初期の『鎌倉殿
十三人とは、武家より北条時政、比企能員、和田義盛、梶原景時、足立遠元、三浦
義澄、八田知家、安達盛長の八名、京より下った文官の大江広元、中原親能、二階堂行政、三善康信ら四名、それに家子代表として北条義時も加えられた。
・・・・・ 鎌倉殿沙汰とはな、過去には頼朝が
将軍権威の象徴であった。所領安堵と訴訟の差配、この二つを駆使することで
御家人たちは将軍に忠誠を尽くすわけじゃからの。しかし幕府の所領が全国に
広がるにつれて訴訟案件も増え、頼朝でさえ重要なもの以外は諸機関に決定を
委ねるようになっておった。
頼家は過去の制度を復活して自らの権威を高めようと考えたのだがな、大量に
押し寄せる案件に一人で対処できるはずもなかろう。当然のこと訴訟は
御家人の不満は鬱積した。そこで若い頼家を補佐すべく、北条氏をはじめ有力
御家人による合議制が導入されたというわけじゃ。
これは訴訟の取次を十三人に限定しようというものでな、問注所の機能を整備
することが目的じゃった。もちろん、将軍に権力が集中するのを避けようという
御家人たちの思惑があったとも考えられるがの。
この頃、京では一条能保・高能父子に仕えていた後藤基清、中原政経、小野義成ら
三人の武士が土御門通親の襲撃を企てるという事件があった。しかし
三名とも
・・・・・ 通親は頼朝が死亡すると直ちに自らを右近衛大将に任じてな、頼朝
の後嗣である頼家を支配下に置いた。まるで頼朝の死を事前に知っていたかの
ようであった。これに疑念を抱いた梶原景時は京の反鎌倉勢力の
三人に通親の襲撃を命じたのじゃ。
三人とも鎌倉の御家人でな、頼朝から京の一条能保に預けられておったのだが、
事件の前年には能保・高能父子とも揃って亡くなっていた。三人はその死因にも
疑問を持っていたという。
後鳥羽院は通親を保護し、朝廷とも繋がりの深い大江広元に救いを求めた。広元
は公家じゃからの、京にも人脈が広く長男は通親の
知らぬ頼家は、広元に言われるがまま三人の討伐を命じたのじゃ。
更には頼朝と親交の深かった
朝廷は反鎌倉派が
儂も黒幕の一味じゃと言われて隠岐島に流されてしもうたわい。
ある時、景時は「御家人の一部に謀叛の疑いが有る」と頼家に注進した。
これに対し、三浦義村、和田義盛ら諸将六十六名による景時
あった相模国一ノ宮に退いた。
翌年、景時は上洛の途中、駿河国清見関で在地の武士たちと戦闘となり一族三十三人共々討死にしてしまう。
・・・・・ 「景時を取るか、我々六十六の御家人を取るか」と突きつけられて
はな、いかに将軍とあっても抵抗出来るものではあるまいて。
景時は朝廷に仕えようと一族を率いて京に向かっていたのだが、駿河国でとんだ
災難に出くわしてな・・・、
そうそう、駿河の守護は時政じゃった。何か臭わんかい。
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