第九話 瞬間、心、砕けて
※読書前の注意 ~お食事前の方は、お食事後に読まれることを推奨します~
薄茶色のつぶつぶどろどろペースト、その沼に黒い塊が沈んでいる。
離乳食? 猫缶? いや、あたかも──オう、・・・・・・もとい、トシャフ*@?*`=(#”&}>%$$?????!(自主規制モザイク)
・・・・・・一体、自分は何を錬成してしまったのだろう。
令和3年5月3日19時6分、ホットクックの蓋を開けた瞬間。私は、心の砕けた音を聴いた。
遡ること、一時間前。その日は朝からはしゃぎすぎていた。
午前は直売所ハンティング、午後からホットクッキング、途中ウォーキング、白鷺ウォッチング。そして、マーマレード(汁)は
私はすこうし疲れてきていた。マーマレードジャム作りでホットクックに落胆したとか、距離を置きたいとか、倦怠期とか、そういうわけじゃない。でもほら、四六時中一緒にいると、息苦しくなるっていうか。わかってる、セイカツを共にするって楽しいばかりじゃないって──
つまりは面倒だが、夕飯は作らねばならない。だから、いつもの、手慣れた、鉄板のおかずを作ろうと考えた。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎはある。そして缶詰ストッカーを確認、材料は揃っている。
我が家の味、肉じゃがならぬ〝ツナじゃが〟だ。野菜を適当な大きさにカット、ツナ缶開けて、あとは既製品のすき焼きのタレを投入。まあ、〝我が家の味〟というよりも、メーカーの味ではあるが。
ツナじゃがは炊飯器でも度々作っていたので、間違えようがない。ホットクックには〝肉じゃが〟というメニューがあるのでさらに安心。ちゃちゃっと下拵えを済ませて、〈まぜ技ユニット〉を装着、スイッチぴで35分。
父が入院中(第五話「豚、冷蔵庫の奥に」参照)で、副菜は昨日の残り。手早く準備し、残った時間でポメラ を立ち上げて書き物を始めた。
家には私と猫二匹。テレビも点けず、静けき夜。時折、ガタっ、ガタっ、ガタっ、とかすかな物音が響く。ご飯前で空腹の猫が戸棚を開けようとしている。こら!と台所へ向かって声をあげれば、虚空がわだかまるのみ。誰もいない。猫たちはリビングにいて素知らぬ顔。
聞き間違いかと耳を澄ませば、また響く。そこで気付いた。ホットクックの〈まぜ技ユニット〉が稼働している音だと。猫の悪さにそっくりで笑ってしまった。
疑ったお詫びに、少し早かったが、猫のトイレを片付け、猫の食事を準備する。
すでに歯のない老猫に薬を飲ませなければならないのだが、ここで活躍してくれるのが、『ちゅ~る』でお馴染み〈いなば〉の『ちゅるび~』である。小指の爪先ほどの、円筒状のジャーキーの中に半生のお魚ペーストが入っている猫のおやつだ。ペーストに錠剤を埋め込み、ジャーキー部分は剥いて刻み、半分は若猫におすそわけ。
以前は薬を飲ませるのに難儀していたが、この方法にしてからは喜んで食べるようになった。いなば様々である。うん、いや、作品内でメーカーさんを褒め称えれば、いつかメーカーさんからプレゼントが送られてくるなんて思ってないから、全然ないから、できれば『ちゅるび~』一年分とか、そんな図々しい、よろしくお願いします!
猫の食事後しばらく、「できあがりました、仕上がりを確認してください」のホットクックの呼び声が聞こえる。
私は真っ赤な筐体の前に立つ。
〈煮詰める〉や〈延長〉機能はあれど、ホットクックは基本的に加熱中は蓋を締めたまま。蓋を開けたその時ができあがり。プレゼントの箱を開けるような期待感がある。
食べ慣れたメニューもワクワク、ドキドキ、アドベンチャー!
さて、我が家の味の仕上がりは──オープン・ザ・ホットクック~!(なるほどザワールドのリズムで)
ここで、冒頭に戻る(永遠にこの駄文を愉しめる仕様)。
内鍋の底にへばりつく薄茶色のつぶつぶどろどろペーストから、おそるおそる黒い塊を取り出せば、それは翼の汚れた〈まぜ技ユニット〉であった。おそらくは、装着が甘く(本来、ストッパーを「カチッ」と音がするまで押し込む)、蓋から鍋底に堕天したのであろう。先のやたらと響いた「ガタっ」はこのためか。
すべては私がダダクサ(方言)なせい。あと、新じゃがのせい。春の瑞々しく柔らかなそれが災いしてペースト状になってしまったのだ。いやちょっとは心配していたのよ、掻き混ぜたら、煮崩れるんじゃないか、って。でも〝メニュー〟にあるから大丈夫だと思ってた、元カノが飲み会に来るって知ってたけど、彼を信じてたんだもん、……
私は肩を落とした。いけないものを錬成してしまったこの後悔と罪悪感と喪失感。鋼の兄弟の気持ちがよくわかる。いや、うん、ごめん、言い過ぎだけど。
そうして冷静に考える。今回はTwitterに写真を投稿するのは無理だな、と。ささやかなフォロワーが霧散する、その前に凍結されちゃう、いやむしろ写真を上げなければ無かったことになるのでは、このまま蓋を閉じて二度と開けなければ──否。
一度開けた蓋は、閉じたところで開ける前には戻らない。牛乳沸騰前に戻らず、大豆乾燥に戻らず、豚冷蔵庫の奥深く帰らず──私はホットクックを通して学んでいた。
なれば、進むしかない。砕けた心を掻き集める。傷つき、埃が混ざり、
私はつい数時間前も使ったコマンド──〈煮詰め機能〉を再度呼び出した。
ぐつぐつ、ぐつぐつ、ぐつぐつ、薄茶色のつぶつぶどろどろペーストの水分を飛ばす。飛ばして、飛ばして、耳たぶほどの柔らかさになったら、エンボス手袋を装着、ペーストを俵型にまとめて、運良く冷蔵庫の片隅にあったパン粉をまぶして、うっすら油を塗って、トースターで加熱、裏表合わせて十分──
誰かが言った。
『大人はさ、ずるいぐらいがちょうどいいんだ』
同感である。そして私流にアレンジしたなら、その少しあとに続く言葉はこう変わる。
『失敗を知っている人間のほうが、それだけ失敗を糧にできる』
玄関から物音がして、兄帰る。妹告げる。
「晩ご飯は、コロッケです」
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