第1話 お父さんの恋
仔羊のダンテは仔羊ではない。羊でもなくて人間だ。仔羊の頭を被っている。
その前は垂れ耳兎の頭を被っていた。だが女子に不評だと聞いて仔羊の被り物にしたのだ。さらにその前は猫だったが猫アレルギーの同僚に鼻水を垂らしながら「止めてくれ」と頼まれた。どうやら猫を見ただけで反応してしまうらしい。その前は東洋風の面布を付けていたが、「呪われそうで嫌だ」と大不評だった。
かくも被り物に拘る理由をダンテは詳らかにしない。ただ「恥ずかしがり屋」だからというだけだ。
周囲にはとてもそうとは思えなかった。何せ瞳の部分には魔晶石が嵌め込まれているから瞳の色さえ分からない。事務方なのに常に手袋をしていていたから肌色も分からない。
そこまで徹底する理由が知りたかったが、ダンテは有能なのに非正規雇用だったから、問い詰めて辞められるのが嫌で皆黙認していた。
何せ忙しかった。
そして上司のイーハーブはさらに盾にまでしていた。
ここは聖女の治めるアルトワ・ルカスの聖都トロザで、聖女を支える色の名の聖女である茜の聖女が執務する茜府だ。常に問題や新しい企画を抱えて職員は走り回っているのだが、特に最近は聖女が聖ルカスの騒動に首を突っ込んだから猶さらだ。
なので有能な職員は、非捕食者の被り物をして大蛇の使い魔を身体に巻きつけている怪しい人物でも居て欲しい存在なのだ。大蛇はダンテの肩に頭を乗せて常に眠っていて「蛇どん」と呼ばれていた。
茜府の長である茜の聖女も、禁じ手である色仕掛けまで使ってダンテを正規に抱えようと画策していた。
アルトワ・ルカスは聖女と、その下で色の名で呼ばれる聖女達がこの国を支えている。彼女達は聖女と名の付く者になった瞬間から俗世俗縁と縁を切らねばならなかった。神と国家に身を捧げ血族とは接触を禁じられて元の名では呼ばれなくなり、公文書にも「茜の聖女」とだけ記されるのだ。その証明に彼女達は顔の上半分を自分の色を配した仮面で覆わねばならなかった。
通常、茜の君と呼ばれる茜の聖女は翼を模した赤色の仮面をつけて元気にウェーブする髪をほったらかしにしているが、仮面とココシニクを併用する聖女がほとんどだ。
聖女とだけ呼ばれる最高位の聖女の下にそれを補佐する白磁と白百合、烏羽と濡羽の白黒二対の聖女がいる。府を開いて国政を助けるのは鬱金、茜、常盤、露草、すみれの五色の聖女だ。
聖女の下の平等を標榜するアルトワ・ルカスには移民も多く、常盤は南の大陸からの移民の家系で白百合は東に近い熱い砂漠の国からの移民の家系である。なので未だ奴隷制を有する聖ルカスにとっては目の上のたん瘤だし、身分の上下を有する近隣諸国には敬遠されていた。
その国にダンテが現れたのは三ヶ月程前のことだ。ある日茜の君は職員を集めて彼を紹介した。背はひょろっと高く面布の下にチラッと見える髪は金だった。どういう経緯で彼を預かることになったのか茜の君も当初は胡散臭げにしていたから詳細は知らされていなかったのだろう。
声が低かったから男性で若いが成人しているのだろうと察しはついたものの、年齢も生国も明かさぬままで茜府の一員として働き始めたのだった。詮索されなかったのは茜府にはその手の訳ありな人物が少なくなかったからだ。それは茜の君の職務の所為もあったが、出自の方が強く関係していた。
茜の聖女は同僚達のように良い出自でもなければ聖女を志していた訳でもない。聖女になるには懸命に勉強して聖女候補に選ばれてからも政務官として各地に派遣されて業績を上げ、地方の住民や有力者達に認められるよう励まねばならない。それが生れの区別なく聖女になる為に辿る路なのだ。
しかし茜の君は孤児で読み書きがようやく出来る程度の教養しかなく、地方のしがない酒場で働きながら、孤児達を育て問題児達の面倒を看て、道を逸れた連中の相談に乗ってやっていた。
そんな彼女が世に出たのは、先日病死したと公表されたシードル・タラセンコを捕えた事がきっかけだった。
最北の国ベラドルカの監獄から脱走したタラセンコは、ある日突然アルトワ・ルカス北東部の村に現れた。己の狂気のままに村を襲い人々を虐殺する、それは乳呑み児さえ躊躇わない残虐さと、討伐に向かった地方軍も返り討たれるという恐るべき強さで一帯を震え上がらせた。
管轄地の軍が再編と称して中央からの応援が来るまで時間稼ぎしている間に、独り立ち向かったのがヴェロニク、当時は酒場で働いていた現茜の聖女である。
老齢を理由に引退した元すみれの聖女は、彼女の出自やムチムチの豊満ボディに隠された心根の正しさや賢さを見抜き、流石のヴェロニクがノイローゼになりそうな程に粘り強くしつこく勧誘して彼女を政治の表舞台に立たせたのだった。
最下層の出身なだけに現実的で、何が重要で必要とされているのかの判断に優れた彼女は、茜の聖女となると全国の警察組織を任された。
出自の良い色の名の聖女達は犯罪者の採用を躊躇ったが、彼女は躊躇わなかった。だから茜府には元犯罪者や訳ありな人物が多く在籍していて、まともな家庭や名家の出身者は務めたがらなくなってしまった。
