ご注文は一期一会

尾跡やぶ犬

 地元から車を走らせ、慣れない道のりを二時間弱。目的の駐車場に流れ着き、腰を伸ばすため空を仰ぐと曇天。楠木は初陣からついていないと、盛大なため息を吐いた。

 拠点を定めることなく全国各地キッチンカーを走らせていた先輩、木村から車を譲り受け、初仕事。木村の紹介で決まったのは小規模イベントの会場。周囲はすでに和やかムード。どこもかしこも顔馴染みと言った雰囲気が漂い、楠木は尻込みした。

「おはようございます」

 どぎまぎしながら深々と頭を下げる。

「あら? おはようございます」

 隣で出店準備をしていたピザ屋の寺川と名刺交換に挨拶を交わすと、見覚えのある車と楠木の顔を見比べ、不思議な顔をした。

「木村さん、お休みなの?」

「いえ。木村が結婚と同時に出店を決めまして、僕が此方の車を譲り受けたんです」


 木村は自由が好きだった。一カ所に留まりたくないと、一緒に勤務していたカフェを離れ、しばらく音信不通となった。全国各地のイベント会場や飛び込み出店をするため地元を離れると報告を受けたのが、退社から一ヶ月と経過せずしてだった。楠木は前々から計画していたのだろうと睨んだ。しかし、風の噂でなかなかの借金を背負った。行き当たりばったりの代償はデカかかったというのが耳に届き、会社員バンザイと心で思ったことを、楠木は今だ鮮明に覚えていた。

 まさか、自分自身も木村の轍を踏むとまでは予想もしていなかった。

「そう。気さくで頼りがいのある方でしたもの、いつご結婚なされてもおかしくなかったものね」

 頬に手を添え、頷きながら木村を思い返している。楠木は苦笑した。誰をも虜にしてしまう木村の後釜。少々、荷が重いような気がしたのだ。

 木村は明るく人当たりが良い上に、親身に話を聞くも返すも上手かった。友だちになれない人など居ないのではないかと思えるほど万人受けし、顔が広く、頭が切れる。そのため、木村はモテた。面倒くさいと言いながらも相手をしないことはなく、嫉妬から頬に手のひらの形を描いて出勤する日もあった。色々なことが重なった後に退社し、原因はそっち関係と噂が立ったものの、ひっきりなしに木村を目当てに訪れていた常連も来ず、真相の確かめようはなかった。

「コレ、お近づきの印に」

「ありがとうございます」

 袋に詰められたワンカットピザを手渡され、楠木は初めての交流に鼻腔をくすぐらせた。室内で注文するタイプとは少々香りが違い、心が躍った。あとから寺川に自慢の味を持って行こうと、鉄板の上で手のひらを広げる。

「よし」

 寝かせていた生地を取り出し、お玉で少量掬い流す。水の容器からトンボを手に取り、素早く円を描いていった。試作品を口にし、生地の状態を確認した。もう一つの生地も取り出し、同じ塩梅で試作品を口にした。

「クレープとコーヒーです」

「あら、主人の分までありがとうね」

 生地の状態や釜の温度を見ている寺川と、外でセッティングしている夫。夫婦二人三脚で経営している姿は、羨ましさを覚えた。

「これから、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくね」

 人見知りなのか、夫はぺこりと頭を下げるだけだった。

 看板にのぼりと風に靡かせれば、今にも雨がこぼれてきそうだ。遠くで稲光が見えた気がしたが、楠木は見ない振りを決め込んだ。天気に左右される客足。開始前から杞憂ばかりしていては、先が思いやられる。楠木は前向きに出発する方向を見据えた。

「こんな感じかな」

 手書き看板にメニュー、クレープ、ガレット、コーヒーとざっくり書き出した。初陣のためメニュー少なめ、メジャーに知られている味。衛生面からタッチパネル式の券売機を取り入れ、すべて入力済み。細かなトッピングもタッチパネルに導入可能と、楠木は迷わず購入した。一人でやる以上、テイクアウト専門で待たせるわけにはいかないと鼻息荒く取り入れた。準備は完璧と自画自賛しながら中に戻り、具材に包装紙、カップなどを手元の近くに展開していった。

