棘の浜

@mmitei

選ぶということ

 静川 透治

 母ちゃんの泣き声に知らない泣き声が重なった。次第に母ちゃんの泣き声は小さくなり、やがて知らない声だけが耳に届くようになる。知らない声の主は、母ちゃんの腹の辺りから顔を出して、小さな口を精一杯に開けて泣いていた。まん丸な手足の指をゆっくりと動かして、まるで空気に溺れているかのように藻掻いていた。

 目も見えないし、言葉も発していないのに、おれにはなぜか分かる。この人は今、苦しんでいること、それでも必死に藻掻き、息継ぎをし、生きようとしていること、そして

   おれの弟として生まれてきたこと。


 父ちゃんに言われるがまま、おれはこの人を抱き上げた。よく見ると手足の至る所

 に小さな棘が生え、体中に砂が散らばっている。


(機軸アドギミックかな……。)


 追い追い分かることだろうと今は頭から外して、よくこの人を観察してみることにした。濡れたタオルでゆっくりと赤い顔を撫でながら、肌の柔らかさや浮かび上がって見える血管をよく確かめてみた。この人の体温が、脈拍が、心音が、手の感覚を通じておれに伝わる。至近距離で耳に響き続ける大きな泣き声も、今は不思議と気にならない。この人が発するすべての情報がおれの心にべったりと焼き付いてゆく。

 傍から見たおれはかなり長い間固まっていたのだろう。父ちゃんがイラついた表情でおれの肩を叩いた。


「ボーっとしてんなや。まだ終わってねえぞ。」


 そう言って父ちゃんはおれの横顔を小突いた。機嫌がいいのか、痛くない。そうだった。先に決めていた通り、ここからがおれの仕事だ。父ちゃんから教わった通りにやって、育児を成功させなければ。


「あー、あとお前。お前が名前つけろ。」 

「え…あ、はい。分かりました。じゃあ決まったら伝えに

「別に教えなくていいから。しっかりやれよ。」


 父ちゃんは追い返す素振りをして、おれを隣の子供部屋へ追いやった。


「名前かぁ……。」


 生まれたてのこの人を用意していた産湯につけて考えた。この人がこの先どんな道を歩むのか、そんなの予想すらできない。でも、それは父ちゃんや母ちゃんだって同じはずだから、せめて先の未来にたくさんの可能性の芽がありますようにと、そう願った。


しげる……。」


 ふと、おれの口からこぼれた茂という言葉を何故だかすごく気に入って、おれはこの人の名前にすることにした。



 それからというもの、茂の成長具合には目を見張るものがあった。名前をつけた次の日には瞬きをするようになり、一週間後にはハイハイもできるようになって、次の月には離乳食を食べ始めていた。普段は面倒くさがりな父ちゃんも必要なものは定期的に買い揃えて、何より関わらないでいてくれる。人生の中で一番楽しい時間が続いていた。


「茂はすくすく育つなぁ~。兄ちゃんもう5才だけど、あっという間に茂に追い越されちゃいそうだよ。」


 軒下で暖かい日差しと心地よい風を感じながら、おれは寝ている茂の頬をそっと撫でた。叶うなら、この安らかな顔をずうっと眺めていたい。なのに、しばらくするとおれは目を逸らしている。嫌でも想像してしまう。愉しそうな父ちゃんの笑顔、興味のなさそうな母ちゃん、腹の辺りに走る裏返りそうなほどの激痛。茂が両親の毒牙にかかるのがとても恐ろしかった。もしそのときが来るのなら、おれは茂の傍にいられるのだろうか。茂に何を残せるのだろうか。考えるのが嫌で、おれは茂を見ていられなかった。




 茂が生まれて6か月が経とうという頃、


「おい、そこの。」

「は、はい! なんでしょうか!?」


父ちゃんから久々に声をかけられた。


(最後に話したのって……もう4ヶ月くらい前かな。……名前、もう忘れちゃったみたいだな……。)

「用件伝える。お前ら兄弟、荷物纏めて下の部屋で暮らせ。」

「え……。」

「別居だよ別居。てめえらの顔見てると無性に殴りたくなるんだよ。声聞いてるだけで全身がかゆくなって気持ち悪いんだよ。これ以上一緒に暮らしてたらイカレちまう。」


父の首の辺りには噛んでボロボロになった爪の後がおびただしいまでに並んでいる。


「養育に必要なもんは全部俺の方にツケといてやる。早く俺の前から消えてくれ。」


父ちゃんの全てがとても恐ろしかった。得体のしれない危機がおれ達のすぐそばまで押し寄せているような感覚がする。小さな声で「はい」と返事をするや否や、オレは父ちゃんの指示どおり、荷物をまとめ始めた。


