雪神

砂野秋 紗樹

第1話

「あー、寒い、寒い」


おばあちゃんちの家の玄関を開けながら、ワタシは思わず声が出た。


「やあ、よく来たね。コタツにお入り」


小学生の頃、ワタシは近所にあるおばあちゃんの家に、学校帰りによく通っていた。


おばあちゃんは、一人暮らしで静かだし、うるさくてワガママな弟や妹たちから逃れてのんびりできる、ワタシの唯一のオアシスのような場所だった。



勝手知ったる人の家。


ワタシはお気に入りのピンクのランドセルを玄関におろして居間に入ると、さっそくおばあちゃんのいるコタツにもぐり込んだ。


「ミカンでもお食べ」


暖かそうな綿入りのハンテンを着て、ちんまりと座っている小柄な白髪のおばあちゃんが、ニコニコとワタシにすすめてくれる。


例え相手がおばあちゃんでも、すすめられないうちは人の家のものに手を出さないと決めていたワタシは、嬉しくて、「ありがとう」と一言言うと、さっそくコタツの上の籠の中からミカンを一つ取って、皮を剥き出した。


家で母親がミカンを買ってくると、すぐ弟や妹との取り合いになり、気づいたら、一つしか口に出来ないこともざらだが、おばあちゃんちでは「もっとお食べ」、と、一度に二個も三個も食べられて、誰も文句を言う人はいない。


「三つ編みが、ほどけてきているね。おばあが、やり直してあげよう」


その日は、体育があったので、ぐちゃぐちゃになってしまっているのは分かっていたが、腰まである長い髪を自分でやり直すのは面倒くさかったので放置していた。




「おばあちゃん、何か、お話し聞かせてよ」


おばあちゃんは物知りで、また話も上手く、ワタシはいつもそうやってせがんだ。



「そうねえ、…」


いつもは、そう前置きした後、すっと楽しい話をしてくれるのに、今日は少し言い淀んでいる。


「この話は…。まあ、でも、春羊(はるよ)ちゃんも、もう小学六年生だし…。ちょっと、このお話は、怖いのだけれど」



怖い、お話…。


今までおばあちゃんの口から聞いたことの無い、その切り出しかたに、ワタシの心臓がドキッとし、好奇心がうずいた。


「ワタシ、もう小学六年生だから、大丈夫!怖いの、お話して!」


「そうかい。じゃあ、怖くなったら、いつでも言うんだよ」


そう言うと、おばあちゃんは静かに語り始めた………


「春羊ちゃんは、雪の降る日に町の中で、踊っているような仕草をしている女の人を見たことは無いかい?」


しばらく思い出そうとつとめた後、「んーん」、と首を振る。



「よかった…。もし、今後見かけたとしても、近づいたり、話かけたりしては、いけないよ」


「どうして?」


「彼女は雪神(ゆきがみ)、と言ってね…」


「雪女とは違うの?」


ワタシは、乏しい知識を総動員して尋ねてみる。



「雪女は、氷のような息を吐いて、人を殺してしまう妖怪。雪神は、自然神のようなもの。ひとたび目をつけられたら、その人間は決して逃れることが出来ない…」



おばあちゃんの目が、いつもの優しさを湛えた瞳では無く、スウッと熱が冷めたようになる。



怖い…



言いかけた言葉を、口を手で押さえて慌てて飲み込む。


ここで怖い、と言ってしまったら、優しいおばあちゃんは、二度と怖い話をしてくれなくなるだろう。


話を途中でやめられてしまうのは、ワタシにとっては心を殺されてしまうのも同然だった。


せっかくのチャンスなんだ。


怖いと思うのは、話を全部聞いてしまってからでいい。


「それで…。雪神に目をつけられてしまったら、どうなるの?」


自分でも驚くほど、弱々しく、小さな声になってしまい、それに気づいたおばあちゃんの目がまた、スウッと現実に戻ってきて、ワタシを見て優しく笑った。



「大丈夫。雪神は基本的に男しか狙わない。雪の降り始めたその日に、この町では、若い男が一人、消える。だけど、誰も、探しに行かない。それは、雪神の仕業だと、町の者は皆分かっているからだ。雪神は、町の近くのシノフ山に、男を連れ去る。それを追って山に入った者は、皆雪に絡めとられて殺される…」



その時、強い突風が、ガタガタと窓を揺らした。


見るとガラス越しに白い雪がちらついている…。



今年の冬初めての雪だった。



どうしよう…。


今から、一人で家に帰らなければいけない事実を思い出す。


やっぱり、怖い話など、聞かなきゃよかった…。



そんなワタシの心を見透かしたように、おばあちゃんが笑顔で言う。


「春羊ちゃんには、この話はまだ早かったかもしれないね。けど、大丈夫。今日は、おばあちゃんが送ってあげるよ」



コタツから立つと、洋服掛けから焦げ茶色のコートを取ったおばあちゃんを見て、ホッとする。


ワタシもコタツから出て、玄関へ行き、ランドセルを背負って靴をはく。


その時、少しよろけてしまい、靴箱の上にあった写真立てを倒してしまう。


「ゴメン、おばあちゃん」



コートを着てやって来たおばあちゃんに言い、ワタシは倒してしまった写真を慌てて立てる。



その写真には、若い頃のおじいちゃんと、おばあちゃんがセピア色の中に、並んで写っていた。


おじいちゃんは、スーツを着ていて、スッと姿勢良く立ち、おばあちゃんは着物を着て、口をおちょぼ口にして澄ました顔をし、膝の上で両手を重ね合わせて、椅子に座っている。


「ねえ、おばあちゃん、なんで、おじいちゃんと結婚したの?」


ワタシの生まれる前に亡くなったおじいちゃん。


ワタシにとっては、未知の人物だった。



「おじいちゃんはね、若い頃、ハンサムだったんだよ」


おばあちゃんが、昔を思い出すかのように、目を細める。


確かに、写真を見ると、おじいちゃんは細面で鼻筋が通り、目が涼やかだ。



「へーっ。てことは、恋愛結婚?」


「うん、そうだね」


そう言ったおばあちゃんの、優しくシワの入った頬が、ほんのり赤くなった気がした。



「さあ、暗くなる前に、帰るよ」


照れを隠すようにそう言うと、おばあちゃんは靴をはいてワタシの手を握った。


おばあちゃんの手は細く、肉が薄いのに柔らかく、そしてヒンヤリしている。


「おばあちゃんの手、冷やっこいね」


「このところ、寒いからね。年寄りは、こんなもんなんだよ」


そう言うと、ワタシを見て笑った。



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