白百合の聖女と同じ方面から移民して成功した家の出のイーハーブは、良い教育を受けた優秀な人材だったが、聖女の下の平等を標榜するアルトワ・ルカスでも差別は存在する。中央政庁である聖女宮に採用されたものの、気弱な彼が一番望まなかった柄の悪い茜府に配属されてしまった。そうして日夜、高官となりながらも理由の通らない領収書を提出して来る強面の連中と対決せねばならなくなったのだ。
「だからよ、あたいが良いっつってんだから会計庁にそのまま回しゃあいいんだよ」
横柄で威圧的な態度で、茜の君は竦み上がるイーハーブにそれはそれはとてもとても面倒そうに告げた。
「はい…、ですからその会計庁からですね、承認が得られず申請書類が戻って来た訳でして…」
「知るかよ、そこを何とかするのがお前の役目だろうがよ。エティエンヌ爺さんはいつだって何にも言わずに通してくれたぜ。やり方が間違ってんだろお前」
それはあり得ないし闘病中の老セリュリエからも絶対押し負けるな、と強く命じられていた。エティエンヌ・セリュリエは孤児のヴェロニクを拾って育てた酒場の主で、聖女候補時代から会計を担っていた。
最初高官達は地方のしがない酒場の主人に政庁の会計方が担える訳がない、と嘲笑っていたが、あら不思議、数字に弱いヴェロニクに代わって完璧に会計を支えたのだった。
その彼も寄る年波には勝てずに病を得たのだが、引退したくとも後継が決まらずにいた。勿論会計方はイーハーブだけではない。だが誰もが茜の君に押し負けてしまうのだ。それで新人のイーハーブにお鉢が回って来るのだが、彼も前述の通りであり、一人では茜の君と話すのさえまともに出来ない有様だ。そんな彼が必ず同行させるのがダンテだった。
「そ、そんなことないよね、ダンテ」
素早くダンテの後ろに回ろうとするが躱されてしまう。
仔羊のダンテは仔羊じゃない。羊でもなく人間で、文字通り仔羊の皮を被った非正規雇用労働者だ。茜府の会計方に回され、時には気弱な上司の盾ともされる頼もしい部下なのだ。
「ダンテェ~、本当か~い?あたい何か間違ってたぁ?」
茜の君は組んでた腕を解いて豊満な胸を強調し猫撫で声を出した。
髪を深紅に染めた茜の君は、常に聖女らしからぬ露出の多い赤い服を身に纏っていたから、仮面をしていても艶めかしい白い肌が曲線を描いて重く膨らんでいく様に目が惹きつけられてしまう。
「はい根本的に」
何の忖度もない返事だ。
「弱い立場の部下を脅しても書類が通らないのは変りません。通っていたのは茜の君を上司に持った不幸を憐れんで目溢ししていてくれたからです」
「ほらやっぱり間違ってない。イーハーブゥ、会計庁でちゃんと泣きついてこなかったんだろう?どうであろうと通させちまえばこっちのもんなんだよ。ほれ頑張って来い!」
そう言って書類を押し付けようとするが、ダンテが一歩前に出て阻止する。
「なんだ?ダンテが通してくれるのか?やっぱお前は優秀だよ」
「いいえ、それはあり得ません。この金額は高額に過ぎます。了承出来ません」
「ちっ」
茜の君は舌打ちした。
「それは剣聖をお迎えした時の出費だぜ。剣聖がザル呑みしたんだ貴賓の為の接待費は必要経費だろうが」
剣聖ダユーはこの国で唯一の剣聖だ。老境を迎えて知人の下に身を寄せていたのを先頃聖女の警護隊士選抜会の選考員として招待していた。所謂打ち上げ飲み会の費用なのである。
「聞いてます。ですがこれはその後の個人的な招待での酒代ですよね」
所謂二次会である。
「折角お越し頂いたダユー殿が呑み足りなそうだったからよ。じゃあ呑み直しますか、ってなるじゃねぇか」
「御老体に呑み過ぎは禁物です。程々で終わらせるように諫めるのが茜の君の役目と存じますが?」
当然の正論である。
「老い先短けぇんだから好きなだけ呑ませてやりゃあいいんだよ。少しばかし節制したって寿命は変わんねぇよ」
「かもしれませんがこの酒代は自分でお持ち下さい」
「ちっ、融通の効かねぇ石頭が」
目を眇めてダンテを睨む。
「その代わり茜の君が個人的に負担されたさら生院の費用は捻出させます」
茜の君にとっては意外な展開だった。イーハーブも同じだ。彼女は聖女としての報酬のほとんどを惜しげもなく福祉に回していた。
「ほっ?いいのかよ、そんなこと出来んのか?」
「俺、有能なので」
「わぁった、任せたよ。うんもう、ダンテったらぁ。やっぱお前は手放せないよ。あたいと一緒にアルトワ・ルカスの明るい未来を築かないか?」
最後まで聞かずに「失礼します」と一礼してダンテは下がった。
慌ててイーハーブも一礼して下がったが、胸の内に「ダンテは狡い」と子供のような感情が湧き上がるのを抑えられなかった。それが僻みや嫉みの類でしかない、彼の立場を考えると公正に見ても狡くはないのだが、イーハーブにしてみれば自分にないものが目についてしまって、解かっていても湧いてしまうのだ。自分では隠しているつもりだったが、素直に育った彼の表情は口にしなくても周囲に思いを伝えてしまっていた。
