第2章「少年と死食鬼」

 ・6




 めずらしくタイロンからの頼み事のない日のことだった。タイラーはどこかに出掛けていく予定もなかったので、エマとソラと一緒に家の前で遊んでいる。

 お風呂場で身体を洗った「次の日」というのは妙に身体が軽かった。汚れが落ちるだけで、腕が高く上がり、さらに腕が長く伸びているような心持ちになる。広々とした空が近くなったような気分だった。足の運びは軽快となり、彼は速く走れるようになったと思える。髪の毛、衣服からも、きついにおいもない。どれもそれぞれは、正直なところ大きな変化があるわけではない。おそらく難しい機械とかで計測したところで、違いが明らかになるようなものではないだろう。タナラ村でいうなら、ありふれた数日ぶりの入浴だ。それだけで腕が高く伸びるはずがなく、足が速くなるわけがなかった。

 隠された力などではなく、彼の心のなかではそんな感じがしたのだ。

 タイラーは町のある方角を眺めていた。彼の頭の上にはソラが乗っている。彼はとくべつ気にも留めず、振り返る。

「よく晴れてるな。遠くのほうで、黒っぽい鳥が飛んでる」

「黒っぽい鳥?」エマは両腕をあげた。「見たい」

「あれ、見えないか?」

 エマは腕を下ろすと、身体を向けた。「みえた」

 翼を広げて飛ぶその物体は、一度、高度を上げてから、その身体が徐々に小さくなっていった。そして黒っぽい鳥は森のなかに滑り込むようにして落ちていく。

 名前はわからない。正体は不明だった。この場にいるだれも見当がつかない。黒っぽいとタイラーは口にはしたが、実際には何色であるのかそれも彼にはわからなかった。

 ソラが鳴いた。わずかに高めの音である。

「いなくなったな」とタイラーは言う。

「いなくなった」

 エマは独り言のように言った。見えなくなってしまったことに(違うかもしれないが)、悲しんでいるようだった。あまり、彼女から聞き慣れない調子だった。だからかタイラーは心のなかで「いなくなった」と繰り返す。声にはしない。森に消えた。

「近いうちに、雨が降るかもな」

「雨?」

「そう、雨」タイラーは自信ありげに言う。

「雨が降る」

 エマは言うと空を見上げる。その目で空の色、雲の色を見ていた。絵を書くために、色を決めようとしている人のような目だった。「なんで?」と彼女は問いかける。

「なんとなくだけど、近いうちに降りそうな気がするんだ。なんで、と言われると、なんだろう? 俺もわからないや」

 タイラーはうまく言葉が見つからなかった。雨が降る、と決まったわけではないからである。明日のことは、明後日のことは、その日にならないとわからない。直感によるものであり、ぼんやりとしたものであって、「お風呂に入ったから」、「清潔になったから」とも関係ない。うまく答えようとすると、彼は自信が少しだけ揺らいだ。

 タイラーは考える。「でも、こういう日は、だいたい近いうちに雨が降るんだ。弱い雨ではなくて、一日中、降ってるような雨。雨粒が窓を叩いて、鳥の声は聞こえてこない。森は静かで、雨音ばっかりの日。あ、いや、カエルが鳴いてるときがあるか」

「雨」とエマは言って、首を振った。

「どうした?」

「じじ、だいじょうぶ? 雨に、濡れない?」

「今日は、降らないと思うから、大丈夫だろ。それに今日雨が降りそうで、もしダメそうなら、すぐに帰ってくるだろうし」

 タイロンは午前中から外出していて、そのうえ帰宅するのが遅くなりそうだった。「いつ頃には帰る」とは彼は言っていなかった。遅くなるだろう、とは伝えていた。いつもより乾いた声だった。白髪頭の一部が細い糸のように光を反射していた。

 ふたりの名を、タイラーは呼ぶ。いい思いつきをしたと考えて、「これから、秘密の場所に連れていってやるよ」と彼は言う。

「秘密の場所?」

 エマはわずかに首を傾げた。ソラも彼女と似た行動を取る。

「ああ、秘密の場所。エマは知らないはずだし、まちがいなくソラも知らない。今日はタイロンおじさんは帰ってくるの遅くなるだろうから、これから普段は行けない、おもしろい場所に俺が連れていってやるよ」

