解説
とても不躾なことに、僕はヤングケアラー、つまり学生でありつつ、親族の介護をする者ではありません。たぶん、順調にいけば、自分がまともに生活を立てることができるようになってから倒れて、老人ホームに入れる、そう思います。とても不躾ですが。ですから、そして願望として、僕は介護学科に入りたくないですし、親の介護もしたくないです。伴侶に押し付けるのも、アンフェアなので、老人ホームに送ります。
介護については適当なことを言いました。たぶん、老いについて、今の僕は疎いです。平日昼にシキりにやっている(漢字クイズです。別に無視してもいいです)サプリメントや、女性のウィッグ、シミ消し化粧品のCMの醜さに吐き気をもよおしています。人をばかにしたようなコンプレックスの煽り、しかも発話が遅い。なんだか、生活を改善するというより、一つのインチキ商法にしか見えません。
詩というものはちとデリケートですから、思想を混ぜすぎると汚くなってしまう。という訳で、始めから適当に詩を書いてこの長い解説を書こうと決めていました。つまり、二の矢を持っていたのですが、ちょっとそういうのはなるべく減らすようにしたいですね…、
今回のテーマですが、知っている事柄を差別することと、知ると差別的な感情が芽生えるから始めから無視するという態度は、どちらの方がいいか、ということです。
そうでない方には申し訳ないですが、アメリカ人は大抵ハキハキしてる、というステレオタイプと、それともまったくの無知ではどちらの方がいいか。
もっとはっきり述べた例だと、障がい者の姿は見るべきか、無視するべきか。
自分も一応症例としては発達分野で当てはまるのですが、たぶん自分はそこまで重篤ではないでしょう。それはいいとして、特に、歴史的に目の見えない人(盲人と略させて頂きます)は、立場として、差別されても、自分を見てもらう、ということを選んだようです。
瞽女という人たちが室町あたりから昭和の戦後ちょっとまでいました。盲人で、芸能活動を行っていました。時に、瓦版に載る事もありました。また、場合によっては売春行為に及んだこともあったそうです。支援なしに自立して生活するのは難しいと生活の実態と、意思がそう判断したのでしょう。
また、三味線弾きもそうですね。
また、逆の生きづらさもありました。今回は日教組叩きの立場で申し上げますが、よく言われるみんなで手を繋いで徒競走のゴールテープを切る、ということも、上位にいる差、下位にいる差を、無視しようということになります。この時に発生したのが同調圧力ではないか? と自分は考えています。この方針を実施したら、間違いなく出る杭を打つ教育になります。
かくいう僕は、現に障がい者施設の隣に家を構えていますが、僕は学校のこどもたちがあまりにも施設を差別して、助ける意志がないように見えたので、自分は施設の中の彼らを存在しないものとして見ています。彼らをはっきり見ようとすると、こどもたちが言っていた偏見に惑わされて、僕は支援者ではなく、差別者になってしまいそうでしたから。
ですが、僕はそこそこ本を読んだ身なので、それがまずいことはある程度分かっています。どう変えればいいのでしょう……。
また副題として実は身近な人たちも、実は自分にとって、海の向こうにいるかもしれない、ということを提言しました。
こんなところですかね、興ざめなマジックの種明かしは。
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