「いらっしゃいませ」

「はーい。美味しいよー」

「いつもありがとう」

 イベントの開会宣言後。開始の花火が数発と空に響き、煙が広がった。キッチンカーが並ぶ駐車場と、テント下で鉄板や炭火、寸胴が火にかけられた場所。会場は二カ所と設けられていた。テントの通路を挟んだ対面側は自由に食べられるイスやテーブルがテント下に設けられ、購入後すぐ食事も可能だ。駐車場は帰宅時のお土産、車中で食べるなど。些か会場から足が遠い距離のためか、知り合いを訪ねているお客が目立った。

「ありがとうございました」

 なかには知らない顔だから、購入してみようと奇特な常連客も混じっていた。

 苺やバナナのクレープに、物珍しさからガレットの売れ行きが好調で楠木は雲行きの怪しさそっちのけで冷凍ホイップ、チーズ類を昼に合わせて解凍していく。店舗にはストックを取りに行くだけだが、キッチンカーは必要最低限のものしか積載できない。客足を見極めなければ、赤字に繋がる。楠木は流れが良いと踏み、今の時間に勝負を賭けた。

「マジか……」

 生地の残りに終わりの兆しが見えかかってきた頃、恐れていた雨粒が屋根を叩いた。傘を持っている人は稀で、誰もが足早に通り過ぎていく。お土産を手にする暇などないと、早く、急いで、濡れちゃうと悲鳴に近い声がどんどん車に吸い込まれていった。客足が見えなくなると、雨足がどんどん強くなる。前は見えず、雨の音で外の音はなにも聞こえない。店じまいは免れないと、楠木も意を決して外に飛び出し閉店準備。時間まで帰宅はしないと、余った材料のクレープ生地をすべて焼いていく。外気は冷えこみ始めていたが、意気込んでいる楠木自身はかなり熱がこもり顔は赤いままだった。

「いいね」

 生地を一枚、クリーム、カットフルーツをランダムに並べ、再度クリーム。同じ作業を繰り返し、何段と積み重ねていく。上段の中央にクリームを落とし、苺、バナナ、ブルーベリーを飾り付け、楠木は自身のブログに本日の一枚とアップした。

『フルーツミルクレープ召し上がれ』

 断面が見えるよう四分の一をカットした、ワンホール。叩きつける雨が嘘のように、写真の中は煌びやかだった。

「ん?」

 顔馴染みからドンマイとコメントが続く中で、ご新規からコメントが届いた。

『そちらは購入可能ですか?』

 ブログを始めたのは少し前だった。前職中にお客さんと繋がりを持ったままにしたいのなら、たまにでも呟くと良いとアドバイスを貰っていた。ネットワークはどこで繋がっているか分からないものだから、拠点を決めず全国を転々とするなら必ずやれ。生存確認のためにもと、退社前から釘を刺されていた。連絡先を知らない間柄ではないのだが、気軽にとなると違うとなるようだった。

 ネットの繋がりを信用していないわけではないが、楠木は即答できなかった。所在地を確認できるでも、匿名で本名を知っているでも、電話番号を知っているでもない。遊びでぬか喜びさせられているだけかもしれないと、楠木は外に視線を移した。

 絶賛の豪雨。わざわざイベント会場に足を運ぶはずがないと、ため息を吐いた。

「現品限りのためカット済みでよろしければ購入可能です。今ならオマケ付き。来店お待ちしております」

 期待などしない。現状で期待できるほど楽天家ではないと、残りのガレット生地も同じく焼いていく。チーズ、ベーコン、卵。追加にチーズを足し、楠木の昼食が完成。生地が焼ける間に準備したコーヒーを置き、手を合わせる。