「おもしろい場所。行ってみたい」

 ソラは鳴いた。音が長めに響く。興味があるように思えた。

「よし、いこう。でも、おじさんには内緒な。絶対だぞ」

「わかった」


 タイラーが「内緒」と念を押して言い、二人を連れて訪れた場所というのは家のなかだった。一階から階段を上り、二階の廊下を歩いて、(薄暗い)物置にしている部屋である。その部屋は誰も使わないからという理由で、当面は使わない物が置かれている。人の出入りは非常に少なく、タイラーもおそらくこの三十日間ほどは入っていない。部屋の扉は、あちこち傷んでおり、それからほどよく古い匂いがして、森にいる動物か悪魔の鳴き声に似た音を出す。室内にある、小さめで丸い机やタンスなどには大きな布が被せてあり、そのうえには白くなるほどのホコリが溜まっている。指で撫でるように触れると、毛でも生えてきたかのように指の腹が見えなくなる。

 彼は扉を開けようとした時、自分の状態でも見極めるように咳をしていた。気管に異物でも入ったようだった。とはいえ、ぼろい扉には触れても、部屋には入っていない。もしかしたら異常はないのに、身体が勝手に反応してしまったのかもしれない。なぜなら、この部屋は「外」とはだいぶ異なる。ここは、きたない。

 扉を開けて、すぐに部屋の明かりを点けようとタイラーは歩いた。エマは扉の前で静かに待っている。走りだしたり、はしゃがないのは助かる。彼は見慣れない部屋に来て彼女が騒ぎ出すとは思ってはいなかったが、ほかの子どもと比べて、おとなしいことに「そういう彼女でよかった」と感じた。(森とかそうだが)エマは黙って、周りのようすを眺めながら、後ろをついてくる。知らないことがたくさんあるから、何かあれば問いかけてくる。

 照明器具は長い時間だれも触れていないようだった。窓掛けは日を遮るように引かれ、そのなかで照明器具も白く汚れている。下からでも、表面は十分に確認できた。以前に訪れた時と、驚くほどになにも変わっていない。

 結局、タイラーは照明器具を点けなかった。明かりはいらない。透明度の低い窓から光が漏れ出ていた。

「この部屋、入ったことないだろ」と彼は言う。

「ない」エマは頭の動きをやめた。そのうえで、ソラがくしゃみをする。「ここは入っちゃダメ。そう言われた」

『ソラも興味を向けている』。タイラーはふたりの反応が純粋に嬉しかった。たとえ褒められることをしていないとしてもだ。彼だってこの行為が「駄目である」という理解がある。しかし何が駄目なのか、それを真剣には受け止めていないだけで。

 彼女は窓側に目をやった。「二階は、タイラーとエマの部屋だけ」

「俺、とエマの部屋。いまはソラもだな」

 ソラ、と彼女はつよく言う。気付かなかったのだろう。彼女は頭の上にいる針尾竜のほうを見ようとする。片手を上げると、その指を針尾竜が舐めた。

 エマは続けた。「ここが、秘密?」

「いいや、ちがう。これから」

「これから」

 タイラーは部屋の奥側へと歩き出した。

 ふたりは絶対に知らない、と彼は思う。ここに、部屋があること事態は、この家に暮らしているからには知っているだろう。だがその先の「秘密の場所」は示唆もしないで、なにひとつ教えていないのだから、知ることができない。

「ここ、入っちゃダメ」とエマが後ろで呟く。

「危ないからな。物置だし。それにエマが入ってもいいことなんて無いから」

「でも、入った。タイラー、悪い。エマも悪い。ソラも悪い」

 ソラは鳴いた。布の被った、大きな物が気になるのだろう。見ていた。

「タイラー、悪い」とエマは繰り返す。「タイラー、悪い」

「だから、秘密な。まあ待っておけって。まだその秘密の場所には入っていないんだから」

 タイラーは古い本棚を探した。これから先もずっと使われないであろう木製の本棚である。横には、ひとつの傷が残っている。その裏まで行けば。

 彼は見つけると、走った。本棚に触れて、ふと思い出す。「そういえば、エマ。結局、あれはどうなったんだ?」

「あれ?」

「ほら、無くしたもの。前に、ふたりで、森で探していただろ?」

「なくした」とエマは小さく呟いた。

 彼女はなにも言わなくなる。

 タイラーは口を閉じて、本棚をほんのすこし撫でて、問いの答えを待った。あれ以来、彼女は森に誘うことをしていない。探しにいきたい、など一言とも言っていない。今の反応もそうだが、「『無くしもの』を見つけるために、過去に村を離れて、森に行っていたことがある」というのも忘れているかのように。

「うん?」と彼は言う。そして、本棚の後方にある――扉を開けた。

 エマは言わない。彼らは足を止めることなく、扉の奥へと進んでいく。

「いい」

 エマは確かにそう言った。タイラーは驚きと疑問はあったが振り返らない。

「いい? いいって?」

 彼は落ち着いて問いかけた。そのまま階段を上っていく。建物の三階に向かう。

「いい。無くしものは、もういい」

「そうか。いいか」タイラーは少し間を置いて、そう言った。彼女の態度が、彼の心に引っかかる。悲しみがある。それはそうか。無くしたものがあるなら見つけたい。「ごめんな。見つけられなくて」彼は最後にそう言った。