ダンテは途中で他の部署の人間に呼ばれて立ち話している。
「才能ゆえに訳あり」
席に戻ると先輩のガエル・ブーローが呟いた。
「え?」
「ダンテよ」
「ああ、本当に才能が豊かですよね。羨ましいです」
「そう?まあそう感じる時もあるけど、私はどちらかというとそこまでいらないって方ね」
鼻が高めのガエルは気が強そうに見えたが案外優しい先輩だった。中年を過ぎた頃のような外見だ。
「ねぇ、あの絶対外さない被り物は何故だと思う?訳ありがから顔を出せないのか、本当にシャイで素顔を晒していたら喋れないか」
「僕は前者のように思えます」
即座に答えた。聖女宮では魔法で顔の形や声を変えるのは許されていなかったから、素顔を晒したくないなら隠すしかないのだ。
「シャイな人って割と顔を隠すと自信を持って喋れたりするのよ」
「じゃあガエルは後者ですか?」
「ああ、いいえ、私も前者ね。でもそういう見方もある、っていうのを忘れない方がいいわね。そういう見方をしてるって訳じゃないけど、茜の君は彼の事を気にしてるのよ」
「そうでしょうね」
「底辺で育った方だから、才能を搾取されて心も身体もボロボロにして捨てられる人達を目にしてきたの。彼の才能もそうしたくはないとお考えなのよ」
「……覚えておきます」
「素直ねあなた」
言われてちょっと拗ねてしまった。
「子供っぽいですか?」
「違うわよ。裕福な家族思いの家に生まれ育って、家族の思いに答えられる才能が有って、善良に育ったあなたが眩しい人間もいるってこと。茜府には多いのよ」
「僕がぁ」
余りに意外で上げてしまった声に周囲の視線が集まった。
「あ、すいません」
無意識に頭を下げた。
「自分にないモノじゃなくあるモノを数えてみなさい。他の人達が持ってないモノをたくさん持ってるから」
そう言ってガエルは仕事に戻った。
定時に上がるとダンテは用がない限り集合住宅である独身用の官舎に直帰する。管理人は住民の中で彼を一番警戒していた。何故と言えば入居早々に異空間への路を部屋に作ろうとしたからだ。失敗して他の住民を巻き込んだらどうするつもりだと厳重注意を受け、以来目を光らされている。
帰宅すると殺風景な部屋にぼうっと楕円形の扉が浮かび上る。
「お帰り坊や」
水色の髪の妖艶な美女が料理皿を手に赤い唇を動かした。部屋には暖かい食事が用意されていた。蛇どんが身を解いてフカフカの寝椅子でとぐろを巻く。
「ただいまメリオールおばさん」
「おばさんはお止め。メリオールでいいんだよ」
美女は眉を顰めた。
「ていうかまた来てたんだ」
「何、その言い草。折角料理を作って待っててあげたのに」
「それは有難いけど、何も毎日来なくても」
「坊やが作る世界が好きなのさ。呼んでくれたお礼だよ」
それは訳ありな自分がいつでも逃げ込める安心な場所が欲しかったからでもあり、大切な物を置いておける場所が必要だったからでもあるのだが、ダンテにしても自分の思い描いた世界を作るのは楽しくのめり込んでいた。
この世界に水を必要とした時、応えてくれたのが泉の妖精を母に持つメリオールだった。彼女の泉がこの世界の水の源で、彼女がいる限り水は涸れない。けれど毎日ダンテの家に来る必要はない。
「仕事では何か面白いことはあった?」
「茜の君のおっぱいがデカかった!」
力強い答えにメリオールはたじろいだ。
「そ…そう、じゃあ私は帰るよ。ゆっくりお食べ」
「あ…うん、…ありがとう」
「分かってるよ。顔を見られたくないんだろう?ああ、そうそう、イフリーナと連絡が取れたよ。彼女も来てくれるってさ」
呼掛けに答えた時からダンテが被り物を取ったことはない。それを無理に取らせようとメリオールはしなかった。
火神であるイフリーナを呼べれば熱が手に入る。温泉が作れるのだ。着々と彼の世界は出来ていく。
鳥肉のガランティーヌやカボチャのキッシュ、レバーパテを勢い良く胃袋に放り込んで食事を終えても日没までにはまだ間があった。
次元と次元の狭間の空間に彼の世界は作られていたが、その空間に太陽が欲しくて現世の空間に重ねた。若干薄暗くはあるが太陽の光は彼の世界を照らしてくれた。
家の外の木々はいい感じに彼の家に木陰を落としている。鬱蒼とした湿気の感じられる場所は狭く、高原にあるメリオールの泉から引いた小川がチロチロと流れていた。
蛇どんが犬の姿で従う。
じきに乾いた大地が続く場所に出た。水が豊富な世界にしたかったが、まだ川幅を広げられる程大地は出来ていない。地層を頑丈に作り川上から大小の瀑布を何段も重ねる計画だから川床を整備、緑も忘れてはいけない。川が完成したら生物を呼びこもう。なるべくたくさん。
川は彼の手前で細い流れを終わらせている。木々を根付かせ、根を伸ばしてやる。そこここに果樹も植える。熱源が確保されたら熱帯の区画も作れるだろう。
(師匠が見つかったらほとぼりが冷めるまで二人でここに隠れててもいいな)