「いただきま――」

「お願いします!」

 閉めていた窓ガラスを叩かれ、楠木は手にしていたコーヒーを置いた。

「どうなされたんですか?」

 意表をつかれる来客に驚き、楠木は車内に招き入れる。ずぶ濡れになってまで用事があるのかと、タオルを差し出した。

「いや、お恥ずかしい話ですが、暇を持て余して先ほどまで此方のイベント関連のブログを拝見していたのですよ。そのなかで楠木さんの所でミルクレープの写真を見まして、ぜひ購入させていただければと足を運んだしだいです」

「えっと、まさか……」

「はい。先ほど購入させて欲しいと志願した者です」

 目を白黒させ、楠木は腕を組んだ。朝に知り合ったばかりの同業者、寺川の夫。ネットから連絡を取ってくるとは思ってもいなく、当たり前の金額を提示するわけにも、陳腐なものを渡すわけにもいかず、楠木は不躾と思いつつ寺川に質問をした。

「大変、失礼な質問かもしれませんが、なぜご購入の決断をされたのでしょうか?」

 気恥ずかしそうにはにかむと、寺川はイベントに忙しく失念していたことを思い出したと言った。楠木は頷き、冷凍庫からチョコレートプレートと転写シートを取り出した。

「メッセージお付けしますね」

「いやいやいやいや!」

 恥ずかしさで両手をブンブン振ると、寺川は全力で拒否を示した。楠木はなにを思ったのか、手のひらを叩き目を輝かせた。

「あぁー。寺川さんが文字書きしたかったですよね? 板チョコでよければチョコペンもイケますよ?」

 冷凍庫から板チョコを取り出し、冷蔵庫から手作りのチョコペンを出すと、スッと手渡した。

「手書き……嬉しいものですかね?」

 困惑する寺川に、楠木は微笑んだ。

「せっかくの銀婚式ですよ! チョコプレートにメッセージがあったら、絶対に嬉しいはずです。本人からのメッセージならなおさらに嬉しいと思います!」

 根拠など無かったが、花やプレゼントがあるわけではない。どこかに寺川らしさを入れた方が嬉しいはずと、楠木は鼻息荒く捲し立てた。密室空間で力説され、寺川もそうなのかと思い始める。グッと拳を握りしめ、寺川は意を決したように開口した。

「ぶ、不器用ですが、お願いします」

「畏まりました!」

 寺川夫妻の出会いはイベント会場だった。現在と同じ立ち位置、店主と客。味に惚れ込んだと追っかけになったのが始まりと、照れながら震える手で文字を書いていく。決して上手くはない。素人と不器用を紐付けした上で贔屓目に見たが、恐ろしいほど下手な部類だった。ゴツゴツとした節々の大きな手に、太い腕っ節にできた痣。指一本分のチョコペンはとても小さく、老眼が入っているのか一文字、一文字と離れ見る。不器用と理解しながら頑張る姿は、愛あればこそ。なのだろうと、楠木は微笑むとペーパーフィルターを用意し、オマケの準備に入った。

「こ、これでいかがでしょうか?」

 大中小。統一性のないバラバラな文面に込められた愛情を目の当たりにし、楠木は固めるため、そのまま静かに冷凍庫にしまった。

「寺川さん。甘いのと、苦いのと普段はどちらを飲まれてますか?」

「そうですね。普段はブラックですが、仕事中は主に緑茶です」

「牛乳やホイップ、フレーバーを加えたものなどカスタムしたものはお好きですか?」

「え……?」

 質問内容がマズかったと、怪訝な表情を浮かべる寺川に楠木は牛乳を手に取った。

「牛乳はお飲みになられますか?」

 一つにしぼることで難問を和らげ、寺川は即座に首を縦に振った。

「牛乳は毎朝欠かしたことがないので、飲みます」

「了解です」

 鍋でミルクを温めている間、楠木はガレット生地を再び焼き始めた。焼けた生地に直接バターを塗り、砂糖をざらざら振っていく。扇状に形を整え、紙でくるり包む。クレープスタンドに立てると、同じ物をもう一つ作った。