 エマはやはりなにも言わなかった。

 代わりに、ソラが返事をする。哀傷でもあるような。

「またその気になったら、言え」

 タイラーは階段を上りきり立ち止まると、エマに手を伸ばした。彼女の手を取り、引き上げる。足を乗せば音の鳴る階段。上がっていくのが辛そうだった。

「ソラ、重い」

 タイラーは聞いて、笑んだ。まさかそのような言葉が出るとは思わなかった。「ソラには、階段を上がるときぐらいは、飛んでいて欲しいかもな」

「タイラー、ここ?」

 エマはそう言って、天井に壁、複数の本棚、奥側の机に椅子、窓を順に見ていく。

「そう、ここが秘密の場所。タイロンおじさんのな。おじさん、時々、ここで本とかを一人で読んでる」

 いくつかの本棚は一台一台横に並び、列を作り、まとまりがあるように整列していた。本棚だけで部屋の大部分を占めているのだが、壁際にもあり、そこにも書籍がしまわれている。しかしながらそこには茶色に汚れたつばの長い帽子、枯れ葉のついた手袋、土の匂いがする上着も置かれてある。どれも本棚であり、大きな棚としても使われている。壁際にある蓋のない酒樽には、釣り竿や長い棒のような物があった。

 窓からは、三階からの景色が見えている。外の明るさは、机のまわりを際立たせて、部屋全体を淡く照らしていた。

 ソラの高い声を聞いて、二人は無言で窓のほうへと近づいていく。

 タイラーは手前のほうで身体の向きを変えた。彼は窓のほうに歩み寄るのをやめて、棚と棚のあいだに入っていく。そして彼はこれといった理由もなく一冊の本に手を伸ばす。

 それは日焼けをしているようだった。劣化ぐあいが酷く、変色している。村で見かける本と同じような色合いだった。このかたい本でいうなら原因はカビか、光りか空気か。きっとホコリではないだろう。この部屋は物置にしている部屋よりも掃除されている。原因がホコリというのもありえないわけではないがそれだけではないだろう。

 エマはながく口を閉じている。彼女も本棚に興味を示していた。とはいえ楽しそうにしている素振りはない。秘密の場所、三階の部屋にいるという状況にすこしも喜ぶことなく、ただ頭を動かして、例えていうなら木々の枝に止まっている野鳥でも探しているようだった。妖精か、リスでもいいかもしれない。

 彼女は本に触れようとはしなかった。本だけではなく、そこに何があろうとその小さな手を伸ばして触れようとはしない。見るだけで、満足している。仮に本を手にとったとして、彼女は字が読めない。

 タイラーも難しいものは読めなかった。


 それから彼らは時々言葉を交わしながら、棚と棚のあいだで穏やかな時間を過ごした。どんな本なのか。このなかにお話はないのか。難しいことが書いてある。どんなことが書かれているの。タイラー、読めないの?


 窓際の机には数冊の書籍が積み重なり、ほかには銃弾やペン、何も書かれていない白紙の紙切れがあった。タイラーは机の上に重なった書籍に手を伸ばして取ろうとする。

 山積みの本が崩れ出した。潤いとははるかにかけ離れた音が続けざまに鳴る。

 ソラが鳴いた。

「やばっ」とタイラーは片手に本を持ったまま言う。

「タイラー。けむり」エマは咳をしたあと、目を瞑って首を横に振る。

「わるい。怪我はないか? 崩れるとは思わなかった」

 彼は軽い咳をして、床に落ちた本を拾う。中身のほうは、彼にも読めない字で埋め尽くされていた。難しいことが書かれているように思える。

「タイラー。紙が落ちた」

 彼は本を机に置いて、一枚の封筒を手にする。そして「これ」と呟く。

「うん?」とエマは声にする。

 ソラが鳴いた。首を伸ばしている。封筒を見詰めている。

「手紙、かな? 誰からだろう? どこにも、差出人が書かれていない。古そうにも見えるけど、汚れてるだけか?」

 前に来たとき、こんなものあったっけ?

 彼は封筒を開けて、折り畳まれた一枚の紙を取り出す。





  『追われることになりそう。会うのは、むずかしい。

   しばらく連絡を控えようと思う。誰に見られるか、わからないから。

   もしかしたらだけど、手紙はこれで最後になるかもしれない。

   タイラーのことをお願い。』





「母さんからの手紙だ」と彼は呟く。

 トリッシュ・マイエ――彼女の字である。


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