第一章  源氏と平家

平安の時代、皇位継承の安定を意図して各天皇は多くの皇子を儲けていた。しかし

実際に皇位を継承できる皇子はごく僅かに限られ、当然のこと、その道を閉ざされた皇族が多く溢れることとなる。

これらの皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下となった。即ち『臣籍降下しんせきこうか』、

これが源氏や平氏など武士の始まりである。


  ・・・・・ 「何故に源氏のことを『源家』とは呼ばんのか」、じゃと? 

  はははっ、それを言うなら逆に平氏が『平家』と呼ばれておる所以ゆえん、まずは

  その辺りから語ってやらねばなるまいな。


源氏は八一四年、嵯峨天皇が皇子・皇女ら八人に『源』の姓を与えて臣籍降下させたことに始まる。嵯峨源氏は公卿くぎょうとなり、源まこと、源ときわ、源とおるは左大臣にまで昇った。後に続く天皇もこれに倣い、源氏には祖とする天皇別に二十一の流派がある。

武家源氏の源流となったのは清和源氏、第五十六代清和天皇の孫・経基もとつね王の系統である。経基の長男・源満仲が摂津国多田で武士団を形成し『摂津源氏』と呼ばれるようになった。

満仲の子である頼光・頼信の兄弟は藤原摂関せっかん家に仕え、後に頼信は相模守を受領する。源頼義、義家ら代々の嫡男は陸奥守むつのかみに任じられ、義家は東国に武家源氏の基盤を築いた。


  ・・・・・ 満仲の長男・頼光は大江山の鬼退治で知られておるが、実は和歌

  の達人としても名高く公家との交流も多かったそうじゃ。一方、三男の頼信は

  根っからの武人でな、河内守に任じられて『河内源氏』と呼ばれるようになって

  おった。

  八幡太郎はちまんたろう義家の勇猛は広く聞こえておるじゃろう。陸奥守となって清原氏の内紛

  を見事に平定(後三年の役)したのだが、朝廷からは「私闘である」との扱いを

  受けてしもうた。当時朝廷で実権を握っていたのは左大臣・源俊房と右大臣・

  源顕房でな、共に公卿として繁栄を築いていた『村上源氏』の兄弟じゃった。

  あれは武家源氏・義家の勢いを恐れた村上源氏の陰謀に違いない。

  しかしこの時、義家は私財を投げ打って武士たちの功労に報いたのじゃ。人望も

  大変に厚くてな、鎌倉党の景正などは大倉谷の辺り一帯を義家の館として進上し

  たという。

  義家は河内源氏・頼信の孫、この系統から輩出された頼朝や義経は、紛れもなく

  武家源氏の嫡流ということじゃ。


平氏は八二五年、桓武天皇の第五皇子・葛原かつらはら親王の子女が『平』の姓を賜ったことに始まる。桓武天皇が築いた平安京にちなんで平氏と名付けられた。

平氏には四つの流派があり、武家平氏として活躍が知られるのは高望たかもち王の流れ『坂東ばんどう平氏』である。坂東平氏は上総かずさから下総しもうさ(千葉)、常陸ひたち(茨城)にかけて

東国に広く勢力を広げていた。


  ・・・・・ 坂東平氏と言えば『平将門まさかど』が頭に浮かぶじゃろう。父・良将よしもち

  (良持)が亡くなった時、京で奉仕していた将門の隙を狙って叔父達が下総の

  領地を奪おうと企てた。この争いは将門が勝利したのだが、勢い余って東国に

  独立政権を樹立するに至ってしもうた。

  この乱を平定したのが同じ一門の平貞盛であった。将門の従兄に当たる男でな、

  当時は京に上って出世しておったそうじゃ。その妾腹の四男・維衡これひらの子孫が

  後に伊勢に移り住んだ、これを『伊勢平氏』と言う。

  平清盛はこの伊勢平氏から輩出されておるのでな、残念ながら桓武平氏の中では

  傍流に過ぎんのだ。即ち清盛一族は武家平氏を代表する存在ではないのでな、

  一つの家系として『平家』と呼ばれておるというわけじゃ。

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