紅い花は枯れない

@kuro-ageha_1864

I 世界樹を守る者

1 だれかの存在

 どうして、どうして私を一人にしたの。

 どうして私だけがここにいるの。

 私は何のために生きているの。


 答えをくれる人はもうすでにいないのに、誰かに問い続ける。どれだけ嫌いになってもこれだけは捨てられない。その唯一のものだけが彼女を彼女たらしめる。


 真っ赤な血に染まっても、どれだけ人だと思えぬ所業をしても。これだけは怒りとやるせなさと自己嫌悪とともに彼女が彼女であることの証明。誰かに対してではなく、その少女自身への証明。


 先の見えない暗闇には慣れている。死と血の匂いのする道への嫌悪感などとっくの昔に消えた。それでも、先の見えない、大切な人がどうなるかわからないという不安には慣れることができるようなものでもなく。許されざることであると分かっていても、死、というものを渇望してしまうほどには限界だった。『死』することになればどうなるかなど誰にも分かりはしない。しかし、この現実からの脱却という甘い蜜のような可能性に気づかないことはできやしなかった。


 現実にいる大切な命に代えても守りたい人を、悲しませることになると分かっていてもやはり、限界に達していたのは間違いなかったのだろう。


「次の仕事です。この件に関しては無期限。どれだけ時間を掛けても構いません。必ず、一発で成功させなさい。失敗は貴女の首とあれらの命です」


 真っ赤な塗り爪が乗った指で手渡された紙切れを見る。


 “ストレイニス・スィン・エルツォク・スィニエート”


 書かれていたのはその名前のみ。


 “スィニエート”の文字に思わず少女は震えた。じわりと嫌な汗が、小さく重い紙切れに染み込む。くしゃ、という音がどこか靄がかって聞こえる。


 名前というのはこの国では身分のすべてを表し、名前ひとつでどれだけの階級にあるのか分かるようになっている。すべての身分の名を知っているわけではないが、少女はその名前は知っていた。いや、むしろ知らぬ方がおかしい。


 ここは、スィニエート公爵領。


 紙切れにその名がある。


 そして、少女はとある貴族専属の暗殺者。

 それらが示すもの。


 公爵家に連なる高貴なる人物を暗殺せよ、という命令に他ならなかった。

 

「どれだけ、時を掛けようとも、待っているのは――」


 誰もいなくなったその場にポツリ、と響く幼さの残る小さな声。


 その身に感じたのは、歓喜か、絶望か、焦燥か、はたまた違うものか。


 少女自身にも分かりはしなかった。


****


「あ、お帰りなさい!! リヴェ姉、今日はご飯どうする?」


 そう言って、十を数えるのか数えないのかといった風貌の少女を出迎えたのは天真爛漫をそのまま体現したような十を数える少女。幼いながら前掛けとお玉を持った姿が馴染んでいるのは日常であることの証明。


「ありがとう、サラ。でも今日はいい。リサは?」

「あー、もうご飯は食べて部屋にこもってる。多分もうすぐ寝るんじゃないかな」

「そう」

「大丈夫だって。あれでもなんだかんだリヴェ姉のことは嫌いになってはいないんだから。浴室、洗ってあるから湯浴みしてきなよ」

「いつもありがとう。サラも早く寝て」

「当たり前でしょ、あたしは完璧かわいい女の子だからね!! リヴェ姉も無理はしないこと!! おやすみ!!」


 高い位置で一つにくくられた鮮やかな赤い髪が元気よく揺れ、ドアの向こうに消えた。

 

 いつもいつも幼いながらも狭いとはいえ三人分の食事を作り、掃除に洗濯までこなす器用さは間違いなく将来良い花嫁になることだろうと近所の誰もが噂する。そのうえ誰にでも好かれるような人懐っこい性格と天真爛漫な性格は人を引き寄せる。猫のようなくりくりとした少し吊り上がった碧の瞳は人を魅了する光がある。


