第36話 シングルベッド

「やってしまった……。いや、やっていないんだけど」


 頭頂部の痛みも治まり、ヴェルナーは両手で顔を覆って後悔していた。


 気にしていないとか、ありのままの貴女を受け入れますと言いたかっただけなのが、身体的特徴について思い悩む女性に対して相応しい台詞ではなかった。


 ではあの場面でなんと言えばよかったのか、それも思い付かない。


 女性に対して免疫がない。とは言え、それは美女の前に出ると何も言えなくなるといった類いのものではない。事実、かつての仲間であったヘルミーネとは普通に話をしていた。


 仲間としてなら普通に話せる。女性と恋愛感情を絡めた話をしたことがないのだ。その経験不足が今回のような結果を招いてしまった。


「そんな経験値、どこの狩り場で稼げっていうんだよ……?」


 マックスに何度か夜の街に誘われたことがあった。その時は疲れているとか、聖騎士の末裔として相応しからぬ行いだなどと言って断ったが、腰が引けていたというのが現実だ。正直なところ興味はあった。ものすごくあった。


(どうしてもっと強引に誘ってくれなかったんだ……)


 などと、逆恨みをしたこともあった。


 ちなみにマックスが女好きであるのは本人がどうこう以前に家の方針らしい。師でもある父から、


「女に免疫がないと色仕掛けにすぐかかる」


 と言われ、十四歳の時に金貨を持たされたそうだ。


「十人抱くまで帰ってくるな」


 これが聖騎士四家、戦士の家系の教育方針であった。


 ヴェルナーの家にそんな習慣はなく、ラルフに聞くと眉をひそめて引いていた。


「己を律する心を磨くべきだ」


 と、ラルフは語っていた。同じ聖騎士の家系といっても方針はそれぞれ違うらしい。


 控えめなノックの音で思考が現実に引き戻された。レイチェルだ、と直感を得た。


「ど、どうぞ」


 上ずった声で入室の許可を出す。躊躇ためらうような間を置いてから、身を縮めて入ってきたのはやはりレイチェルであった。今一番会いたくて、今一番気まずい相手である。


「夕食をお持ちしました……」


 彼女が持つトレイに湯気が立つスープとパンが乗っていた。夕食の時間にはまだ早い、ヴェルナーの部屋に入るための口実だろう。そう気付いたが指摘することに意味はない、気まずい思いをさせるだけだ。


 いただきます、と言ってまずは食事を済ませることにした。


 無言。二人だけの部屋にカチカチと食器の音だけが鳴る。味がほとんどわからない。多分、美味いのだろう。


「ごちそうさま。ありがとうレイチェル、美味しかったよ」


 食器をサイドテーブルに置いてぎこちなく、優しく微笑んで見せた。そのタイミングを見計らっていたようにレイチェルが深々と頭を下げる。


「ヴェルナー様、先ほどは無礼を働き本当に申し訳ありません。なんなりと罰をお与えください」


「罰だなんてとんでもない。こちらこそいきなり変なことを言って悪かった。責められるべきは僕の方だ」


「いえ、そのような……」


「いやいや……」


「いえいえ……」


「ちょっと待った」


「はい」


 落ち着こう、と提案する意味でヴェルナーは軽く手を振った。


「このまま頭を下げあっても埒が明かない。君には専属メイドを続けて欲しい。どうだろうか?」


「ありがとうございます。引き続きとは言っても、まだ何もしてはいませんが」


「それなら……」


 必要なのは考えることではなく、ほんの少しの勇気。ただ一言発するだけで世界は変わるはずだ。


「癒して欲しい。あの日の夜のように」


 レイチェルはその言葉の意味を少し考え、すぐに思い当たった。舌を軽く動かし唇を湿らせる。


「お任せを」


 膝を立ててベッドに上り、ヴェルナーに覆い被さるような格好になった。熱い吐息が混ざり合い、唇が重なる。


 細い指がヴェルナーのシャツのボタンに触れた。




 翌朝、食堂にて紅茶をすするヴェルナーの姿があった。その顔は疲れていなからどこか満足げでもあった。


 そんなヴェルナーを目ざとく見つけて寄ってくる男が一人。


「ようヴェルナーくん、やった?」


 湾曲表現オブラートなどクソくらえだとばかりにアクイラが言い放つ。


「……おかげさまでね」


「おっとお? 俺がこの件で何かしたと?」


「男と女の関係が恋愛感情だけで成り立つと思うほどウブじゃない。僕自身の価値もある程度は理解しているつもりだ」


「ふぅン。それで、俺を恨んでいるかい」


「まさか。君はレイチェルとの間を取り持ってくれただけだろう。結果として全て丸く収まったのであれば他人の思惑がどこにあろうが、そんなことはどうでもいい」


「お前さんのそういう割り切ったところ、結構好きだぜ。ああ、一応言っておくが俺も大将もレイチェルに無理強いはしていないからな。脈ありだと思ったからこそ進めた計画だ」


「さすがにそれまで嘘だったら僕は出家するぞ」


 と、ヴェルナーは笑って見せた。


 それが余裕のある笑い方だったので本当に満足しているのだろうとは伝わったが、からかい甲斐がなくてつまらないアクイラであった。


「次の遠征予定は決まっているのかい。僕が倒れたことで随分と迷惑をかけてしまったかもしれないが」


「気にすんな。部隊の再編とかやること色々あって、お前だけを待っていたわけじゃない。今のところ一ヵ月後に出陣を予定しているが、あくまで予定って段階だ。まだ他の奴には言うなよ。現場を混乱させるだけだからな」


 部下が二人しかいないヴェルナーにとっては大した準備もいらず、一ヵ月が一週間でも特に問題は無い。それよりも一ヵ月あればそれだけレイチェルとゆっくり出来ると考えてしまった。


 一ヶ月経てばまた人間の兵を虐殺しなければならない。王に罪はあっても、兵士たちに責任を求めるわけにはいかない。それでも真っ先に犠牲になるのは彼らなのだ。


 水袋に穴が空くように、一度零れ出した弱さと罪悪感が止めどなく溢れてくる。今はただ、肉欲に溺れていたかった。

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