第13話 進もうか
アイヤゴンの決意に反してその夜はロレンシオを逮捕出来なかった。長年暗躍するスパイらしく、魔力の強弱では決せない狡猾さで彼は逃げおおせてしまったのだ。
ソワソントヌフからすればダンテさえ来ていれば、と恨み言がどうしても零れてしまうのだが、彼らもダンテを頼りにしていたことで自分達に緩みが出てしまったことを自覚してはいる。
「ダンテに頼り切って己の研鑽を忘れていた自分を私も恥じている。諸君、共にもう一度ソワソントヌフとしての誇りを取り戻そう」
一件が解決した後、珍しく自分の非を認める訓示を班員に垂れたアイヤゴンだった。
ソワソントヌフの一念でロレンシオの部下共々セルファチーは捕えられたのだが、彼女が長年追っているのはロレンシオなのだ。それでも今回は彼の尻尾を掴んだのだけは収穫だった。これまでは半ば伝説のような存在になっていたのだから。
事情聴取のしつこさには閉口したが、父の恋人に害が及ぶのを恐れたイヴェットはモルガーヌの名を出さず見知らぬ美しい女性で通したので、警吏達は誰もが、被害を免れたセルファチーの新たな犠牲者、と位置付けた。
「ありがとうイヴェット」
やっと面会が許されると父に感謝されたが、彼女にしてもモルガーヌが必死にヒクマトを手当てしてくれたことを、薄っすらとした意識の中で覚えていた。彼女の通報がなければヒクマトは出血の為に死んでいただろう。そうなればイヴェットは一生その事を背負って苦しむことになる。
茜府の中庭にはセルファチーの診療所が不似合いに存在していた。職員の為に配置されたテーブルセットで対面した親子は抱擁を交わし、椅子を並べて座った。
「ヒクマトには感謝しても仕切れないね」
「そうだな。何よりも大切なお前を助けてくれた」
彼の大切な宝物である娘の肩を強く抱いた。父の体臭も力強さも懐かしい心地良さだった。
「怖かったよ父さん。あの暗い地下であたしの一生は終わるのか、って絶望しそうだった」
想像を絶する恐怖だった。《鳥籠》に入れられて小さくされて手も足も出なくて、面倒になったロレンシオに捨てられたらきっと自分は誰にも捜しあてられずに暗闇の中で干からびていくのだろう。そんな考えに圧し潰されそうになるのを耐えていた。
回転に目を回して意識を失いはしたが、転がり落ちる間もヒクマトが必死に追ってくれて、それだけで救われた思いがした。自分は見捨てられたりしないのだと。
「父さん、あたしバカロレアの結果がどうでも学校、変えるよ」
「…そうか、それがいい!しばらく学校も休んで何処にするか考えるといい」
「うん、そうする。父さんの取調べは長く掛かりそう?一緒にメロディおばあちゃんのとこに行きたいな」
「先に行っててくれ、必ず行くから」
「分った。迎えに来るまで帰らないからね」
「ああ」
父とモルガーヌの結婚も祝福しよう。ようやく幸せに向かう道が見えた気がした。
ヒクマトとの面会は外でという訳にはいかなかった。面会自体が難しくベタンクールが自ら立ち会って面会させてくれた。
「わざわざこんなとこまで来てくれておおきにな。元気そうで良かったわ、話では聞いてたけどこの目で見れて安心した」
流石に破れた服ではなく、ジョアンナが差し入れた服に着替えていた。
「そんな、こちらこそだよ。あたしの所為でこんな目に遭わせちゃって…なんて言っていいか、ありがとう、ごめんね」
「そんな必要ないて、これは自分の所為や」
「そうだなヒクマト自身の所為だな。だからイヴェット背負い込む必要はないぞ。ソワソントヌフの告発から庇ってやりたくてもやり様がない」
ベタンクールは苦い表情で割って入った。唯一の譲歩材料はイヴェットの市民の命を犠牲にしようとしたことだけだ。
「すまんウスターシュ」
ヒクマトはベタンクールの先輩でもあった。
「元の部署には戻してやれんぞ」
「地方に飛ばされるんか?それもええな」
上司の気も知らずげなヒクマトにベタンクールは溜息を吐いた。
「珈琲を買って来てやるよ」
言いおいて二人切にしてくれる。
学校を変える話をヒクマトは喜んでくれた。負けた気がしてやっぱり癪だが、オーレリアと同じ学校で苦しむより転校して学生時代を楽しみたかった。