寂しい頭髪とコンパクトな身長、ふくよかな幼児体形の人物が懐かしく思い出された。
彼を守る為に危険な賭けに出たその人が、彼の下に帰るのをダンテは待っていた。
ここは現世の出来事に煩わされず平安を保てる場所なのだ。山羊を飼い畑を作って野菜と薬草を育て、以前のように魔術の研究や実験に明け暮れる日々を夢見た。
「お母さん欲しくないか?」
懐かしい台詞に皿を洗う手を止めてイヴェットは振返った。
食後のテーブルで珈琲のカップを両手で握った父は、覚えているのと同じ緊張した面持ちで返事を待っている。
感情を露わにせずまた皿洗いに戻った。
惚れっポイのかはたまた母に捨てられた娘を思ってか、一昔前はよく聞いた台詞だったが、この場合のネックは父が相手に告白する前に娘に訊いてしまうところだ。大抵はいらない、と思うが、時には相談相手が欲しくなって「欲しい」と答えたりしていた。なのに厳つい父は振られることの方が圧倒的に多く、紹介された回数は三度しかない。そしてどれも振られている。
考えてみてやっぱり要らないと思うが父の為なら欲しいと言ってやるべきだろう。しかし先ずは確かめねば。
「な~に父さん、付き合ってる人がいるの?」
反応や良し、と見て父のトゥーサンはいそいそと隣で皿を拭きし出した。彼は十代の娘がいるようには見えない若い容貌で、厳つい男の特徴として年齢不詳気味ではあったが二十代前半程度には若さが感じられた。
寿命が個人の魔力で決まる世界にあっては、親でも子より若々しいことがある。時折訪ねて来る祖父も魔力が強かったから父の兄の年頃、二十代後半のように見える。神殿の見立てではトゥーサンの寿命は凡そ五百年、イヴェットも同程度だった。その内二人の差はなくなる。
誰もが多少なりとも魔力を持つ世界にあっても大抵の人間があっても無くても変わらないような魔力しかない。一般的には大多数の人間が百年から百五十年の寿命で終わる。魔法師になるには五百年以上が凡その目安で、推定三百歳からは極端に人が減った。
それだけの魔力があるのに父は祖父のように高級官吏ではなく、安月給で怪我の多い現場の捜査官をしている。しかもそれ以上のことは娘にも話せない極秘事件ばかりを扱っているのだ。
「好い人なの?」
砂吐く、と十六の思春期の少女の生理が告げるが、それを押し殺して精一杯優しい演技をする。
訊かれて厳つい大男が頬を染めるのが父ながら気色悪い。
「この間まで入院してたろ?」
「だったね」
大怪我だったがその理由は仕事上のことなので当然ながら話してはもらえなかった。
娘としてピンとくる。手近なところで相手を見つけるから父の相手は看護師も多い。あの時の看護師ならすっごい美人だったから絶対相手にはしてもらえないな、トゥーサンには悪いがイヴェットは安心した。
「あの時の看護師にモルガーヌって女性が居たろう?」
そらみろ、後は振られるのを待つだけでいい。
「向こうから声を掛けて来てくれて…」
「えええぇぇーーーーっ」
有得ない、イヴェットは驚愕を隠せなかった。
(あんな美人がこんなムサくて厳ついコブ付き男に告白なんて有得ないだろー!)
だが実際有得てしまっている。
「なんだその反応!傷付くなア」
言いつつちょいドヤ顔だ。俺だってたまにはモテるんだよ、そんな気分だろうか。
「看護師のモルガーヌさんって美人だったよね?」
「病院一だな、トロザ一かもしれん。男なら誰でも振り返るタイプだ」
金髪碧眼でシミもそばかすもない真っ白な肌の、男が思い描く美人のど真ん中をいくタイプだ。ふさふさ睫毛の瞳で見詰められると男心が揺らされた。
(あの女、モテ過ぎてイイ男に食傷気味なんじゃないの)
でもなければ父に手を出す訳がない、と実父に大変失礼なことを考えた。
「へぇー、でもあんなに綺麗な人が私のお母さんになんてなってくれるかなあ?」
やっぱ無理だろう、うん、遊ばれて捨てられるのがオチだわ、絶対だ、と思ったのにトゥーサンは勿体ぶってはいたが話したくて仕方ない感じで告げた。
「それが、もう結婚の話もちょいちょい出て来ててだなぁ」
「マジかーーーぁ!」
心からの叫びだった。
「何だよおい、父さんが結婚するのがそんなにショックか?お前の母さんとだって結婚してたんだぞ」
言ってしまって失言に気付く。
「そして娘共々捨てられたなぁ」
夕暮れ、近所で遊んで帰ると母も弟も姿が無くて、家具はあったが二人の身の回り品も無くなっていた。薄暗がりの中独りぼっちで取り残されたイヴェットの孤独感と恐怖は大きくかなりのトラウマとなっていた。
あの日のことは互いに禁句になっている。
目を逸らしてイヴェットは背を向ける。
「モルガーヌは……」
母さんとは違う、とでも言いたいのだろうか、何だか話をしたくなくなって、しかし父を傷付けたくもない。
「私だってもう解かる歳になってるよ。いいよ父さん、ちょっと驚いただけだから結婚には賛成だよ」
早口で言い切ってトゥーサンの言葉も待たずに部屋に走った。
母を許せなくて未だに会いたいと連絡があっても拒絶していた。
