第四章 源義朝
さて、話を源氏に戻すことにしよう。
源頼朝の父・義朝は一一二三年、河内源氏の棟梁・源為義の長男として生まれた。
白河天皇の時代、源氏は一族の内紛により
張る平氏に対し、為義は嫡男・義朝を関東に、八男・為朝を
・・・・・ 少年期に関東に下ることになった義朝は、
育てられた。そこで相模の三浦義明や大庭景義ら有力な在地豪族を
な、高祖父・頼義以来ゆかりの鎌倉は
若くして南関東の武士団を統率したということで、義朝の活躍は都にも知られる
ようになっておった。
義朝は一一四五年、熱田大宮司・藤原
由良御前との間には嫡男である頼朝(三男)、義門(早死)、
近衛天皇の中宮・九条院
全成)、
・・・・・ 義朝は三男の頼朝を嫡男と定めた。由良御前の実家は院の近臣だっ
たのでな、京で正妻にしたというわけじゃ。
鎌倉では三浦氏の娘との間に長男・義平、相模の大豪族・
次男・朝長を儲けておった。それで鎌倉を義平に任せて京に上って来れたのだ。
そうそう、他に六男・
鳥羽上皇は寺社勢力の鎮圧や院領支配を確かなものとするため、東国武士団を率いる義朝を従五位下・
近衛天皇が崩御したことで、守仁親王を養子とする美福門院や関白・忠通らの勢力と、崇徳上皇派の藤原忠実・頼長父子らとの対立が激しくなる。義朝は忠実に仕える父・為義や、頼長に仕える義賢らと
・・・・・ 義朝は
じゃ。ただでさえ関係が上手くないところに、仕える先まで対立したために
源氏の勢力は真っ二つに分かれてしもうた。
保元元年(一一五六)、崇徳上皇と後白河天皇の争いが生じる。義朝は天皇方として東国武士団を率いて参陣し、味方の勝利に大きく貢献した。
義朝は自らの戦功に替えて敗者となった父・為義らの助命を訴える。しかし信西はこれを却下、義朝は父や幼い弟達の首を斬らせられた。
・・・・・ 保元の乱では、誰が見ても義朝の戦功が第一であった。しかし清盛
が播磨守に
なかった。おそらく信西は清盛を味方に引入れるに際して相当な
ていたのであろうな。
源氏は義朝の父・為義や為朝ら兄弟など、一族の大半を失うこととなった。これ
に対し平家は清盛の叔父・忠正を失っただけで、勢力のほとんどを温存できた。
抜け目のない信西はな、自らの権力を維持せんがために清盛と手を組んだに違い
ない。信西に対する義朝の不満は
乱からおよそ二年の後、後白河天皇は譲位を求められ守仁親王(二条天皇)が即位した。すると今度は院政派と二条親政派の
平治元年(一一五九)、清盛が
・・・・・ 義朝の軍勢は子息の義平、朝長、叔父・義隆、信濃源氏の一族など
であった。しかし鎌倉から参陣した義平は、以前に叔父・義賢を滅ぼしたことで
「
なんだ。
義平は清盛の帰路を討ち取るよう強く求めたのだが、信頼の阿呆はこれを退けお
った。嫡男の信親が清盛の娘と婚姻関係にあったので、清盛も我れに従うはずと
気を許していたようじゃ。
信頼は院と二条天皇を幽閉する。しかし二条親政派が、天皇を
清盛は
義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが兵数で大幅に上回る平家軍に迎え撃たれ、ついに源氏は六条河原にて壊滅的な敗北を喫することとなった。
・・・・・ 天皇を平家に奪われてはな、義朝らは一転賊軍じゃ。
義朝は再起を図るべく勢力基盤が残っている東国を目指した。しかし尾張国まで
辿り着いたところで
殺害されてしもうた。
この時、一緒に逃げていた嫡男の頼朝が一行からはぐれたのだが、これが後々に
吉と出るのだから世の中とは分からんものじゃ。
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