「ところで、昨年は何を差し上げたんですか?」

「去年は花束、一昨年も花束。簡単に花を送るだけで、他はなかったですね」

「お花、ですか……」

 楠木は腕を組むと天井を見上げ、数回頷いた。コレだと冷蔵庫を開き、僅かになったフルーツを取り出し、すべてを薄くスライスしていった。

「こちら、フルーツの花束もどうぞ」

 先に焼き上げていたシュガバターのガレットの中にカスタードを少量置き、幾つものバラを作ると、平たい口をつけたホイップでもバラを描いていった。

「赤、黄、白。キウイの緑も飾られて、本当にカラフルな花束だ」

 横並びにした二つの扇ガレット。箱のなかで見事な花を咲かせた真ん中に、楠木が添えたチョコプレート。いつまでも花のある二人で。いつまでも阿吽の呼吸で。いつまでもお幸せに。転写シートで書かれた文字に、寺川は少しだけ鼻を啜った。

「分かる方には、分かるんですね」

「ここまで話を聞いて理解できない方が、客商売していてマズいと思いますよ」

 からりと笑って見せた楠木とは対照的に、寺川の口元はへの字になっていく。銀婚式を迎えたが、周囲の反応はいつまで経っても代わり映えしない。愛想の悪い夫、なんであんなのと結婚したんだ、パッとしない奴。すべての悪口を寺川の妻が聞かされているのを耳にするたび、いたたまれない気持ちになっていた。人見知りが激しい性格で直そうとしてきたが、妻がしっかりサポートしてくれるため、良いかとなあなあにしてきてしまった。いざという時はきちんと言葉にできるが、妻が楽しそうに仕事をしている邪魔をしたくない一心で他をサポートしてきた。すべては上手く回すためだった。

「それに不器用って仰ってましたけど、力仕事も火起こしも、運転だって寺川さんがしているんじゃありませんか?」

「そ、そうです」

 楠木は寺川の手を指差し、周囲の人は見る目がないと言った。

「今日のイベントで忘れたのだって、仕入れの準備、車の手入れ、積み荷などをして時間を費やしていたからですよね?」

「よく、分かりましたね」

 寺川は目を瞬かせ、楠木は微笑んだ。

「きちんと爪は手入れしているけど、腕や手の甲は傷に火傷を負っています。終始、手を隠したり、腕を後ろ手に組んでいるのはお客さんとの交流を邪魔しないようにしている。もしくは、痣を見られないよう配慮しているからではないですか?」

「え、えぇ。もう癖みたいなものですが。その通りです」

 楠木は拳を二つ繋げ、振って見せた。

「薪割り。今度、体験させてください」

 寺川の焼くピザは、薪窯だった。煙突から煙を吐き、どこまでも薫り高く、高温で一気に焼き上げる味は、同じ具材でも他とは違うものとなる。火を絶やさないためには薪もよく使う。そのまま使えるものもあるが、ピザと混ざりあった香りにあうものを厳選しているため、寺川のこだわりが手間を必要とさせる。すべては、お客さんの笑顔のためなれば。それが、寺川夫婦の願いだった。

「さぁ。そろそろ良いかもしれません」

 冷凍庫で寝かせていたプレート。冷蔵庫でケーキ用の箱で寝ていたミルクレープ。箱の脇にローソクをペッと貼りつけ、ナイフとフォークをいれた小袋を上に準備した。

「前もって敷いていた生クリームにプレートを差して、カット目に立てかけてから粉糖をさらり篩えば、できあがりです」

 ずっと、いっしょにいてくれて、ありがとう。これからも、よろしくね。

 紙袋にケーキ、ガレット、カフェオレ。土砂降りに持って歩くにはキツいと、楠木が一緒に配達しようと言ったが、寺川はやんわりと微笑み首を振った。

「これ以上のご迷惑はかけられません」

 すっきりした表情で寺川は楠木に支払いを渡すと、今度は楠木が首を振った。

「多すぎます! 勘弁して下さいよ」

「此方からの感謝の気持ちです。受け取ってください」

 同業の馴染み。価格はそれ相応。暗黙の了解。そればかりが念頭に刻まれていたが、断固として譲らない同士では色々と冷めてしまう。楠木は受け取った金額を握り、深々と頭を下げた。

