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 タイラーはクローゼットのなかで眠り、数十分後に目を覚ました。彼は親役に見つからず、その暗くて狭い場所にながくとどまっていた。遊び場となった部屋には、だれも訪れることがなかった。眠っているあいだ、彼を運良く見つけるものはいない。

 タイラーは意識が明瞭となるなかで、瞬間的にやってきた吐き気を我慢する。過去に誤ってお酒を飲んだ時とは異なり、それは咄嗟に(よからぬものが)自ら内側から湧きあがっていくようでひどくつらいものだった。ただすこしだけ眠っていただけのはずだ。しかしどうして眠ってしまったのだろうか。足や腕にしびれがある。姿勢が悪かったわけではないだろう。悪かったのか? 鼓動が聞こえる。

 彼は吐き気が落ち着いてから、クローゼットの扉に手を当てる。古い服の匂いがした。鼻のまわりを撫でている。それから彼はかくれんぼをしている状況ではないと思うと、扉から光を求めた。強烈な吐き気は治まってきてはいるが、床でもいいから横になりたい。暗闇から漏れ出た光は意外にもやさしくて眩しい。

 次第に落ち着いてくる。物が二重に見える。闇が消えていく。なんなんだろ、と彼は思う。

 悪い兆しだった。次に彼は大きな銃声を耳にする。ここは家のなか、タイロン・シモンズは今朝に外出し自宅から離れているはずだ。それなのに、なぜ銃声が――室内ではないにしても――すぐ近くで聞こえるのだろう。タイロンは家のなか、それよりかその周辺の庭であろうと軽い気持ちで発砲したりなんかしない。銃を大切に扱い、そして丁寧に扱い、それがどんなものであるのかを知っているからだ。その代物は簡単に相手の命を奪ってしまう。

 では、もし「する」としたら、どういう時か。

 タイラーは事態を知ろうと考え、重い身体を持ち上げて、庭に出ようとする。急いだ。歪みのないはずの階段を、おぼつかない足取りで下っていく。

 銃声はあのあと二回ほど響いた。間隔は短い。とても鋭くて、荒々しい。

 死食鬼が村を襲った。まるでその時のようだ。銃声を間近で聞いたのはあのとき以来である。

 庭には大人が三人ほど立っていた。顔に見覚えのない若い男たちだった。明らかに、この辺りに住んでいるようなひとには見えない。汚れた衣服、武装をしている。しかし兵士ではない。

 国の兵士ならもう見慣れている。判断がしやすい。なのにこの人たちは。

 タイラーは静かに呼吸する。肺が、空気をふかく求めていた。腕に電気でも走ったのだろうか。いまだ手にしびれがある。そのなかで彼は状況を見極めようとする。

 一人の男は、片手に短銃を持っていた。背中には剣を負っている。

 ほかの二人は、その男よりすこし離れた場所で会話をしている。いや、会話ではない。片割れのようすがおかしい。もう一人はそんな彼に話しかけてから、返事が無いことをしり、反応が乏しいと思ったようだ。語りかけることをやめ、隣の彼を見て笑っていた。

 タイラーは目の前にいる男に目がいく。短銃を片手に持った男だ。ほかの二人も散弾銃など武器となるものを所持しているが、きっと距離の問題だろう、彼の握っているそれをより強く意識してしまう。

 タイラーは息を呑む。見つけてしまった。そこはちょっとだけ草花が多い、手入れのされていない平凡な庭のはずだった。そのはずが、若々しい草と白い花揺れる地面に、小さなかたまりがあり、それが岩のように横たわっている。その幻獣は明らかに出血している。

「ソラ」

 彼は男たちの存在など無視して走った。信じられないことが起きている。彼は何も考えられなかった。誰がいようと何を持っていようが関係ない。自分とソラがその場で二人だけとなり時間が止まったかのように思えて、世界のごく小さな情報がそれぞれ濃くなっていった。色は著しくあらわれている。