―――———————


静川創牾

頭が痛い。ああ駄目だ、ムシャクシャする。火照る顔に冷水を当てても熱は増すばかりで、ちっとも収まる気がしない。


「ああ、クソ。気持ち悪ぃ……」


あいつだ。あいつへの虐待を止めてからずうっっとこうだ。なんで俺はガキの世話なんて任しちまったんだ。ああ、あの頃が恋しい。もっと網膜に恐怖の貌を焼き付けたい。もっと鼓膜であの悲鳴を感じたい。あの血の匂いが鼻腔の底にまだ残ってる。柔らかくも筋肉と脂肪が薄く乗ったあの体、骨まで砕くあの感触。これ以上は、顎と舌に従った瞬間、戻れなくなる気がする。とっくにやめてしまったはずの人間が更に遠いどこかへ行ってしまう気がする。


(あぁ、クソ。考えるな、考えたら、もう)


昔、絵本で見た地獄そっくりだ。椅子に括り付けられた悪人が必死で豪勢な料理に顎を延ばす。俺を悪人だとでも言いたいのか? なら違う。先に変わったのは世界の方だ。世界が変わったから俺が変わっちまった。


「ねえ、創君。大丈夫?」


妻が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「心配かけてごめんね、霊佳ちゃん。……話があるんだ。」


――――――


静川透治

 3年間、結局おれの心配は現実にならなかった。無事にというべきか、茂は明るい子に育ってくれた。漢字の読み書きに二桁の掛け算、機軸の制御だってちゃんとできてる。今はもう将来に対する漠然とした不安くらいしか、おれの中には無かった。


「兄ちゃん、透治とーじ兄ちゃん!」

「あ……ごめんボーっとしてた。」

「でね! でね! そのツチノコっていうの、まだ誰も見つけてないんだってさ! 兄ちゃんも一緒に探しに行こ! オレたちで見つけよ!」

「わかったわかった。見つからなくても泣くんじゃないぞ。」

「ほら早く早く!」


 茂はおれの方を向いて後ろ歩きに廊下を進んだ。



 どん。



 茂が父ちゃんにぶつかった。背筋が凍り、喉元が締め付けられる感覚に襲われた。


(何? なんで? 父ちゃんがわざわざこっちの道を通るはずないだろ⁉ 子供部屋貸し切ったとき、こっちには来ないって言っただろ!)


視界がスローになって、父ちゃんの表情が邪悪で解放的なものへと変わるのがはっき りと見えた。父ちゃんが右の脚を引く。おれの記憶が言っている。このままでは茂が蹴られる。それも加減をしらないフルスイングで。2才の子供にすることじゃない。


「何ぶつかってんだ! あァ⁉」

 

 茂が側の壁に叩きつけられた。壁全体が揺れるような鈍い音がして、茂がぶつかったところが若干へこんでいた。


「ああ、ああああ、ああああああああああやっちまったよ! なあ! お前の可愛い弟を蹴っちまったよ! でもさあ! 仕方ないよなぁ! ぶつかってきたのはそっちなんだから! 3年も我慢したんだから! ヘヘヘしょうがねえよな!」


 反抗なんて、考えたことすらなかったのに。一度だって逆らったことはなかったのに。全身が燃えるように熱くなってゆく。腕が、脚が、顎が、自壊しそうなほどに強張っている。おれは父ちゃんを、静川創牾を絶対に許さない。


「茂に"ぃ手ぇ出す"な"ぁ"ぁ"ぁ"!!!」


 ありったけの力と怒りを振り絞って、おれは父に飛び掛かった。押しつぶすように振り下ろされた父の拳は、おれの眼前へとみるみる近づいてゆく。当たれば頭蓋が陥没するような大拳、無意識に敵意を感じ取ったのか、父の拳はいたぶるための振るい方ではなくなっている。

 当たる、殺意のこもった拳が頭蓋にめり込む。そう確信した瞬間、おれの身体は父の拳をすり抜けた。


(アンタのことだからもう忘れてんだろ! おれの機軸ことなんて!)


 父は拳の空振りにより体勢を崩すも、右足を踏み込んで倒れずにとどまった。幸い、茂は気絶している。兄として、これから始まる惨劇を茂に見せたくなかったから。本当に良かった。


「ぐっっ! がぁぁぁあ!!」


 おれは機軸の能力で何もかもをすり抜けられる。すり抜けるだけの能力だ。これじゃあ茂の盾になれない。そう思ったから、矛としての在り方を選んだ。

 突然肘の辺りが丸ごと消え、父は困惑の表情を浮かべる。すり抜けを解除した瞬間、おれと重なっているものはおれの身体に置き換わる。これが腕の消失の原因、おれが選んだ矛としての在り方だ。

 勝利を予感した矢先、父は残っていた二の腕でおれを突き飛ばした。


「あ~あ。腕、なくなっちまったよ。でも変だな。全く怒ってないんだぜ。らしくねえよな。」


 まずい。すごくまずい。二の腕の骨がちょうど、肋骨を砕いて肺に刺さってる。霞掛かった視界が、酸素の不足を訴えている。仮に今動いたとしても、確実に返り討ちに合う。


(畜生ォ……!)