「お買い上げ、ありがとうございました」

「良い買い物ができて、大変満足です。此方こそ、本当にありがとう」

 笑顔を残し、寺川は暴風雨のなか車を目掛け行ってしまった。外は相変わらず激しい音を放っているが、車内は人の温もりを奪ったと同時に静かになった。すっかり冷めたコーヒーを啜れば、ほろ苦さが広がった。先ほどまで繰り広げていた光景は、幻なんかではない。そう告げているよう、ホットミルクを求めさせた。

 数日が経過した、昼食頃だった。ガレットの新作を口にしようと手を合わせると、連絡先を交換していた寺川、夫からスマホに訪問を知らせるためピコンと鳴った。

「あちゃー」

『先日は、誠にありがとうございました。寺川です。カフェオレと花束のフルーツガレット、ミルクレープを妻に差し出すと、メッセージにひどく感動してくれました。早く帰宅して食べようとなり、冷蔵庫で保管し無事に到着しました。しかし、広げる直前で大変な状態にしてしまいました。本当に申し訳ありません』

 添付された写真に、開いた口がふさがらなくなった。すっころんだのは明白で、べったりべっちょりと箱全体に飛び跳ねていた。味は確かだが、寺川の頑張りが詰まったプレートは台無しになっていた。折れてたり、文字が掠れたり、消えてしまっていたりと原型を止めていない。一枚でも写真に残して置けば良かったと、楠木は額に手を当てる。

『しかし、妻がお披露目すぐにスマホで写真を残してくれていたので、辛うじて読んでは貰えました』

 ホッと胸をなで下ろし、楠木はカフェオレを口に含んだ。

『次のイベントは妻もデザート系を作成したいと、楠木さんにとても感謝していました。ぜひご試食を用意させていただきたいので、次回のイベント会場をどちらにされる予定なのか、お教えいただければ幸いです。この度は、ご迷惑、ご面倒をおかけいたしました。心より感謝いたします。本当に、ありがとうございました』

 感謝の溢れる文面で締めくくられ、楠木はスマホを両手で掴み掲げると、深々と頭を下げた。

「僕こそ全力投球させていただき、感謝」

 カレンダーに視線を向け、楠木は唸った。

「地元を離れて南の方にいるから、しばらく会えそうにないんだよなー」

 申請はなかなか通らないだろうと踏み、各週のイベントに片っ端から仕事の申請をすると、すべて合格。一ヶ月は余裕で仕事三昧。帰省するにはまだかかりそうな挙げ句、すでに別地区に申請済み。地元を離れ、転々と拠点を変えていた先輩を思い出し、きっとすべてが急な始まりだったのだろうと、楠木は憶測を飛ばす。寺川の出会いのお陰で、先輩のきっかけがなににせよ、大事にしていたことは理解できた気がしたからだ。

「なあなあよりも、一期一会が一番」

 職場で仕事をしていた頃は、雇われている側。人数でお客を熟すことが当たり前だった。一体一で対話を重ね、なにを求めて、なにを託したくて、なにを相手にあげたいのか。理解を一致させ、完成度を高め、できあがったものが感動を呼んだ時。心に芽生えた達成感と、唯一無二の作品。常連客に安定を求めるのもありだが、前職と代わり映えしないよりも、一人一人との一期一会を大事にするのも悪くないのではないか。