「ソラ」と彼は姿勢を低くして呼ぶ。だが、返事はない。元気な声は聞けなかった。

 触れない。血が出ている。流れ出している。痛ましい姿だ。息はしている。身体が上下に動いている。そのように見える。彼は触れようとするが、どうしても触れられない。手が震える。信じられなかった。目の前の惨状が受け入れられなかった。

「ソラ」彼はもう一度呼ぶ。彼はそう言って、呼吸を忘れそうになる。目でわかるものだけでも、銃弾が二発だ。ソラの身体を傷付けている。

 幼き竜はぐったりしていた。苦しいのだろう。朝にあったような元気は今はない。声を出した。だが活発さは失われ、生命が薄まっていっているようだった。それどころかその小さな身体がこのまま消えていくように思える。タイラーには――ソラの苦しそうに呼吸する姿が――そう見えてしまう。

「タイラー・マイエ。その名であっているか?」

 男が問いかける。黒き短銃には役割がある。銃口はゆるやかに対象へと向けられる。

「えっ?」

「名前を聞いている。答えろ」男は冷徹に続ける。

「タイラーは俺だけど」

「そうか、それならいい」

 男は腕をまっすぐ伸ばして、そのまま軽く頷く。相手の顔を覚えようとしている。

「お前をこれから、カラカに連れていく。大人しくついて来れるよな」

「なにを、言ってるの?」タイラーは思ったようには言葉が出ない。

「わからなかったか? 『同じこと』を、もう一度言うぞ」

「そうじゃない。よくわからないんだ。誰なの? どうしてこんなことを。ソラを」

「お前は、これからこの村を離れることになる。理由はひとつ、お前の両親が魔術師であり、そして国から懸賞金がかけられ、賞金首となっているからだ」

「懸賞金?」

「これでわかるよな。何を言っているのか」

 タイラーは時間をかけて俯くと、足元でなにひとつ目立った動きを見せないソラを見る。この人たちは、俺に会いに来た。賞金首となっている。ソラは弱っている。彼は考え、視界がぼやけていく。赤い血は流れている。緑色の草、白い花が濡れている。ソラが無くなろうとした。

 なんで、ソラが。どうして、ソラが。こんなことに。

 元気な鳴き声が頭のなかで聞こえてくる。

「もうわかったな。では、立て」

「なんで……。なんで」

 タイラーはようやくソラに触れる。呼吸をしていない。生命の活動はとまっていた。

 悲しみしかなかった。いつか別れがあるとしても。このようなことが。あまりにも残酷な。震えが止まらない。

「グズグズしている時間はない。俺たちは急いでる。わかるよな」

 男は銃口を改めて向けて、凄みのある態度で警告する。

 すると、かすかに別の声が聞こえてくる。離れた場所で立っている男のものだった。様子がおかしい。「子供を殺した」と口にしている。

「子供を殺した。子供を殺した。子供を殺した」彼は同じ言葉を繰り返している。両腕をあげて、自分の手のひらを見詰めている。しかしながらほんとうに彼が自身の手のひらを見ているのかはわからない。ただ一見したようすでは、両腕をかるくあげて、手のひらを天空に見せている。やや俯いた姿勢をしており、そこで同じ言葉を小さな声でぶつぶつと繰り返している。「殺した。殺した。殺した。違う、あれは」と言っている。

 男が短銃を片手に舌打ちをする。銃も機械的な音でその音にあわせた。「うるせえな」と彼は言う。「いい加減、そいつを黙らせろ」

 苛立っている。男は冷静さを捨てたようで、急に表した。

「だとよ。ほらっ。怒られてんぞ? いい加減にしろと」

 先ほど笑っていた男だ。隣の彼に陽気な振る舞いをみせやさしく忠告している。

 彼は完全に閉ざしてしまっている。男には聞こえている素振りはなかった。

「こりゃ駄目だな」陽気な振る舞いは変わらなかった。「こいつ、ちょっと連れてくわ。一人で平気だよな」

 ふたりは家屋から離れていく。仲間であることは確かだろう。『ソラに向けて銃を撃った』。「あっちで静かにしていようなあ。まあでも、俺もあんなの久しぶりに見たわ。だけどさ、もう済んだことだろ。いつまでも――」