泣きたくないのに涙が溢れて止まらない。
悔しかった。いつまで過去は自分に付きまとうのか。
啜り泣きが聞こえてトゥーサンはノックしようとしていた手を止めてその場に立ち尽くした。
「って、ことでさ……」
居ても立っても居られなかったイヴェットは学校をさぼり、お誂え向きに昼休憩に一人で本を読んでいたダンテを捕まえた。前に見かけた時と違って垂れ耳兎が仔羊になっていたが、そんな被り物で顔を隠すのはダンテだけだ間違えようがない。
本当は公私ともに父との付き合いが長い、カジミールやヒクマトを捕まえたかったのだが仕事で出張中だと告げられた。最近世間を騒がしている脱獄囚の所為で茜府全体が忙しなく、ふとしたことで電気が奔りそうな緊張があるのがイヴェットにも肌で感じられた。
「その女がどんなつもりで父さんを誑かしてるのか知りたいのよ」
「知らない」
道端で売られていたソルベを買うと、ダンテはイヴェットに手渡した。
「それ食べたらリセに戻りなさい。もう直ぐ
「これで子供みたいに騙されると思ってんの?」
遠慮なく受取りはするが引き下がりはしない。
ダンテは茜府の会計方ではあるが時に父を手伝っているらしいことを知っている。入院中の父の元にも来ていたし、訳有り気に父の部署の人間達とも立ち話しているのを何度か目にしていた。
「仕事以外の話なんてしたことない」
「だったらこれからするなり、モルガーヌを調べるなり出来るでしょう?」
「もしどちらもすることがあったとしても、君に話したりしない」
「どうして?父を案じる乙女のお願いを聞いてくれないの?」
信じられないという表情だ。
厳ついトゥーサンの娘とは思えない程のイヴェットは美少女だ。心より身体が先に成長してしまっていて、困ったことにそれによって自分が男に及ぼす影響を心得てしまっている。先んじた身体の成長は彼女に良くない影響を与え何処か危うさが感じられた。
リセの若者達はその危うさに惹かれるように彼女の取巻きになっていた。
茜の君のようにもろ出しにはしていないが、同級生より育ちの良い胸をさり気なく反らしても返って来たのは無反応だった。
「心配する程トゥーサンは繊細でもないし人の三倍は人生経験を積んでる。何があっても半人前の娘に心配されるような玉じゃない」
少女は大人びた分かってないな、という顔をする。
「職場ではそうでしょうよ。でも男が女に見せる顔は職場で見せる顔と違うのよ。強面が女の魅力にコローッと騙されるなんてよくある話じゃない」
「まああれだけ美人なら大抵の男はそうなるだろうね。君の父上も含めて」
その言い方に引っ掛かるモノがあったがこの際無視する。
「そうでしょ。だからあたしがしっかり、その面の皮だけ良い女の正体を確かめないとね」
上目遣いで様子を窺う。ここでダンテにしなだれかかりたいところではあるが、身体に巻き付いている蛇が怖くて無理だ。
「なら自分でするべきだな。俺は非正規雇用の会計方の使い走りだから、悪いけど何の融通も利かせられない」
自分の魅力が通じないことに凹みはしたが、彼からは何の情報も引出せはしないことは分かっていた。引出せる人間が居なかったのに、何もしないでは居られなかっただけだ。
わざとらしく溜息を吐く。
「バイ、今日のことは父さんに告げ口しないでよ」
「しない。さよなら」
あっさりと返されると女のプライドが余計凹む。わざわざ足を運んで何の収穫がないのも辛い。
「もう、待ちなさいよ。私をこのまま帰すつもり?」
「リセまで送る?いいよ」
歩いて十分も掛からない場所に学校はあった。将来を嘱望される魔力も学力も揃った少年少女達が通う学校で、グランゼコールや大学を目指す者ばかりだ。
そんな子供っぽいことしなくていい、とイヴェットは口にしそうになったが、このままダンテを放すのも癪で頷いた。
「あんたもモルガーヌの魅力には一コロなんだろうね」
「口説かれたらそうかもね」
正直に話しているというより抗弁するのが面倒臭い言い方だった。
「ねぇ初めて会った時どう思った?」
「胸もお尻も大きい」
言うなり足を思い切り踏まれた。
「イッタッ⁉」
目を閉じて肩に頭を預けていた蛇がクワァと大口を開いた。
〔無礼な小娘めが!〕
「きゃあっ」
いきなり怒りに燃えた瞳と牙に迫って来られて恐ろしかった。
ダンテが慌てて蛇を引き寄せる。
「止めろ⁉」
〔止めるな、一呑みにしてくれるわ⁉〕
「ご…ごめんなさい」
心底震え上がって謝罪すると、蛇は鼻息だけ残して肩に戻った。どうやら謝罪を引出したかっただけらしい。
「自分が魅力的だから誰にでも何でも許される訳じゃない。気を付けて」
「悪かったわよ。だってあんたが厭らしいこと言ったから」
美人だ魅力的だは予想していたが、ド直球で男視点の感想を述べられるとは予想外以外ない。
「自分だって少しばかり盛り上がったのを自慢げにしてたじゃないか」
「ホントあんたってムカつく!」
自分のことは棚に上げてダンテの大人げの無さに腹を立てた。