 楠木に新たな感情が生まれた。

「よし」

 手帳に目標と記し、土地での一期一会を大事に、繋がり百人。笑顔、千人。人類みな、否。一切衆生と友だちになる。

 旅の目的を決めると、楠木はにんまりと笑んだ。これまで目標、目的もなく生活のために仕事をしてきた。生きるため、だからではなく、自分の生活を潤わせるための仕事。お客さんに喜んで貰うための、手助け。見方を変えると、心が弾んだ。

「んー」

 カレンダーを捲り、指でなぞっていく。イベント一覧表のコピーと照らし合わせ、大体の日付を決めた。現状で年表のように毎年の予定表はあるのだが、追加や中止の場合もある。そのため一ヶ月前に更新、変更等がないかを必ず確認するのだが、当然地方では違うイベントが開催されたりもある。参加するかどうかは参加側が決定するが、次のイベントに参加しましょうと言われても、互いに別の場所に声がかかってしまうと、会えない。楠木は三ヶ月ほど予定を決定しての南下だったため、半年後の大きなイベントなら無難だろうと提案することにした。参加側にとって多大な利益が生まれると同時に、幅広く顔合わせが可能な場所だ。損失に繋がる心配は少ないと、寺川にイベント名と日付を提示し返信した。

 これから先、様々な困難が待ち受けていようとも、これが仕事であり、趣味であり、誇りであると、胸を張れるよう頑張ろうと楠木は忘れかけていた新作を頬張った。

「うっま!」

 寺川に提供したフルーツガレットを縦に置けるよう楠木は試作を重ねている最中なのだが、現地で確保できるフルーツにより、少し割合を変えるだけの方が望ましいと着地した。本質を無理に変えるのは、ひどく難しい。どこまでも達成できないと挫折するよりも、折り合いを付けた上で、得意を伸ばす方が良い。人も食べものの掛け合わせも、割合次第で味わいは違ってくる。しかし、旨い不味いは扱い方次第。善し悪しなど、本人が決めれば良いのだ。誰かの評価こそがすべてではない。

「さて、と」

 時計に目配せすると、時間が迫っていた。仕事現場に移動するため片付けを始め、ふと手が止まる。

「そう言えば、味の感想くれなかった」

 ぐちゃぐちゃにしてしまい、捨ててしまったのだろうか。冷蔵庫にしまいこみ、見ないようにしているのだろうか。否、一口含んでみたところ不味かった。そう言うことなのだろうか。

 楠木は寺川に味の感想を聞こうとスマホを手に取ったが、止めた。次回までに旨いと言わせてみせると、楠木のなかで闘争心が燃えあがる。妻がデザート系の試作を制作するというのは、実は。

「挑戦状か!」

 楠木は斜め上で解釈すると、やってやろうじゃないか。そんな意気込みを拳にこめながら、拳を震わせた。

「緑茶を飲むってことは、ゴテゴテした味よりさっぱりした味が好きだった……かも?」

 それなら次回は別のさっぱり系を味わって貰おうじゃないかと、今までにないほどの情熱を奮い立たせる。

「やっぱり、寺川夫妻は羨ましいや」

 二人三脚。お互いがお互いに刺激を与え、どこまでも向上心を抱かせる。飽くなき探究心に、最強の縁の下の力持ち。一長一短な関係性は一朝一夕では生まれない。銀婚式を祝うほどの関係は伊達ではないなと、楠木は一人寂しさを抱いた。

「最終の理想像として、目標にさせていただこう」

 楠木は仕事の合間にブログを更新した。出発から数日。締めくくったのは将来の目標だった。

 いつか、遠い未来になってしまうかもしれないが、二人三脚で店をオープンできたら良いな。そんないつかと呟いている今は、お客さんを待ち惚け。今の目標は、専ら商売繁盛です。クレープにガレット、コーヒーはいかがですか?

「ありがとうございました」

 いつか知れない未来を描きながら、楠木はラテアートを描く。明るい未来のために。

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