アームレスリングが全てを支配する合衆国で正義のために戦う

島森清輝

第1話 帰還

 ろくでもない人生だった。ドナルド・トランプが対テロ戦争の終焉を宣言した時、ようやく故郷に帰れると安堵した。けれども今は、銃弾の飛び交わないアイオワの片田舎で、ただひたすらに己の死に場所を探していた。


 そこかしこに地雷が埋まり、一歩踏み出すことさえ命がけだったアフガンの高野で、底抜けに明るい空を見上げながら、魂の奥底から恋焦がれた故郷に、今は自分の居場所を見つけられずにいた。


 息子が戦場に駆り出されて、5年間で10キロ体重を落としている間に、私の母親はトルコ人の恋人とシシカバブを食べて15キロ太った。

 ハイスクールの時に交際していたかつての恋人は、美しかったブラウンの髪をピンク色に染めて、汚いヘソに薄く曇ったセンスの悪いシルバーのピアスを付けて、舌にピアスを付けた青色の髪の男との間に子供を産んでいた。


 正義のために戦ったと信じていた。いかに過酷な戦場でも、星条旗さえなびけば、いつまでだって戦えたし、テロリストにも、疫病にも、飢餓にも負ける気はしなかった。

 ただ、今はこの平和におぼれそうな時間の中で、失われた5年間の重みに、精神も、誇りも、己の正義さえも押しつぶされそうだった。カーテンを閉め切った暗い自室には、星条旗は決して靡くことは無かった。




 「レイさんのように、戦場から戻ってから無気力になる方はとても多いです。何か新しく夢中になれることを探してみてはいかがですか?」


 赤いフレームの眼鏡をかけたカウンセラは、あごを下げて上部のフレームのさらに上側に視線を通して、私の顔を見た。


「探す、ということへのモチベーションがまず湧かないのです。何もする気になれない。5年間戦って、毎日が死と隣り合わせだった。それで帰ってきて、今は明日もきっと生きているという確信がある。だから無理に何かをしようという気になれない。不満はあるけど、時間もある。でもその感覚が、ある意味『死んでしまっている』ようで、生きている体と釣り合わないんです。」


 まっしろで丸いテーブルに差し出されたコーヒーを一口飲むが、酸味が強すぎてとても飲めたものではなかった。アフガニスタンで救助した市民からもらった、埃被ったティーカップで飲んだ生ぬるいコーヒーの方が、もっと美味く感じた記憶がある。


「トレーニングは続けていますか?体を動かすことはメンタルヘルスにも非常に大切ですが。」

レンズの外側に視線を通すのであれば、眼鏡を外せばよいのでは、と思った。


「以前のカウンセラにも同じ質問をされました。ええ、体は鍛えていますよ。筋力トレーニングは好きです。特に腕立て伏せ。筋肉が痛めば、また戦場に帰ってきた気分になれます。」

「戦場にまた戻りたい?」

「ええ、もちろん。不謹慎かもしれませんが、今の合衆国は平和すぎます。戦場にいる方が、私には快適です。」

 不味いコーヒーを一口飲んだ。


 カウンセラは質問を一度やめて、同じくコーヒーカップに口をつける。飲んだかどうかは分からなかった。真っ白な首筋を見た。

「合衆国が平和かどうかは、あなたが決めることではありません。少なくともあなたには、平和に見える、というべきでは?」


 正面から視線が飛ぶ。さっきまでと違う印象を受けたのは、フレームの上ではなく、レンズ越しに視線があったためだろう。彼女の顔を正面から見たのは、初めてだったかもしれない。

 長く伸びた前髪が顔の印象を重くしているが、肌は白く透き通っていて、均衡のとれた目鼻は東欧のファッションモデルのようであった。


「先生は、平和でないと?」


「私の意見はどうだって良いことです。あなたが平和だということの視点は、現在の世界を一方向から平面に切り取ってみたものに過ぎない、ということに気付くべきです。特に新大統領の一件から、世界は大きく変わってしまったことは事実です。」


「ずいぶんと遠回しな言い方をするのですね。ああ、そんなことよりももしかして私と年齢が近いのではありませんか?カウンセラはてっきり年上しかいないのかと。」


「ええ、私はあなたと同じ年に生まれています。だからと言ってディナには誘わないでください。患者にデートに誘われることはよくありますが、つまり合衆国も、私から見ればそれなりに平和でないという意味です。」

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