しかし使い魔を連れているのは羨ましくもあった。在学中に使い魔を持つには許可証がいったが、イヴェットは気性に問題があると告げられ許可証を持てなかった。合格して使い魔を持ったとしてもリセ内では禁止されている。トロザ市内で少年少女が使い魔を使う機会だってあるはずもなく、宝の持ち腐れになるのがオチなのだが。
「その蛇、強そうだね」
市内で蛇は滅多に目にしない。蛇は太くて長く迫力があって、さっき本能的に魔法で止めようとしたが止まらなかった。ダンテだって隠してはいるが、イヴェットの鋭い感応力が彼の魔力の大きさを悟らせていた。だからこそダンテに声を掛けたのだ。
「強いよ。俺の守護神だから」
背は高いが痩せて風で飛びそうにひょろっとしていたから、その言葉には説得力があった。
「その使い魔にちょちょいと調べさせてくれるだけでいいのに」
「じゃあモルガーヌの一体何が知りたい?」
「何って?」
昨夜のことを話して調べてくれと頼んでいるんだから内容は察せられてもいいだろうに。
「スリーサイズや給料じゃないだろ。お父さんへの本当の想い?本音?そんなの想いが本物なら君にとって都合が悪いんじゃないか?経歴?娘として気になるのは男性遍歴かな?結婚したことがあるかないか、子供はいるかとか?もしかして誰にも言えない彼女の秘密を掴めって?」
瞬間的に頭に血が上った。
「下種な事言わないでよ!」
具体的に言葉にされると自分が何を頼んでいたか自覚されて気分が悪い。
「じゃあ何?それ以外の大抵のことは自分で調べても分かることだろ?」
腹は立ったが言い返せなかった。それはそうなのだ。お父さんが愛した女性を信じろ、なんてキレイ事言われても納得出来る訳がなかったから。母は父だけでなく自分も捨てて行った。
理に適った反論が出来なくて、イヴェットは心底腹が立って叫んだ。
「バカッ⁉」
走れば認めたことになる、自分を制して速足で歩きながら振返った。
「クソバカ陰キャの仔羊ダンテ!」
理知的に、もう頼まないわ、と告げるつもりだったのに、口から出て来たのは子供っぽい罵倒語だった。バカの上塗りだ。
(腹が立つ腹が立つ腹が立つ)
ダンテに、バカな自分に、死にたくなる程腹が立った。
気持ちを抑える為に闇雲歩いたのに、気が付くとトゥーサンが入院していた病院だった。だからといって勤め先の病院で仕事の終わるのを待ち伏せするなんて短絡的過ぎる。何をして何をしたがっているのか自分でも解からなくなっていた。
(こんなのだから気性に問題があるって使い魔を許可されないのよ。私本当にバカロレア受かるの?)
教師には太鼓判を押されていたがとてつもなく不安になった。
「貴女こんな所で何してるの?」
上品な言葉遣いで聞覚えのある声だ。
何てことだ。際限なく落ち込んでいると、こんな時に会いたくない人間と会ってしまった。
オーレリア・ガラテイ・ブーシャンドン
同級生で母の再婚相手の連れ子。優等生で級友達の信頼も篤く、ここからが最も認めたくないところだが上品でイヴェットより美少女だ。
思わず腰掛けたベンチの背凭れを噛みたくなった。
露骨に顔を歪めたから相手にも気持ちを悟られる。
「不味い所を見られたかしら?リセをさぼって病院で時間を潰してるなんてね」
声が尖っている。
「あんたこそ何してんのよ。まだ授業中でしょ」
「午後は履修科目がないからボランティアに当ててるの。リセにも申請済みよ」
そういえばそういう活動時間があったと思い出す。イヴェットはバカロレアに必要な時間だけさっさと終わらせて、それ以来ボランティアの文字に一顧だにしていない。
「聖女候補の候補ともなると始終そんなことに時間を割かないといけないんだ」
「必ずしもではないけれど、得る物も多いから積極的に参加はしているわ」
嫌味っぽく言ったのに全然意に介されなかった。優等生の回答である。
ムカつく。
ブーシャンドン家は過去に一人色の名の聖女を出したことがあって、オーレリアが二人目になる気なのは明白だった。学校に通い出した幼い頃から首席を維持し、品行方正でバカロレアもイヴェットに先んじて合格している。
(さっさとグランゼコール予科に編入すればいいのに)
エリートを目指して進学すれば、狭き門なだけにコレージュから学校が同じになってしまった。それがイヴェットが学校を頻繁にさぼるようになった理由で、父兄が訪れる行事には絶対学校に足を向けない。
「もしかしてお父様がまた怪我をされたの?」
気遣いが感じられてさらに癪に障る。
「違う!単なるさぼりだよ」
「じゃあ病院をさぼりに使わないで余所でして」
「言われなくても!」
さっさと立ち去ろうとしていると、オーレリアの取巻きが彼女を見付けて駆け寄って来る。
「ここにいたのオーレリア」
「ふいッといなくなったから捜したわ」
「ごめんなさい」
そうしてイヴェットの姿に顔を強張らせ非難がましい目を向けた。
「オーレリア大丈夫?」
聞こえよがしに気遣う声が余計にイヴェットの癪に触った。
(傷付けられたのは自分だ!)