「ビビりが。ろくに見もせず、撃つからだろ」

 賞金稼ぎ、とタイラーは思う。このひとたちは。

「立て」

 男は時間でも戻すように短銃を突き付ける。事を再開する。喧しいのが消えて、崩れ出していた気持ちを持ち直した。

 タイラーは手のひらに目をやる。血がついていた。視線を落とす。「立て」と言われた。だが立ち上がろうとは思えない。

「どうして」とタイラーは小声で言った。

「立て」

 男には聞こえていない。だから彼はもう一度要求した。すこしも騒ぐことなく、はやく行動することを少年に求めている。

「ソラは死ななくてもよかったはずだ。俺に用があるなら、おれに」

 男は聞いて、つぎに何を思ったのか伸ばしていた腕を下ろす。あったやる気でも無くしたかのように、短く息を吐いた。そして座り込む彼ではなく、別の方角に目をやったかと思うと、踵をつけたまま薄汚れた靴で二回ほど地面を踏む。

 そのあと、彼は相手を蹴り上げる。

「なんども言わせるなよ」

 タイラーは男の行動に対応できなかった。目を咄嗟に瞑り、腕が勝手に動いただけだ。経験したことのない衝撃を感じる。地面を激しく転がった。

「なんで」

 タイラーは身体に痛みを感じて、だれかに問いかける。それは自分に向けてが正しいのかもしれない。

 周囲が揺れた。めまいだ。ソラの声が彼の脳内で再生される。

 男はとにかく重みのある足音で近づいていく。その表情には僅かに苛立ちが窺える。歪んでいた。あふれ出たものが彼のまわりを巻いている。

「この国は、お前たちを敵とみなした。お尋ね者だ。わかるよな?」

「ソラは死ななくてもよかった。仲間のもとに帰らせようって。おもって」

「ガキが。ごちゃごちゃと。泣き言、不平を垂れるな」

 彼は銃口を向けない。浴びせるように言った。握ったままだ。そうして軸足を踏み込んで、おもいきり少年を蹴り上げる。彼は気がすむまでいいぐあいになるまで暴力を繰り返す。

 タイラーには何もできない。声も出せない。いまは我慢するしかなかった。怖いと彼は思った。だとしても、何もできなかった。

「そらは」

 暴行が終わったあと、タイラーはそう述べた。身体中、痛くてしかたない。視界が狭く、くわえて揺れている。意識を失いそうになりながら、その言葉だけが血の味とともに出てきた。

 男は呼吸を整えて舌打ちをする。

「うるせえな」と彼は小さな声で愚痴をこぼす。


 男はやり方を変えた。はじめのころは、やさしく相手が子供でもわかるように接していた。だが、思うようにはいかずあまりにも時間が掛かり過ぎている。だから、力にものを言わせた。彼は順を追って丁寧に伝えたはずだ。グズグズしている時間はない。

「もし助けを求めているんだとしたら、無駄だぞ」男はしゃがみ静かに語りかけた。「ここには誰も来ない。優しかっただろう村の大人も、森にいるお国の兵士だろうがな。それと、白髪のおっさんも。タイロン・シモンズだったか? そいつはもう死んでる。邪魔だからな。しかし、まさか、狩人ごときに二人もやられるとはおもわなかったが」

「ゆるさねえ」

 タイラーはかすれた声で言う。血も唾も混ざった声だ。彼はもう相手の顔は見えない。耳もよく聞こえない。無意識的な行動にちかい。

「なにをだ?」男は立つと銃を斜め下方へと傾ける。「言っておくが、勘違いだけはするなよ。自分は何も悪くないと思うのは曇った目で何も見えていない愚か者がよくやることだ」

