2-4


 ガクリ。頭と共に肩を落とした彼女は、重すぎるタメ息を地面に落としていた。


 えっ、どゆこと。

 僕の頭上で疑問符が舞いを舞っている。彼女の頭上では暗雲が舞踏を踏んでいる。


「中学、三年生の時にね」ポツリポツリ。降り出した雨のような声で彼女が語りはじめた。


「私は剣道を嗜んでいてね。そこそこ名の知れた女流剣士ではあるんだけどね。全国大会で優勝したその日の帰り道、私は家族と一緒だったんだけど、彼らはちょっと買い物があるからと家の近所で別れて、私が一人きりになった所を狙ってね――『その人』は唐突に現れたんだ。何故か白衣を纏っていてね、眼鏡をかけた無精ひげの、実に胡散臭い男性だったよ」


 彼女は屈ませていた上半身を起こし、両掌で拳を作ってギュッと握り、ワナワナと震えはじめた。当時の記憶を思い起こして、怒り心頭のご様子だ。


「その人は心魔の存在、心魔の生態について得々と語り出してね。まぁ私は、展開が急すぎて呆気に取られるだけだったんだけどね。――突然だった、その人が懐からとりだした狐面を私の顔面に被せて、先の約束を勝手にとりつけたかと思うと、忽然と姿を消してしまったんだよ」


 ヤレヤレと両手をあげて肩をすくめる式部は、言葉とは裏腹にどこか余裕そうに見える。さっきまで怒っていたクセに。


「だから私にはね、その人との『約束』を拒否する機会が、与えられなかったんだよ。呪いを解くために、狐面を外すために、『心魔を斬る』以外の選択肢が許されなかったんだよね」言うなり彼女は乾いたように笑った。自らを嘲ることであえて、彼女は自身を俯瞰したいのかもしれない。理不尽な運命の直視を避けているかもしれない。


「誰かに相談はしなかったの? その、ご両親とか、警察とか」僕は当然の疑問を式部に投げた。でも彼女はかぶりを振るばかり「キミがそうだったように、心魔なんて普通の人は存在すら知らない。交番にかけこんだ所で笑われるか精神状態を疑われるだけさ、それにね――」


 いつの間にか日が落ちてきたようだ。真っ白な狐面が橙色に照らされている。


「私が突然、狐面を被りはじめたことに関して、私の髪の毛が銀色に染まってしまったことに関して、誰も彼も『不自然』に思わないみたいなんだ。家族も、同級生も、剣道道場の仲間も――まるで、『ずっと昔からそうだった』みたいに振る舞うんだ」


 ザワリ、生ぬるい風が上半身を貫通し、僕の心臓を撫でた。


 狐面に覆われた式部の素顔。ペルソナの裏側で彼女は今、どんな目をしているんだろうか。口はつぐんでいるのだろうか、どんな表情を浮かべているのだろうか。

 その一切合切がわからない。わからない、けど――


 式部が言葉を紡ぐ。生糸を丁寧に織り合わせるように。


「黒幕の心魔が大衆を操るように、私の『呪い』も、周囲の認知を変えてしまう力があるらしい。そこに私の意志は介入できないけどね。……キミが私の狐面を不自然に感じる事実を鑑みるに、心魔を『視える』人間に惑わしは効かないみたいだね」


 僕は押し黙っていた。具現化するのがおよそ難解で、カテゴライズ不可能な感情に頭を支配されてしまっていたから。

 何を彼女に言うべきなのか。僕は何を為すべきなのか。最適解がわからない。だから僕は。


「式部。結局のところ、心魔って一体なんなの?」


 訊いた。単刀直入に。

 僕が最も知りたい、その『存在』について。


 式部が顔をあげる。石畳に映ったおぼろげな人影が揺らぐ。


「そうだね」口元に手をあてがう彼女は、言葉を選んでいるように見えた。「私に呪いをかけたその人の、受け売りでいいなら」そんな前置きを挟みながら。


「平たく言うと心魔は……、人の心に巣くうウイルス、みたいな存在らしい」

「心の、ウイルス?」思わず聞き返した僕を見やりながら、彼女がコクンと遠慮がちに頷く。


「『魔が差す』って言葉があるよね? まるで悪魔に憑かれたかのように、衝動的な悪事を行ってしまう現象を示した慣用句だ。……でも悪魔が本当に存在するとしたら?」


 彼女が両手をドロドロと、いわゆるウラメシヤのポーズで指をひらつかせている。いや、なんでこのタイミングで怖がらせようとしてんの。


「心魔はね、人がマイナスの感情を抱いた時、その人の心の中で産まれ、その人に憑りつく。人格に潜り込んで、その人の言動を負の方向へ導く。……更にね、その人のマイナスの感情が強く大きく表れた時、心魔は物ノ怪のような姿で世に具現化するんだ。視える人にしか視えないんだけどね。……この前の晩、私たちが遭遇した怪鳥がソレさ。心魔が具現化すると、憑かれた人の意志は完全に支配されてしまう」