何も知らない幼かった自分。心の中で大声で叫んだ。
なのにオーレリアはそれを逆転させてしまう。
頭が良くて上品で美人なのに人を気遣えて、それがまたピンポイントを突いている。面と向かって話せば人を捉えて離さない魅力がある。そんな人物にとってスキャンダルは格好のご奉仕のタネになる。彼女の友達になりたい、いや信奉者でもいい、と思う者達は彼女を庇って得点を上げようとするのだ。
相手にしない方がいい、さらに足を速めたイヴェットは再びあてもなく聖都を彷徨った。
声を掛けようとしてオーレリアに先を越されたモルガーヌは、孤独な背中をなすすべもなく見送った。今の彼女は誰にも同情されたくないだろう。
仕方なく仕事に戻ろうと特別病棟に向かう。
「どうだった?彼女」
イヴェットが居ることを教えてくれた同僚のカロルが尋ねてくる。
「それが、先に同級生と会ったみたいで…」
「そう、話せるいい機会だったのにね」
「おい、七号室の患者が危篤状態だ!」
患者の急変を告げる鋭い声に会話は中断された。担当の看護師の動きが慌ただしくなる。
外科的疾病は魔法で治療可能とはいえ、それもやはり時と場合に因る。特別病棟は警吏や極秘に治療を受ける患者に限られていて治療も優先されていたが、治癒魔法は転移魔法の次に魔法師の魔力を削るから、患者の状態によっては必要最低限だけで後は本人の治癒力に任される。
それに犯罪者がよく使う手で傷口を穢れさせるから、面倒な浄化魔法も必要で日々進歩を遂げる不浄魔法にも対応せねばならなかった。
七号室の患者は脱獄囚ヘナロ・アルファーロに処罰された窃盗犯だ。歪んだ正義感で己の加虐趣味を隠したアルファーロは、処罰してこそ許されると罪には過ぎる呵責を行い、大抵はその間に死に至らしめてしまう。女神の思召しに適わず許しを得られなかった、と彼の中ではなる。
虫の息で転送された患者は一命を取り留めるかに思われたが、内臓に仕込まれた穢れを発見した時には遅かった。穢れが仕込まれるということは何らかの理由でアルファーロを怒らせたのだ。
内臓の穢れは患者に尋常でない苦痛を与えるから、看護する方も神経を擦り減らされる。疲れた様子で出て来た看護師を同僚達が気遣った。モルガーヌも片付けを代わってやり、皆で休憩するように促した。
「窃盗の常習犯だからってこれはないよね」
詠唱の声が止み布に描かれた魔法陣がしまわれる。浄化が終わったのだ。今度は物理的に清掃するが直ぐには使われず、代わりの寝台やサイドテーブルが運び込まれる。
「酷過ぎるわ」
モルガーヌも同意した。
「元が人を傷付けたいだけだからね。けど警官に追われてやり方が粗雑になってるよ」
被害者を罰と称して苛め抜けない分、怪我も酷く長く苦しんで死ぬように仕向けられている。そんなの女神の思召しなどでは絶対ない。
「それだけ焦ってるなら捕まるのは時間の問題だよな」
自分を励ますような言葉が耳に入った。
「そうあって欲しいもんだ。セルファチーの方はまるで手掛かりがないからな」
その名を聞いてモルガーヌの身体が一瞬強張った。周りに悟らせず直ぐに何でもなかったように作業を続ける。
話しは続いていたが作業の終わったモルガーヌとカロルは担当の仕事に戻った。
患者が転送されてくるから犯罪は身近に感じられるが、ヘナロ・アルファーロとロラン・セルファチーの二人の脱獄囚が犯罪を犯すのは地方だった。ただ、セルファチーは死体も物証も残しておらず、行方不明者の名簿が長くなるだけではあった。
「どうしたのモルガーヌ?顔色が悪いよ。疲れた?」
交換用の包帯と消毒液や器具をワゴンに用意しながらカロルが気遣う。
「ごめん、大丈夫よ」
「そう?よかった。もう少しで勤務も終わりだから頑張ろうよ」
笑顔で頷き返すが、胸の乱れは収まらなかった。
(セルファチー)
「継ぎ接ぎロラン」の二つ名で知られるセルファチーは医師であることを利用し、犠牲者の気に入った部分だけを繋げて人工人間を製作した。それも何体も。だから「継ぎ接ぎロラン」の継ぎ接ぎはそういう意味だ。死霊使いでもあったセルファチーは人工人間に死霊を封じ自分の手足として使役し、捕まるまで作品を制作し続けた。
犠牲者の中には看護師も多くいて、使役されながら彼女らの良心は耐えられず、密かに創造主であるセルファチーを告発した。犠牲者は数百人に及び、瞳だけ指だけの為に人々は殺され、使えない残りはペットの妖獣に与えられた。逮捕後に人工人間は処分され逃げた者も一体を残して捕まえられている。
セルファチーは用意周到に国内に幾つか隠れ家を持ち、何処でも「継ぎ接ぎ」が造れるようにしていた程なのだ。
外部の手助けで凶悪犯ばかり収監するケルク・ジュール監獄からアルファーロとセルファチーが逃げた時、負傷者はこの病院に転送され治療を施されたから、モルガーヌはその事実を一早く知ることが出来た。逃げようかとも考えたが公表されない捜査の状況を一早く知れるし、トゥーサンと付き合いだしてもいたから留まることにしたのだ。
耳にはめた翼ある猫のイヤーカフに触れる。