「あ~、やっと気づいた。必要なんだ。俺の人生の彩りに、お前らの存在が必要なんだよ。」


 父は血で染まった上着を脱いだ。父の前身は赤く縁取られた黒い円で埋め尽くされている。よく知っている。その機軸が大っ嫌いだった。おれを楽しそうにいたぶる父のあの楽しそうな顔が蘇る。


「だったら、名前くらい覚えとけよ……! 静川創牾!」

「自己紹介なら後でたくさん聞いてやるよ! そこでノビてんのも一緒になあ!」


赤い縁が光を発し、黒い円から大振りの刃物が飛び出した。


「まずは、脚だけぶった斬る。」

(なんかあるだろ⁉ 弟守れよ! 兄貴だろ⁉)


父はじりじりと近寄ってくる。ほうっておけば酸欠で動かなくなるから、慎重に動く方が賢明だ。


(あんな怪我して冷静とか、どうすりゃいいんだよ……)

その時、おれの選択肢の中にぽっと生えてきた。走馬灯にしては短い、それに割と最近の記憶だ。


『命を懸ける』


機軸の力が、ほんの少しの間、人間の範疇を超える。そのを引き起こすトリガーとなるのはであると、本棚にはそう記されていた。万が一制御が利かなかったら? 仮に制御が利いたとしても、その後どうする? 茂は幸せになれるのか? 

自分が信じられなくなって、茂の方に目をやった。気絶しているだけと、分かっていても鳥肌が立った。


(ごめん茂。おれ、お前が幸せになることより、不幸にならないことの方が大事みたいだ。)


「待ってりゃ死ぬなこりゃ。つまんねえが、こっちで……。」

「創君? 大きい音が聞こえたけど……」


父がこちらから目を逸らし、上にいた母が降りてきた。今しかないと、そう思って、最後の力を振り絞って胸に刺さった骨をさらに奥へと押し込んだ。

  

     機軸:境界の向こう側アドギミック・オフリミッツ

  

曇っていた視界が一気に晴れて、感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。今このとき、おれは万能だ。おれを取り巻く空気の動きが手に取るように分かる。ずっと前から体の一部だったような、はっきりとした感覚。


(そうだ。空気ごと持っていこう。今のおれなら……)


機軸を発動すると、やっぱり空気もついてきていた。

父がこっちを見ている。気持ち悪いな。焦っているのも、高揚しているのもよく分かる。父が先ほどまで出していた刀を茂に向けようとしている。スローモーションに見えて、あまり焦ることもなかった。


「じゃあね、父ちゃん。」


解除。


ゴォッと風の音がして、父の身体がえぐり取られた。脚だけになった体は1秒もしないうちに倒れてしまった。そのまま、同じ要領で上の階に居た母も殺した。


「うぐッ おェ"ッ」


気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。父ちゃんのバカ、母ちゃんのバカ、人を傷つけたって、なんにも楽しくないじゃないか。嫌いだったのに、大っ嫌いだったのに。二人のことなんかこれっぽっちも尊敬してなかったのに。両親を殺して、弟を幸せにできないで。


「愚図野郎……!」


おれ、最低だ。


最期に……守らなくちゃ。誰か、茂を守ってくれる人を探しに行かなきゃ。明瞭だった思考はいつしか影を潜め、自分の身体の終わりにも気が付かないほど、おれは周りが見えなくなっていた。


「誰か…ゲホッ…弟を……」


誰もいない。大通りの真中を歩いているのに、周りには誰もいない。無駄かもしれない。それでも、おれは茂を背負って走った。


「誰"か"あ"!!! 弟を……一人にしないでくれ!!!」


おれの声が一番おれの耳に響いた。虚しかった。どうしようもなく虚しかった。


「聞こえたよ。君の声。」


男の声だった。誰かは分からない。目はいつのまにか砂で埋もれて顔も見えない。ただその声は優しく、穏やかにおれに話しかけてきた。


「孤児院『カッコウの巣』、館長の穢田葬一郎です。君、名前は?」

「……静川透治、弟の茂を……茂を。」

「守り、育てる。言った通り、君の声は聞こえてたから。」


もうすでに、おれの身体は原型からかけ離れている。愚図なおれの短い人生はここで終わるみたいだ。それでも、茂がいてくれて、この人に安心して次を託せたから、胸を張って言える。

        おれは幸せに生きた。

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