「リュテスがお薦めやで。北の大都市やしグランゼコールも大きぃて魔法生物科もあってな、学生が暮らしやすい街になってる」
「ヒクマト」
「トゥーサンのこと考えたらトロザから離れて遠い方がええんやろ?」
この歳上の友達は自分の気持ちを解かってくれて調べてくれてたんだ。ホロッときた。その反応にヒクマトは慌てた。
「そういうんなし、そういうんなし。もう泣いたらあかん」
「うん、ごめんね泣き虫で。ありがとう父さんと相談してみる」
「そうやで、泣いて過ごすには子供時代は短いんやから、笑って楽しまんとあかんで」
そして大人になってからの長さ!いつかイヴェットも子供時代の貴重さを理解するだろう。
話しの区切れを見計らってベタンクールは珈琲を差し入れた。
面会時間は短かかったから、尽きない話は再会の約束となった。
ダンテが茜府を辞めるという情報が飛び交うと、他府や他部署からの引き抜きが掛かった。顔色を変えた会計方のエティエンヌ・セリュリエ老人は病気をおして茜府に現れ茜の君をなじった。
「それ見た事か!お前の色仕掛けが足りん所為だ⁉折角の有望株なのに色より粗暴さを感じて逃げられたんだぞ」
育て親としての気安さで頭ごなしに叱り付ける。大体聖女が色仕掛けしては不味いのだが。
「あたいの溢れ出す色気が解かんねぇのは十歳以下のガキしかいねぇんだよクソ爺。寝床でへたばってろ死にぞこない⁉」
茜の君も聖女とは思えぬ乱暴な口利きで反論する。
「リュウマチで死ねるかバカ娘が!」
慌てた側近達が周囲に《沈黙の帳》を降ろして暴言の遣り取りが洩れないようにしたお陰で、「今からでもベッドに引き込んで……」云々は外に洩れずにすんだ。
誰よりもダンテの退職を嘆いたのはガエル・ブーローとイーハーブ・ワーケットの二人だったろう。強面の兄さん姉さんに書類の不備を説明する人間がいなくなってしまうのだ。夏季決算の準備も始まっていて二人にはストレスフルな日々が続いていた。
「不正規雇用は辞めるけど臨時で決算時期には手伝うし、はいご挨拶の品」
マノンの指導を受けての挨拶回りである。お菓子の箱を背負い子に山と背負い、マノンが指定したビスキュイテリエ・レミュザの高いビスキュイ・アソルティの箱を差出す。蛇どんは身体に巻き付けずハリネズミの姿で頭の上に張り付いていた。
お菓子より決算期には臨時で来てくれるという言葉に二人は喜色満面、踊り出さんばかりだ。
「困ったことがあったらいつでもお出で、相談に乗るからね」
彼が困ることなんて絶対自分達には対処出来ない、とワーケットは思ったが反論せずブーローの言葉に同意を示した。
「ありがとう。また直ぐ顔を合わせるけどその時までお元気で」
ソワソントヌフではこんな感じにはいかなかった。受け取るやゴミ箱に捨てた者もいた。一人ではない。
行動が子供っぽ過ぎる、
「ありがとう。大切に頂くよ」
笑って受取った。小さく手を振る者もいた。
最後の最後にマノンを残すあたりダンテの行動は正直だ。
「マノンの分」
と二箱。
「お兄さんの分」
と二箱。
「甥御さんの分」
と二箱。
大盤振舞いだ。
早速箱を開けると甘い焼菓子の芳香が広がる。
「これこれ、あ~いい香り~。ちゃんと解ってるようね」
一つ齧って匂いに釣られて集まった同僚達に回す。独り占めしない、それが彼女の美点だ。
「これからもよろしくお願いします」
「なんで、これでお別れでしょう?」
彼女の敬愛する鬱金の君とダンテが繋がっている限りお別れにはならないのだが、それを承知で意地悪する。
「そう仰らず、俺は田舎育ちで都会のこと分からないから、これからもご教示お願いします」
仔羊の頭をぺこりと下げる。ハリネズミがバランスを取ってアクロバティックな動きを取った。
「その時には必ず季節限定のケークを持参して来るのよ」
「はい、お宅に持って上がります」
「なんで⁉」
「だって茜府辞めるし、仕事上の理由では鬱金府に来れない」
「勇者だなぁダンテ。お前マノンに怖い兄ちゃんがいるってちゃんと理解してるか?」
絶句するマノンの代わりに同僚のジェルマン・アランブールがビスキュイを齧りながら訊いた。