 その笑顔と明るさがリヴェのささくれた心を少しだけ滑らかにしてくれる。


 ああ、幸せだ。だからこそそれが壊れることが何より恐ろしい。


 いっそ何も考えずに、幸せを感じたまま消えられたらどんなにか。


「しっかりして。弱音を吐くことは許さない」


 パン、と頬を叩き、気合を入れる。

 考えなければ。どうすれば二人を幸せにできるのか。


 それだけは絶対にやり遂げる。

 そのために『リヴェ姉』が存在するのだから。




──その扉の向こう。

 赤い髪の少女は、姉が気合を入れるように肌を叩く音を聞いてから、部屋の奥に行く。


 布団の中で丸くなっている片割れに問いかける。


「リヴェ姉のこと。いつまで避けるの?」

「知らない。……嫌いな人とは話したくないの」


 その答えにサラはぴくりと眉を動かす。


 湧き上がる様々な負の感情を抑え込み、息を吐く。そのため息に何を感じたのか、リサはもぞりと身じろいだ。


「いつまでも意固地になってると、後悔するよ」

「……」


 黙り込んで掛け布団により一層潜り込むリサに今度こそ大きなため息をつく。よく似た顔立ちの双子のくせして考えることはいっそ、笑えてしまうほど違う。そのことを、サラはリサより身をもって実感している。


「私は言ったからね。父さんと母さんの時みたいに後悔したくないでしょ?」

「……るさい」

「はいはい。じゃあ、おやすみ」


 これ以上言っても無駄だとわかる拒絶に、諭すことを諦めて寝台に入る。誰よりも気持ちがわかる相手だからこそ、面倒だと思う。

 静かすぎる家。


 三人で住むにはあまりにも広い。


 静かな場所をサラは好まない。暗くて、誰が何を考えているのかすら何もわからないゆえに。孤独に一人で放り出されたような気になる。リサの寝息と少しの物音はあるのに、どこか別世界のもののように聞こえる。


 ぎゅう、と敷布を握り、引き寄せる。


 ざわめく胸の内が収まるまで、サラは眠れない。


 毎晩毎晩。


 思わず、呟く。


「……いっそ、消えられたら、楽なのかな」




 いつの間にか途切れていた寝息のしていた方向。


 リサは片割れのその呟きに驚く。


 口の中で聞こえないよう、リサも呟く。


「消えられて、楽になれるのなら、三人で消えたいな」


 家が応えるように、ぎしり、と軋むような音がした。



****

 

――カツン


「なに?」

「取り急ぎ、お伝えしたいことが」


 人気の少ない夜の神殿。大きな樹を取り囲むように立つ静謐ながらも浮世離れした雰囲気の無機質な建物。その中にひときわ珍しい気配の男がその樹のそばに立っていた。そこにかけられる声に無機質な声で答える。


「あの方の周辺が不穏です。また、貴方様の周辺を探る者がおります。それも相当な実力者の可能性が高いかと」

「……面倒だな。お前が手練れだというならそうなんだろうね。私が迎え撃つかな。何もしなくていいよ」

「しかし――」

「黙って。立場を弁えることだよ。私の実力を知らないわけじゃあないでしょ」


――カツン


 慌ててひざまずいた従者らしき男を見下ろしてその男は艶やかに笑った。


 そして外套の陰から覗く形良い口元が開く。


「大丈夫。私を誰だと思っているのか。お前にもやることはあるよ。安心して、死にはしない。うまくいったら大きなご褒美が待っているよ」


 くすりとした笑いとその誘いは、美しい皮を被った悪魔のよう。甘い蜜を目の前に滴らせ、欲しいだろうと甘いにおいを漂わせる。綱渡りを命綱無しでするようなものに違いないいざないを歌うように、楽しそうに。断れるわけがないということも分かった上でこれをするのだから悪魔といわずなんというのか。


「お前の仕事は」




――――………


「御心のままに」

「ふふ、頑張ってね」


――カツン


 ひときわ大きな靴音が鳴り響き、従者の男が頭を上げると、目の前には見事に葉を広げる大樹しかなかった。大樹は悪魔に捕らわれた男を心底嗤うように、月光にあてられて煌めく葉をさわさわと揺らした。