「この国も。お前たちも。ぜったい。許さねえ」

 彼は目に涙を浮かべる。彼は悲しくて悲しくてしかたなかった。悔しくて悔しくてたまらなかった。なぜ、死ななければならなかったのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。何が悪かったのだろう。おれが。ソラは、なにも悪いことをしていないはずだ。ソラは村のなかで、ただ毎日元気よく生きていただけのはずだ。おとなしく、その時を待っていただけのはずだ。それなのに。それなのに。

 男は黙って引き金を引く。濁った空気に、一発の銃声を響かせた。気に食わないものでも払うかのような。

 男はなにも言わない。彼は、まともに話すこともできない――弱った少年を眺める。

 彼は動き出した。最後にその少年を抵抗できないようにして、連れていこうとする。

 タイラーはぼやけた世界を見詰めることしかできなかった。森は相変わらず、腹を立てるわけもなく静観している。

 視界は黒く染まっていく。蹴られたところが脈打つように傷む。頬には水気がある。それがわかる。


 森は眺めていた。動物たちも遠くから眺めていた。一人ほど男が小銃を構えて眺めていた。彼らはそこで驚くべきものを目にしてしまう。事態が大きく変わっていく場面だ。

 男は短銃はもう必要ないと思い安全装置をかけた。彼は心にゆとりを持たせようとしているようで顔の歪みをいくぶん落ち着かせてから、銃をしまおうとする。

 短銃が舌打ちのような音を立てた。忌ま忌ましかったのかもしれない。その時だ。男の頭が吹き飛ぶ。首から上が舞うようにして散っていった。しばらくしてからとなるだろう。身体は力を失ったようで釣り合いを保てず、地面に崩れ落ちる。

 タイラーはその光景を見ることは叶わない。立っていたはずの男が、その場で倒れたことだけはわかった。何が起きたのかは理解できない。厳しいだろう。

 タイラーは動くことはできない。世界がさらに輪郭を失い、黒く染まろうとしていた。脳を撫でるかのような眠気が襲ってくる。

 一人の足音が聞こえてくる。その者は背の低い草を軽やかに通り過ぎている。

 彼の前に現れたのは、背の高めな一人の美しい女性だ。スカートの丈は長い、ドレスを着ており、黒髪は見惚れるほどに美しい。その身体はほのかにか弱さを抱かせるが、艶めかしくもあり、それと同時に芯をつよく感じさせる。赤森の魔女ジュナ・コーデンだ。ドレスだけではない、彼女の身の回りにあるものすべてが、あの素晴らしき日の光にこたえようとする。

 彼女は歩く。一匹の竜の遺体の前を通り過ぎた。

 そのとき、彼女は遺体に片手をかざした。息のない骸は宙へと上がる。

 タイラーは悲惨な世界を見詰めることしかできない。彼女が何をしようとしているのか、それだけを一本の糸でも掴むように知ろうとしていた。

 彼女は何もないところから、一冊の本を取り出した。分厚い本だ。装飾にはこれといって華やかさはなく、気品さを感じさせる。(彼女が持っているからだろう)それは、だれであろうと「特別な本」に思える。

 一方、骸はやわらかい光に包まれていた。支えられるように宙を浮き、生命を暗示するかのような輝きを放っている。まちがいなく魔女の手によって、そこで何かが行われている。

 彼女はその綺麗な唇を閉じたまま、片腕を動かして、知的な印象を与える指を動かして、魔法書(特別な本)を開いた。一ページ、さらに一ページと捲り、歩を進めていく。

 ジュナは彼の前で立ち止まる。本から紙を一枚ほど破った。

 タイラーは横たわりながら覚える。ソラが光に包まれている。光は弱まり、小さな臙脂色の石へと変わった。ソラが、石に。彼女がここにいる。

「……なに」

 身体が熱い。彼は思う。魔女がなにか話しかけている。素敵な声だ。でも聞き取れない。浮遊感がある。なんだろう。心地よい。

「よく聞け。これで、お前も化け物だ」

 その言葉がどの言葉よりもよく聞き取れた。

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