「策はある。お兄さんにも俺を認めてもらうつもりだ。そこら辺はちゃんと心得てるから安心してくれマノン」
「何の心得よ、要らないわよ。あたしだって仕事で忙しいんだから昼休憩に来ればいいでしょ」
「ええ?マノン友達多いから毎日誰かと食べに出てるじゃないか」
「よく知ってるわね」
ちょっと怖いマノンだった。
「連絡くれたら空けとくわよ」
「じゃそれで、必ず空けといてねマノン」
了解を得たとばかりに口調が明るい。押しが強いダンテだった。
挨拶回りの本当の最後はヴェシエール家だ。
ディズヌフのカジミールやパコ、トゥーサンは謹慎中で、素直に忠告を実行するダンテは彼らの下にも挨拶回りした。イヴェットも在宅していた。
市外に転送屋がある。そこで今日メロディおばあちゃんの下に転送してもらう予定だった。
「辞めるのか残念だな。わざわざすまんな」
セルファチーが捕まったのでモルガーヌは自宅に帰り仕事に励んでいた。
「美味しそうなビスキュイ…」
年頃の女友達がいないイヴェットは、トロザで大人気の焼き菓子の店だということも知らない。
「マノンの推薦だから絶対美味しいと思う」
「ありがとうダンテ、地下での事も。父さんと一緒にあたしを助けようとしてくれたんだってね、父さんに聞いた」
「うんそう」
「前に失礼な事言ったの謝らせて、ごめんなさい」
「はあ~?今更謝られたって傷付いた俺の心はどうにもならないね」
「あ…そうだよね」
虫のいい話だったのだ。イヴェットは蒼くなった。
「そうそう、だからイヴェットも謝られたって「ごめんなさい」の一言で許せないことを許してやる必要はないからな」
「ダンテ…」
「まあ、大抵のことは謝られれば無理すれば許してやれるけど、そうじゃない場合も絶対あるから、「ごめんなさい」の一言で許してもらおうなんて虫のいいい奴は、正直にハッキリ許せないって言ってやればいいんだ。許してやれないことで悩むことなんてない。分かった?」
「うん、分った」
「それとさっきの言葉は撤回だ。気にしてないから気にするな」
「ありがとう」
涙ぐんではいたが晴れやかな笑顔になった。
「許せないことがあったんだ、ダンテ」
「一生俺の視界に入らなければその時お前は許される、って言っておいた。それが最大限の譲歩だ」
訊かなければ良かったかもしれない。まあ、許される方法を提示してはいるのだ。
「じゃああたし忘れ物ないか荷物確認して来る」
二人の話の邪魔にならないようにイヴェットは理由を付けて自室に下がった。
「大丈夫かな?イヴェット変わったな。誘拐された後遺症かな?酷く心に残らなかったらいいが。夜うなされたりしてないか?」
「はは、かなり怖かったらしいが、それはそれとして考えるところがあったらしい、娘は大丈夫だ」
「うなされるようだったら薬があるから言ってくれたらいい」
ぶっきら棒だがダンテは優しい。そんな者に茜府は長く続けられない。トゥーサンにはそれが寂しかった。
「辞めてどうする?高給取りだったからしばらくは心配ないだろうが」
「薬を売る。元々薬作って生計立てていたから戻るだけだ」
思い返すと何度か薬をもらった覚えがトゥーサンにもあった。
「薬に使う虫がね、俺じゃないと上手く育たないらしいんだ。兄弟子に頼んでたんだが全滅ではないにしろ薬に必要なだけ殖やせない」
何の薬か虫をどう使うかは訊かないことにした。聞いてしまえば薬を飲めなくなるかもしれなかったからだ。
言葉少ななダンテは長居せずヴェシエール家を辞した。
「ゆっくりしていけばいいのに」
「カジミールに呼ばれてる」
「カジミールに?」
意外な組合せに驚いた。個人的な付き合いがあるようには見えなかったのだ。
「身体が鈍るから棒術の稽古相手になれって」
「血が苦手なのにか?」
「血が苦手でも身体を鍛える為に習える」
能力のある者は自らの持つ強力な魔力に負けない為に身体を鍛えねばならない。でなければ魔法を展開する際に失敗したり怪我をしてしまう。そんな初歩的なことを失念してしまっていた。
「そうか、よろしく相手になってやってくれ」
「問題ない。俺を舐めてるから痣だらけにしてやる」