****


 完璧だ。


 調べれば調べるほど、それが否が応でも理解する。


 ストレイニス・スィン・エルツォク・スィニエート。その名はこの公爵領のみならず、近隣領地にすら轟いていた。頭が良く、特殊部隊の一騎士団長として名を馳せている。平民どころか、貴族ですら彼に手を出せばまず無傷ではいられない。


 銀の悪魔と称されるストレイニスだが、その騎士団では慕われているようで、護りはとんでもないほど高い。公爵家は言わずもがな。


 次期公爵として期待されている彼は公爵家としても騎士団長としても付け入る隙が全く見当たらない。


 そう思っていた。


 ひとつ、小さな綻びのような隙が見つかった。彼の秘密の肩書き、“世界樹の守護者”。大層な名であるものの、これは貴族にとって不名誉極まりない役職。貴族として必要とされなくなった無能な者が就く役職という。そこにいる理由は謎だけれど、いるのは間違いないらしい。


 攻めるならばここしかない。相手からすればたった一つの小さな綻び。罠や対策もしていることは想像に容易い。けれども、本当にここしかない。ならば、やることは一つ。ひとつ決意してリヴェは前を向いた。


****


「ふぅん、本当に君だとは思わなかったよ。改めようか。ようこそ、小さな暗殺者。このストレイニス・スィン・エルツォク・スィニエートが誠意を持って歓迎しよう」


 冷や汗が、止まらない。


 目の前の男が怒っているからではない。感情の起伏が感じられないのに、敵う想像が全くできないから。


 左目が前髪によって見えないものの、少し見方を変えれば女にも見える中世的な顔立ち。銀のさらりとした髪が肩を流れる。深い蒼の右瞳が眇められる。


 弧を描く口元がまた、開く。


「強いね、君。でも、残念。相手が悪かったよ」

「……」


 ぎゅ、と毒を塗ったナイフを握りしめる。


 目の前の男はくすくすと笑いながらしゃがみ、リヴェの顎を細い人差し指で掬い上げた。


「でもね、君のような出来た平民をゆめゆめ殺すのは惜しい」

「な……」

「けれど、私を殺されなければ雇い主、または主人に殺される。違う?」

「……」


 返事を求めているわけではないのか、リヴェが何も言わずとも気にする風でもなく、むしろ面白そうに口を歪めた。


「リヴェ・ノーリア」

「……!?」

「知らないとでも?」

「……もういい。何を求めてる?」


 私のその言葉に少し目を見開いた後、またくすくすと笑った。


「うん、やっぱり殺すには惜しい。じゃあ、取引をしようか。それを下ろしてくれる? 大丈夫、この世界樹に誓って君に傷一つつけないよ」

「……」


 少し逡巡してから下ろす。目の前の男は今まで見たことがないほど強い。どちらにせよ、選択肢はあってないようなもの。ナイフを下ろそうが下ろすまいが、攻撃のそぶりを見せれば無事でいられるかは彼にかかっている。すでにリヴェの命は目の前の男に握られている。


 下ろしたナイフを太ももにある留め具に戻す。


「良かった。私の言うことを聞かない愚か者はいらないから」

「……」


 当たり前の事柄だというように言ったその男の笑顔を見て思った。


「……胡散臭い」

「……」


 笑顔が固まった。

 しまったと思うものの、もう遅い。殺されるかと身構えた。


「くっ……ふっ、あはは!!」

「は?」

「くくっ……、こほん、ごめんね。そう、取引の話。これでも情報通の側近がいるんだ。君がどうして勝てもしない俺を狙ったのか。今までの受け答えからしても、君はわかっていた」