「負の方向へ、導く……、人の意志を、支配……」


 僕は彼女の声を反芻させていた。同時に、記憶のイメージが脳内に流れる。


 転校初日の前夜。怒声をまき散らし、僕や女性に暴行を働いたあの男。彼は大人とは思えないほどに怒りの沸点が低かった。まるで、自分の思う通りにならないことにかんしゃくを起こす子どもみたいだった。そして式部は言っていた。


 ――さしずめキミは、『傲慢』の心魔……、ってトコロかな――


 そうか、『傲慢』――あの人は、人をあなどり見下す態度を続けることで『傲慢』の心魔を産み出し、憑かれていた。言うことを聞かない僕や女性に対して腹を立て、マイナスの感情を強く感じて、心魔が具現化――人面鳥のようなバケモノが現れたんだ。

 バケモノに意志を乗っ取られた男は、僕のことを躊躇なく殺そうとしていて――


 ゾッ――と身の毛がよだつ。眼前に迫るバケモノの三白眼と、鼻をえぐりとるような腐臭を思い出してしまったから。僕はブンブンと頭を振って、脳内にこびりついた映像をひきはがそうとした。


「大丈夫かい?」式部の窺うような声が耳に流れて、僕はなんとか意識を取り戻す「だ、大丈夫。続けて……」全く大丈夫ではないトーンでそう言い、彼女は少し逡巡した後に、「そう、それじゃあ――」改まった声で解説を再開させた。


「心魔は、自身では確固たる意志を持たないらしい。動植物と同じように、繁殖と生存だけを目的として人に寄生する。……故に彼らは、消失には必死で抗うんだ。そして」


 風を切る様に鋭い、一閃の声が。


「産まれてしまった心魔を消失させることができるのは、心魔だけ」


 まるで、喉元に刃物を突き付けられたような心地。僕の額から何故だかタラリと汗が垂れる。


「ちょっと待って、でもこの前の晩、キミはその刀を使って、あのバケモノを――」


 僕がそう言うや否や、彼女は鞘に納めていた刀をするりと抜き出していた。

 切っ先が、夕暮れの橙色に煌めいて。

 次の瞬間、僕の視界が『白』で覆われる。


 声も出せずに、僕はその場にへたりこんでいた。巨大な『ソレ』が、金色の瞳で僕を見下ろしている。この世の物とは思えないほど『真っ白』な九本の尾が、ユラユラと揺れている。


「お察しの通り」式部紫乃が淡々と喋りよる。

 彼女の背後には、大きな大きな狐のバケモノが空中を鎮座しているというのに。


「私もね、心魔に憑かれているのさ。妖狐の魂が封じ込められた邪刀――この刀が私の心魔なんだよ、普通の人には視えないんだよ。だからこの刀は心魔を斬ることができるのさ」


 僕はゴクリと唾を呑み込んだ。例え彼女にその意思がないと知っていても――


 あまりにも巨大な怪異を目の前に、僕は命の危機を感じざるえなかったんだ。


 蒼白の面持ちでへたりこむ僕を見やりながら、式部が申し訳なさそうに肩をすくめた。


「済まない。怖がらせるつもりは毛頭なかったんだ。ただね。百聞は一見にしかず。やはりその眼で見てもらうのが、一番早いと思っ――」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


 甲高い大声が空間をつんざき、式部の言葉は途中で遮られた。

 大声をあげたのは僕じゃない。そして式部もどういう事態になっているか呑み込めていないようだ。ビクリと肩を震わせながら、式部はキョロキョロと慌てた素振りで周囲に目をやっている。


 そしてドサリ、何かが落ちる衝突音。先ほど彼女が背もたれていた巨大な大樹から。


「イテテテテテ……」


 本能に従うままに僕は目を向ける。一手遅れて、脳が状況を理解しようと努める。

 どうやら誰かが木の上に身を潜ませていたらしい。その誰かは大声をあげて、地面に落っこちてしまったらしい。そして、僕はその顔におよそ見覚えがあって――


「あ、明智ッ!?」


 まごうことなく明智真琴が、腰をさすりながら顔をしかめている様子が遠くに。


 僕は抜け落ちていた腰にハッパをかけて立ち上がり、ヨロヨロと彼の元に近づく。式部はすでに彼の傍に駆け寄っており、「へ、平気かい?」と彼に声をかけていた。


「な、なんとか……、ケツ、めっちゃ痛いケド――」


 僕はようやく彼の元にたどり着き、明智はキシシと、強がった作り笑顔を式部に向ける。


「っていうかお前、何やってんだよ。なんであんなとこにいたんだよ」僕が問うと、徐に立ち上がった明智が申し訳程度にズボンの泥を払い、「いや、さ」ばつの悪そうに声をこぼした。


「さっきオレらのコトを助けてくれたからさ。オレ、シキベにお礼言おうと思ったんだけど、シキベすぐに帰っちゃうから。中学の時の剣道部の友達に住所聞いて、直接家に来たんだよ」