人目には何処のアクセサリーの店でも売られていそうな、可愛らしい銀のイヤーカフだろうが、これがどれ程貴重な物であるか知っているのはモルガーヌとセルファチーだけだ。
二百年前のグアルテルス帝の皇位簒奪事件で聖ルカス皇国から亡命して来たバルトロメーオ・ファヴァッリは、セルファチーの患者となったが口の軽いことが災いした。本来寿命の短い彼が三百年も生きていられるのはこれがあるお陰だ、と大切に持って逃げた「イオアンネスの至宝」である翼のある猫のイヤーカフを自慢げに披露したのだ。
それを持ってさえいれば魔力は小さくても寿命以上の長寿を得ることが出来る。そんな細工物を作ったのはグアルテルス帝の簒奪時に殺害されたとされている宰相イオアンネスだ。寿命の短い友の為に、現在「イオアンネスの至宝」と呼ばれるオリハルコンの混ざった細工物を作り贈ったのだという。有名な物は「イオアンネスの七振り」と称される剣だが、それ以外にもブックマークや扇を贈ったことが知られていて、個人的に贈った物もあるから総数は分かっていない。
ファヴァッリの言葉通りイヤーカフを取上げられた彼は、三十代後半頃の容貌であったのに、一月もすると老衰で皺くちゃになって亡くなってしまった。
自らの最高傑作と誇って憚らないモルガーヌに翼猫のイヤーカフをセルファチーは預けた。支配下にあるから持ち逃げなど不可能なのは分かり切っていた。
だが予想外の事が起こった。そのお陰でモルガーヌは創造主に対抗し、支配から脱する力を得られることになったのだ。
看護師であった彼女はセルファチーに殺害され死霊として彼の傑作体に封じられた。気が狂いそうな程彼が憎かったが、死霊として封じられては彼の命令には逆らえない。なのにその力を彼自身も知らずにモルガーヌに与えてしまったのだ。
良心を残しながらモルガーヌと同じく、嫌々ながらセルファチーに従っていた人工人間達も協力してくれた。創造主の慢心で計画は首尾よく運びセルファチーは捕らえられたが、彼女にとって一つ誤算だったのは人工人間が処分されることだった。
自分達だってセルファチーに殺害された被害者なのだ。死霊として反抗が許されない立場にされ、看護師としての倫理に反するおぞましい作業を強制されて来た。モルガーヌは殺害された時でさえ二十代前半だったからどうしても処分に応じる気になれなかった。
だがモルガーヌより遥かに助手として下僕として酷い目に遭って来た同僚達や被害者は、強制されたとはいえその手で成した行為に傷付き苦しんで大半が処分を喜んで受け入れた。
それが最良だと諭されもしたが、やはり生きたがった者達と一緒に逃げた。創造主の魔力下を抜けた者達は力が弱まり簡単に追手に捕まったから、逃げおおせたのはモルガーヌのみで、それが七十四年前のことだ。
以来看護師として一つ所に留まらず転々とした。故郷であるトロザに戻ったのは両親と兄弟が亡くなってからだ。それまではひっそりと遠くから彼らを見守るしかなかった。
墓参りしてようやく母と話せるようになった時には涙が溢れて止まらなかった。墓は沈黙を貫いたが、モルガーヌの中の母は優しく慰めてくれた。
何処かで心の区切りがついたのかトゥーサンと出会うと恋心が芽生えた。
それまでは誰とも親しくなるのを避けていたのに自分からトゥーサンに告白して自分でも驚いた。彼も驚いていたが、交際が始まると無くした人生を取り戻せた気がした。
故郷に戻ってからは人並みに部屋を飾るようになった。雑貨が増え自分でも手作りした。テーブルの中央には一昨日部屋に来たトゥーサンがくれた花が飾られている。
なのに最近視線を感じるようになった。尾行や隠密行動に慣れていないのだろう、無遠慮な視線にフェイントを掛けて振返ると、可愛い美少女が不意を突かれて驚いて回れ右して逃げて行った。
(あの姿…)
理想の女は金髪碧眼の豊満ボディの美女なはずなのに、セルファチーの初恋はブリュネットの可憐な少女だった。そんな娘が欲しかった、と彼が昔作った少女にそっくりだ。
頭を殴られたような衝撃があった。
(見付けられた!)
何処かで野垂れ死んだと思ってくれないかと願っていたが、それは都合が良過ぎる。何しろ「イオアンネスの至宝」を持って逃げたのだ。セルファチーも諦めてくれる訳がない。
一度認識してしまえば近付かれれば直ぐに気付いた。
だが奴が現れるかと思いきや、監視されているだけで何の動きもない。逃げることを考えたが、下手に逃げれば奴の思う壺だ。トロザは魔法師には制約の多い都市だし警吏であるトゥーサンも傍に居る。翼猫のイヤーカフは肌身離さず耳に付けていた。
長い夜が続いた。
死霊に睡眠は必要なかったから編み物や読書などで時間を潰していたが、何も手につかずどうしても思考はセルファチーにいってしまう。何をしているのかは想像に難くないが、何を考えているのかが分からなくて恐ろしくて仕方がなかった。看護技術以外に魔法で得意なものはないから、奴が作った能力者の死霊に襲われればひとたまりもない。
(なのに何故何もしないの?)
不気味な待ち時間はいモルガーヌの心を苛んでいた。
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