 突然一人称が『俺』になった。そして、歌うように憶測が憶測でなく事実であることを分かっている声音で。


「命が惜しければ選ばない道を。逃げることの出来る行動力と頭の回転を持ちながら」


 カツン、と。

 先程は音すらしなかった。

 敢えて、鳴らされるその靴音は、リヴェを固まらせるには充分で。


「小さいが、見た目よりはずっと歳上。この国は出入りに関して緩い。逃げることなど容易い。それでも逃げないのは、いや、逃げられない原因は」


 何がしたいのだろう。


 全て把握しているのならば、早く目的を言ってほしいと、リヴェは思う。


 その答えによっては、リヴェの行動は大きく変わってくる。最悪の事態には備えているものの、心許なさは否めないのだ。

 

「リサ・ノーリア、サラ・ノーリア」

「……」


 大して驚きはしない。


 ノーリアの名は貴族の間でも有名なのだ。知らない貴族は、興味が無いとしても、あり得ない。無能と言われてもおかしくはないほどに影響は強い。


 あえてその名を言う男に、リヴェは身構える。


「その二人の命を守るよ。この公爵領にとっても、あれだけの商才ある二人は必要だしね」

「……」


 それを聞いて考える。


 そこまで目をかけられている。ということは、面倒になることもある。それを狙って、結婚相手が殺到する恐れがある。あの二人は見目と性格だけでもよく好かれていて、今ですらそういう人は多い。婚姻が早いこの国では珍しいことでもない。


 しかし、少なくとも今、殺す気はないのだ。二人は守られる。


 どこまでかは分からないものの、リヴェは殺されていない。それだけでも守る術は増える。


 それでも、懸念事項はまだある。


「代価は」

「君が、俺の暗部になること。無闇な殺しは求めないけど、身軽なその身体を利用して情報を集めてほしい。それをしてくれるなら、ある程度の要望を追加で聞いてもいい」


 “無闇な”殺しは求めない。


 つまりは殺し自体を求めないわけではない。だが、その“無闇な”殺しが多いのが今の雇い主で、サラとリサの命を握っているリヴェにとって今一番憎い相手である。

 その上で、サラとリサを守るというその男。


 商才のある二人を逃さないという言葉がどれだけの重みであるのか。それすらもわからない。ストレイニスの性格はどうにも掴みどころが無い。


 貴族として落ちこぼれたものが入るとされる世界樹を守る神殿。神殿の白い煉瓦に似合う、薄緑のローブを纏った少し幼く見える青年。その笑顔は幼さ故に、不安定であればこそ、目が離せない魅力に圧倒される。


 顔立ちのみであれば、整ってはいるものの、目を引くような華やかさはない。


 しかし、話し方といい、雰囲気といい、どうにも目を引く。


 取引の話をしているにも関わらず、呑まれそうになる。


 リヴェは唇を噛み押し殺すような声で問う。


「私の雇い主を知っている?」

「よく、知っているよ。君は俺に見逃されても、彼女に殺される。なら、俺が殺すよ、君を」

「……っ!? い、や、まさか」


 リヴェの反応を見て、男はそれはそれは満足そうに、笑う。


「そうだよ、君を“殺す”」

「……」


 ぐ、と拳を握る。


 いや、問題ないはずだ。


 出来る最大のことをしてからここに来ている。死を覚悟してここに来ていた。


「わかった」

「良かった。断られたらどうしようかと思ったよ」

 

 にっこりと笑って言うその国宝級の芸術品のような男に思わずまた口が開く。


「あってないような選択肢提示しといて白々しい」

「っあは! ほんと君、肝が座ってる。本当に平民? 凄いね、こんなに聡くて堂々としてる平民初めてだ」

「貴方みたいに無礼な平民に気分を害さない貴族は初めて」

「っ……くっ、ふっ、あははは、これはやられた」


 涙を目の端に浮かべながら、存外子供のような表情で笑う男にリヴェは若干毒気を抜かれた。


「あぁ、おかしい。……さて、じゃあそろそろ、ひと思いにいこうか」


 リヴェの太腿にあったはずの毒が塗られたナイフが形良い手に握られ、振り上げられる。月光が反射した刃が鈍く光り、リヴェに迫った。

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