親指を立てた。
話半分に聞いていたトゥーサンだったが、後日会ったカジミールは本当に痣だらけになっていて、ダンテがいかに強かったか教えてくれた。
謹慎中だが部下達の葬儀に出席することが出来た。ヒクマトは拘留されたままだったが翌々日には監視付きで釈放された。
「お疲れさん」
迎えに行くと意外と疲れの色はなかったのが安心させた。パコと痣だらけのカジミール、ジョアンナも同行している。行きつけのビストロでプレッシオンで乾杯だ。
「はあ~、ここの料理恋しかったわ~」
鴨のもも肉のコンフィや牛頬肉の赤ワイン煮などの定番料理がヒクマトの胃袋に消えていった。デセールにクレーム・ブリュレを二個食べて満足の息を吐いた。
「何言ってんだ。面会出来なくても差入れが多かったって聞いたぞ」
かく言うカジミールもチーズとワインの差入れをしていた。
「それはそれやん。犯罪者に旨い食事させんでええけど不味いわ、量は少ないわ!差入れ全部食べてもうた」
「ヒクマトが釈放されて安心したから俺は明日から休暇をもらう」
トゥーサンが告げた。
「気にせぇへんで良かったのに」
「そういう訳にもいかないでしょ。僕も君が元気そうで本当に良かった」
事情聴取は表向きでソワソントヌフの尋問は相当きつかったはずだ。それに関してはダンテのお陰でもある。尋問と称して酷い仕打ちを受けないように特に非情な数名に、個別に闇討ちしてやる、と気配もさせずに背後に立って囁いて回ったらしい。
「次にダンテに会うことがあったら何かお礼を絶対しなきゃな」
心からパコは感謝した。それは他の者も同じだ。
「処分に関しては何か耳打ちがあった?」
静かに君を傾けていたジョアンナが問うた。
「あった。うち軍隊の引き抜き受けるわ」
「ヒクマト!ダメよ私も上層部に掛け合ってみるから…」
「おおきにジョアンナ。せやけど今特捜に帰ってもソワソントヌフからの嫌がらせがあるやろ、捜査に支障が出るかもやん」
それには前例がある。ソワソントヌフと対立すると尋常ではない嫌がらせを受けるのだ。誰も否定出来なかった。
「内々に
聖ルカスとの戦争が本格化する中で、兵隊の増員が急がれていた。
「平での勧誘やないから、ちょい出世して来るわ」
彼女はいつもと変わらず飄々として明るい。
「次に会う時は鬱金の君の側近になってるかもしれんで、せやからパコ寂しいても泣いたらあかんで」
ここに揃った誰もが特捜に配属された当初ヒクマトに世話になっていた。先輩で先生で気の置けない友人が軍に取られてしまうのを悲しまない者はいない。
「忘れるなよ、俺はまだ娘を救ってもらった礼をしてない。必ず帰って来て礼をさせてくれ」
「分ってんがな。忘れても思い出させて恩返させるって、心配しぃな」
数日後彼女の官舎はいつの間にか空になっていた。誰にも別れをさせず彼女は去った。いかにも湿っぽいのが嫌いな彼女らしかった。
サマロブリワは一足早い秋が来ていた。
「あっという間に冬が来るからね、冬物を買いに行きましょうか」
可愛い孫のような娘を手に入れて、メロディは大喜びで連日イヴェットを連れ回した。水路を小舟で移動して買い物をするのは新鮮な体験だったから、買ってもらうのは心苦しかったが楽しい経験になった。
白髪を隠さず程よく皺の寄ったメロディに、イヴェットも甘えて色んな話を聞いてもらい相談した。
楽器を使った魔法具の製作に長けた彼女はその道でも尊敬されていて、若い頃はリュテスのグランゼコールや大学で講師を務めたこともある。現在も年に数回講演していた。
「あそこに行くなら学生寮やら何やら紹介して上げられるわね。予科への入学手続きも手伝ってあげられてよ」
ニコニコして本当に嬉しそうな様子にイヴェットの心は決まった。トゥーサンの到着を待って三人でリュテスに下見に行く計画を立てた。
この喜びをイヴェットはセルジュにも手紙に書いて送った。
メロディの言葉通りあっという間に冬が来て、冷え込んだ朝に父はバカロレアの合格通知と共にやって来た。
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