(二)法住寺合戦

義仲は比叡山を味方に付けると、その軍勢をもって京の町を包囲した。平家の中に

動揺が走る。その隙を見て後白河法皇は比叡山に脱出した。

法皇に見限られた平家は、安徳天皇とその母・建礼門院を伴って西国へと逃れた。

京から平家を駆逐くちくした義仲は朝廷より従五位下・左馬頭さまのかみに任じられる。これにより

流人であった頼朝の立場を超えることとなった。


  ・・・・・ 安徳天皇が即位してからというもの、高倉上皇が崩御ほうぎょ、清盛も

  死没、更に二年に亘り干ばつや洪水に見舞われるなど、京では悪しきことが

  続いておった。大凶作となって餓死した者が道に溢れるほどじゃった。

  義仲は京を囲む時、西方だけは開けておいた。都を戦場いくさばにせぬようにとの配慮

  でな。宗盛は当然のこと、四宮も伴って西国に落ちるつもりでいたはずじゃ。

  いくら幼い天皇と『三種の神器』を押さえてはいても、四宮を京に残したまま

  では何をしでかすか分からぬでな。

  しかし四宮は平家の目をあざむいて、まんまと比叡山に逃亡しおったわい。


平家が京を去った後、御所に戻った後白河法皇は高倉上皇の皇子、当時四歳の尊成たかひら親王(後の後鳥羽天皇)の践祚せんそを決めた。安徳の腹違いの弟である。

しかし義仲は、「以仁王の令旨があってこその平家追討であり、北陸宮こそが正当

な後嗣である」と強硬に主張した。義仲は「武士にあるまじきこと」と朝廷の反感

を買うこととなる。

法皇は邪魔になった義仲に節刀せっとうを与え、平家追討のため西国に向かうよう命じた。


  ・・・・・ 皇位継承への介入は『治天の君』の権限侵犯に当たるでな。

  更に悪いことに、義仲の軍勢は宋銭を用意しておらなんだ。京は貨幣経済が進ん

  でおったので、銭が無いと食糧の調達さえも思うようにならん。やむなく略奪を

  繰り返すなどして都の治安を悪化させてしもうた。それも西国へ追われた理由の

  一つじゃろうて。

  義仲は以仁王の一宮を新帝に立てて、後白河の独裁を改めさせる考えであった。

  しかし四宮は院政の復活を目論んでおったのだから、そりゃ対立も生じるわな。


西国では平家が体制を立て直しており、義仲は苦戦を強いられていた。

その裏で法皇は頼朝に上洛を要請する。平治の乱で接収した位階いかいを復すると東海・

東山両道諸国の支配権まで与えた。その弟が大将となり数万の兵を率いて上洛する

という。このまま頼朝の軍勢を京に入れたのでは平家との挟撃に遭う恐れがある。

義仲は西国での戦いを切り上げて急ぎ京に戻った。

後白河法皇は院宣に背いて京に戻った義仲を責め、再び平家討伐の命令を下した。

しかし義仲は法皇と決別、京で頼朝と雌雄を決する覚悟を決める。法皇は比叡山や

三井寺の協力を得て僧兵を集め、摂津源氏・多田行綱や美濃源氏・源光長らと共に

法住寺殿ほうじゅうじどのに籠もって義仲の襲撃に備えた。

義仲は御所を襲って法皇を拘束する。この戦いで比叡山の座主・明雲や三井寺の

長吏・円恵法親王ら、法皇に味方した者たちはことごとく討ち取られてしまった。

                              (法住寺合戦)


  ・・・・・ 既にこの頃、朝廷に居場所のなくなった北陸宮は戦を避けるため

  嵯峨に隠棲いんせいしておった。義仲に支えられて京には戻れたものの、その義仲が

  朝廷と対立してしまってはな、静かに御所を去るほかあるまいて。

  後ろ盾を失った義仲は、平家と同盟を結んで頼朝に対抗しようとも画策したの

  だが、当然のこと宗盛はこれを拒否した。そりゃ平家としては京を追い出され

  た相手じゃからな。


義仲は強引に自らを征東大将軍に任命させると、頼朝討伐の宣旨まで引き出した。

しかし翌一一八四年、範頼が鎌倉から援軍を率いて義経と合流、範頼軍は近江瀬田

から、義経軍は山城田原から義仲軍を攻撃する。義仲は宇治川や瀬田での戦いで

惨敗ざんぱいを喫し、敢え無く粟津にて討死にとなった。享年三十一。


  ・・・・・ いくら宣旨を掲げてみたところで、今さら義仲に味方する者など

  おらんわな。打つ手が無くなった義仲は北陸に逃れようとしたのだが、結局は

  それも叶わなんだ。清廉で心温かき武将でな、中原兼遠の息子ら木曾四天王と

  呼ばれた家臣たちは最後まで義仲と行動を共にしたという。

  巴御前のことは知っておろう。兼遠の娘で、義仲の側室として戦でも行動を共に

  しておった。色白で容姿端麗、そればかりでなく武芸においても屈指の強者つわもの

  あったという。最後の最後、義仲は巴に戦場から落ちるよう命じた。涙を流して 

  拒否をする巴に、一族の菩提を弔うことこそが奉公じゃと言い聞かせてな。この

  時、義仲の子を宿しておったのではないかとも聞いておる。男子であれば立派な

  武者となったであろうな。生きておればの話ではあるがな。


  義仲は源氏の御曹司おんぞうしとして期待され、木曾の軍勢を預けられておった。一方の

  頼朝は流人るにんだったのでな、自らの家臣など持ってはおらぬ。北条など東国の豪族

  に支えられての挙兵とあっては、相当に気も遣わねばならんかったであろうよ。

  生い立ちを見れば分かるじゃろう。苦労知らずで育った義仲は頼朝に比べると

  脇が甘くてな、とても政治的に太刀打ちできるすべなど持ち合わせてはおらなんだ

  のじゃ。

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