(三)東国の反乱

一一七八年、高倉天皇に入内じゅだいした娘の徳子に言仁ことひと親王(後の安徳天皇)が誕生した。天皇家の外祖父となった清盛は後白河法皇の引退を画策する。

これに対して後白河は、翌年に基実の後家・盛子(清盛の娘)が死亡すると直ちに

荘園を取り上げ、更に七月、重盛が病死すると知行国であった越前国を没収した。

人事においても二十歳の近衛基通(基実の嫡男)を差し置いて、八歳の松殿師家まつどのもろいえを権中納言に任じる。

清盛は福原から大軍を率いて上洛するや、後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉する。ここに後白河院政は完全に停止されることとなった。(治承三年の政変)


  ・・・・・ この人事は摂関家嫡流の地位を松殿家に継承させるものでな、近衛

  家に肩入れしている清盛が激怒するのは当然のことであった。清盛は高倉天皇の

  名のもと強権をもって反平家の院近臣を全て解任し、替わって関白として近衛

  基通を任官したのじゃ。

  これは平家による政変(クーデター)と断じても間違いではない。


一一八〇年、高倉天皇が譲位し、言仁親王(安徳天皇)が践祚せんそした。名目上は高倉

上皇の院政だが、実態は清盛の傀儡かいらい政権である。東国に対しても清盛の締め付けは激しくなり、当然のこと全国には反平家の動きが広がっていく。

後白河の第三皇子・以仁もちひと王は院を救出しようと源頼政と謀って挙兵を決意、全国の源氏に向けて平家打倒を促す『令旨りょうじ』を発した。以仁王と頼政は平家軍の追討を受けて早々に敗死してしまうが、令旨は既に各地に届いており、源頼朝や木曾義仲などの源氏勢力が東国で兵を挙げる。

清盛は平維盛を総大将とする四千の兵を関東に派遣したが、富士川で相対した源氏の連合軍は四万にも達しており、維盛は交戦もせぬまま撤退してしまう。これに加えて寺社勢力、特に園城寺や南都興福寺などにも反平家の動きが見られ、清盛は守りに適さない京を放棄して福原に都を遷した。


  ・・・・・ 『令旨』というのは皇太子や親王が用いるものでな、天皇の

  『ちょく』や『宣旨』、上皇の『院宣』ほど重きが置かれるものではない。しかし

  東国の武士は平家への不満が募っておったので、これを掲げて挙兵へと起ち上

  がったのじゃ。

  伊勢平氏の流れを汲む清盛や弟・頼盛は、福原、厳島、大宰府だざいふなど西国を拠点

  とする武家政権を構想して福原に陣を敷いた。これに対し、次世代を担う嫡男・

  重盛や宗盛は都育ちだったのでな、貴族社会における権力を手放すことを恐れ

  京への還都を主張して、清盛や頼盛と衝突するようになっておったとか。


京を捨てた平家から人々の心も離れてゆく。

清盛はやむなく京に戻って後白河に頼朝討伐の宣旨を下させる。近江や美濃など

を平定すると最大の敵・南都の制圧に乗り出した。しかし興福寺や東大寺などへ

の焼討ちでは数千もの市民が犠牲となり、大仏のほとんどを焼失させる惨事となって

清盛は仏敵の汚名を着ることとなる。

治承五年(一一八一)閏二月、平家の行く末を憂いながら清盛は死の床に付いた。

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