(一)源氏の嫡男

一一四七年、武家源氏・源義朝の三男として生まれる。母は熱田神宮大宮司・藤原

季範の娘・由良御前。義朝の正妻であり、頼朝は三男ながら源氏の嫡男とされた。

保元元年(一一五六)、父・義朝は平清盛らと共に後白河天皇に従って崇徳上皇方に勝利する。

平治元年(一一五九)、二条天皇親政派と後白河院政派の対立が深まる中、義朝は

院の近臣・藤原信頼らと謀って信西の排除を狙い三条殿焼き討ちを決行した。しかしこの戦いで平家に敗れた源氏一門は京を落ち、義朝は尾張国で討たれてしまう。

頼朝は義朝一行とはぐれて逃避行とうひこうを続けたが、尾張国を知行地としていた平頼盛の

郎党・宗清に捕縛された。


  ・・・・・ 頼朝には数人の乳母が付けられていたのだが、主には比企ひきの尼に

  養育されておった。比企氏とは武蔵国比企郡(埼玉県)を領した藤原秀郷ひでさと

  末裔まつえいでな、源氏の嫡男として京の文化・教養と併せて関東武士の精神をも身に

  付けさせようとの配慮からであろう。

  平治の乱が起きる前には右兵衛佐うひょうえのすけに任じられてな、この頃から『佐殿すけどの』と呼ば

  れるようになっておったのじゃ。


頼朝が上西門院の蔵人くろうど(秘書的な業務)を務めていたこともあり、院とその近臣であった熱田大宮司家が清盛の継母・池禅尼いけのぜんにに助命を働きかけた。

「幼き者の命を奪うは仏の道に反しましょうぞ」

池禅尼は懸命に清盛に訴える。

「源氏の血を引く男子おのこを生かしておくことなど、できようはずがありませぬ」

清盛は継母の願いをねつけた。

他にも、頼朝の姉を妻としていた一条能保よしやすが叔父の藤原基家を頼って平頼盛に願い出た。基家は頼盛の娘を妻としていた。

「信西と同じ所行をしたとあっては、後々に禍根かこんを残すことにもなりましょうぞ」

頼盛もまた母・池禅尼とともに頼朝の助命に奔走ほんそうした。


  ・・・・・ 頼朝は既に元服げんぷくを済ませて戦にも参陣しておった。とても助命

  など望める立場ではなかったのだが、おそらくは上西門院が四宮を通じて強く

  清盛に働きかけたのであろうよ。

  信西は死刑を復活したことで武士の恨みを買うたのでな、これが自らの命を縮

  めたと言うてもあながち間違いではあるまい。頼盛の諫言かんげんを受けて、さすがの

  清盛も死刑は避ける方に傾いたようじゃ。


時を同じくして、平家の目を逃れていた常盤御前が三人の稚児ちごを連れて自ら出頭してきた。都で一二を争う美女と言われた常盤が、自らの身を呈して子供たちの助命を

懇願する。

清盛は池禅尼や頼盛の嘆願を採り上げて頼朝を伊豆へ配流とし、常磐の子である

今若・乙若・牛若の三人は仏門に入ることを条件に命を助けることにした。


  ・・・・・ 義朝が寵愛した女を手に入れる、勝者となった清盛の欲望もさぞ

  かしうずいたことじゃろう。しかし常盤の子ばかりを許して女を自分の物にした

  とあっては周囲に示しが付かんからな。

  頼朝という奴は、ほんに運の強い男じゃて。平頼盛の郎党に捕まったことが

  まずもって幸運であったわい。頼盛は忠盛の正室・池禅尼の実子だったのでな、

  異母兄の清盛やその嫡男・重盛ら一族とは微妙な距離があったのやも知れぬ。

  後に平家が源氏に京を追われた時のことじゃがな、頼盛は平家一族と共に西国

  には落ちず鎌倉の頼朝を頼った。頼朝も命の恩人を温かく迎えたと言う。

  壇ノ浦で平家が滅びたと聞いて頼盛は東大寺で出家してな、心静かに生涯を

  終えたと聞いておる。

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