「……式部の、家?」僕がキョトンとした顔でキョトンとした声を漏らすと。

「ああ」式部がポンッ、と掌を拳で叩いた。


「そういえば言っていなかったね。この神社、私の家なんだ。私、神主の娘なんだよね」

「……あっ、そうなの?」

 式部があっけらかんとした様そうで、「うん」と頷く。明智が、「まぁ、そんなコトはいいとして」と僕の疑念は遥か彼方に放り投げられた。


「でよ……、家に来たものの、なんか式部と柳楽が二人でコソコソ密会みたいなことしてるから、なんかオモシロソーだなって、盗み聞きしよーとして。お前らに気づかれないように、オレ、あの木の上にのぼって――って、オレの話なんて今はどうでもいいんだよっ!」


 明智が表情を変え、青ざめた様子で人差し指を突き出す。

 未だに空中を鎮座している大きな大きな狐に向かって。


「なっ、なんだよその、RPGに出てくるラスボスみてーな化け物はよ!? オレら、喰われちまうんじゃねーかっ!? 逃げなくていいのかよっ!?」


 僕と式部が「えっ」と同時に漏らした。二人とも、同じ疑問が頭をよぎったのだろう。


「……明智さんにも、視えるの?」式部の疑問符が口からそのまま。


 明智が焦りながらも片眉を吊り上げる。式部の質問の意味がピンときていないみたいだ。


「み、視えるも何も……、ソコにいるじゃねーかっ!」明智が突き出した右腕をぐるぐる回しながらそう叫ぶと、式部が、「成程。確かに明智さんにも黒幕の支配が及んでいないようだったし、心魔が視えてもおかしくはないかもね」一人勝手に納得してやがる。


「安心おし」式部が刀の切っ先をを空高く掲げて「この子は私に至極従順だからね、悪戯に人を襲ったりはしないよ。……さ、お戻り」


 狐の姿がおぼろげに薄らいでいった。やがて狐は実体を失い、エクトプラズムのような白い光となり、粒子が刀の切先へ向かって収束していく。淡い光が刃を纏ったところで彼女がカチャンと刀を鞘にしまった。平静が僕らに返還される。


「な……、なんだったんだよそのバケモノ……、妖怪?」沈黙を破ったのは明智だった。命の危難が去ったと知ってなお、震える彼の声からは緊張が窺い知れる。式部がふぅっと観念するように息を吐いて。


「明智さん、私たちの話、聞いてしまったんだよね?」

「えっ……、う、うん。ハンブンくらいしか理解できなかったけどよ。『クロマク』っていう、悪の親玉が、『シンマ』っていうインフルエンザみたいのにかかっていて??」


 ――お前それ、ハンブンも理解できてないぞ。いよいよ明智が目を回し始めたので、式部はどうどうと、何故か牛馬をあやす所作で彼をなだめている。いや、待ってられるかよ。


「っていうかさ。心魔ってなんで、視える人と視えない人がいるの? 僕と明智、それに式部にも視えるんだよね。視える人と視えない人の違いって、なんなの?」


「ええと、それはね」式部が明智をなだめながら、頭上で言葉を選び悩みながら。

「心魔を視ることができるのはね。負の感情を胸の内に抱きながらも、……それを、『自覚』している人間だけさ」

「……どういうこと?」

「まず、前向きな気持ちで生きている人は心魔の存在を認知できないし、心魔も干渉しない。また、負の感情に囚われ、心魔に憑かれていてなお、それを『自覚』できない人間にも心魔は視えない。……つまりね。負の感情を持ちながら、でも自らが持つ心の弱さに向き合い、葛藤もしている――そんな人にだけ心魔は視えるんだ」


「えっ……」僕は心臓を軽く握りこまれたような息苦しさを覚えて。

「心魔って負の感情から産まれるんだよね? 僕や明智が負の感情に囚われているって、僕たちにも心魔が憑いているって、式部はそう言いたいの?」思わず語気が強くなった。


「そうは言っていない」式部は相変わらずひょうひょうとかぶりを振って。

「釈迦だろうが赤子だろうが、どんな人の心にも少なからず負の感情は宿っている。その気持ちが自分でコントロールできないくらい大きくなると、心魔は産まれるんだ。そして、その感情に気づいているかいないかは、別問題さ。……まぁ」


 彼女が順繰りに、品定めするように僕たちの顔を見やる。


「自分で自覚できるほど大きな負の感情を持っている人は往々にして、過去にトラウマのような出来事を経験していることが多い。心魔を産みだしてしまう可能性も、高いだろうね」


 僕は彼女に言葉を返さず押し黙っていた。いつのまにか平静を取り戻していた明智も地面に目を伏せて、口をギュッと結んでいる。


 ……。

『ステロ』

 ……クソッ――


「さてと」式部が、重くなった空気など素知らぬように、のん気な声を。


「私、柳楽くんに話したいことがあるって、最初にそう言ったよね。……明智さんを巻き込むつもりはなかったのだけれど、ここまで来たら仕様がない。一連托生ってやつだね」

「ハナシ?」明智が子どもみたいな八の字眉を作る。

 式部がコホンと、改まるような咳払いを披露して。


「黒幕狩りを、手伝ってくれないかな?」

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