_TRANS_AZEL_
i820
_ゲヘナ事変_
_1_アゼル_
ゲヘナの空は、淀んだ薄灰青色をしている。
そこからの光が、広大な地下遺跡群を覆い隠すように組まれた蓋部構造物の隙間越しに、頼りなく零れ落ちるように射し込んでいる。
それをぼんやりと見上げながら、少年は思う。
「よくあんなのが千年も崩れずにいられるもんだな」
頭上の構造物が崩落すれば、今その下に居る自分たちはひとたまりもない。
「でもまあ、それならそれで、か」
身寄りもなく、何か夢や希望を持って日々を生きているわけでもない。
別にそれが不幸だとか死にたいとかいうわけではないが、何かの拍子に命が尽きるとしても、それを無念と思うこともないだろう。
自分自身の生死すら、少年は他人事のように考えていた。
「もうこんな浅層じゃ、なんにも落ちちゃいないですねぇ、アゼルのアニキ」
周囲を物色していた同行者からそう呼び掛けられ、少年はウンザリした調子で答える。
「そりゃそうだろ。ピカクスが発掘事業を始めて何十年経つと思ってるんだ」
――千年前に降臨した堕天使シェムハザの眠る地、ゲヘナ。
この地は巨大なすり鉢状の地形になっていて、蓋をされて陽の差さないその内部には、古代の遺跡群が今もほぼそのままの形で残っている。
その、高度に発達しつつも今では喪われてしまった文明の墓場は、見るものによっては宝の宝庫だったが、永らくエノンズワード教の教義によって、また、東方連合と西方魔境の政治的折衝の結果として、とにもかくにも禁足地扱いとなっていた。
それが破られ、新興の商工経済組織、通称ギルドの傘下企業であるピカクス社による、”絶対中立かつ純粋な考古学への貢献を目的とした遺跡発掘調査”が連合・教皇庁の監視下で開始されてから、およそ三十年弱。
既に地表付近の浅層は先人たちが粗方荒らしまわっていて、何も目ぼしいものは残ってはいない。
危険な地下深層にしても、ここ最近はもう大した遺物が出たという話は聞かれない。
そんな状況にもかかわらず、ピカクスは一向に発掘事業から手を引こうという素振りを見せない。
それについては色々な人間たちが色々な憶測をし、色々な噂を囁きあっているが、アゼルはそういった話にも興味が無かった。
明日仕事が無くなるとして、そんなのは明日考えればいい。今日の仕事があるのなら、今日のところはそれでいい。
「……やっぱもっと深く潜るしかないスね。行きましょう、アニキ」
同行者、げっ歯類の特徴を色濃く持つ獣人の少年、コレがシシシと音を立てて笑いながら言う。
それに対し、アゼルはまたもウンザリとした声で返す。
「アニキはやめろって何度言えば分かるんだ。お前とは兄弟分でもなけりゃ、友達でも仲間でもない。勝手に付きまとうなよ」
「まあまあ、そう言わずに。ほら、早くいきましょうって。今日こそ何か見つけて帰って、ボーナス頂いて、旨い御馳走にでもありつきましょうよ」
そうしてコレに強引に背中を押されながら、アゼルは遺跡の更に奥深くへと潜って行った。
とはいえ、それからも何も見つけられないまま、アゼルとコレはそれなりの深度まで潜行していた。
アゼルは一息つくと立ち止まり、極めて滑らかで継ぎ目のない、鈍い鏡面光沢を持つ遺跡の壁面を、その向こうに映る自分自身を、見つめた。
頭の上から長く伸びた獣のような耳。
よくウサギ系獣人の血が混じっていると勘違いをされるが、実際には狼系の耳がエルフの血によってこうして伸びて発現したものらしい。
鼻のてっぺんも少し黒い以外に獣人的な要素は乏しく、尻尾も無く、頭髪以外の体毛も薄い。
全体的にはイオスの血が最も濃く、体型はのっぺりとして中庸的で、肌の色は薄褐色をしている。
かなり複雑な血筋らしいとは思うが、物心ついた時には既に天涯孤独の身で、直近の父母の種族すらも知りはしない。
「駄目ですね。この辺だったら何かしら見つかると思って期待してたんスけど……」
コレの残念そうな声が聞こえ、アゼルはそちらへと視線を移した。
「こうなりゃトコトンっス。前人未踏の深度に挑戦しましょう!」
コレが元気よく大きな声で無邪気にそう言うと、アゼルは思わず頭を抱えてそれに答えた。
「もういいよ。どうせ何も出ねーよ。地上に帰ろうぜ」
手ぶらで帰ったところで、ピカクスは最低限の生活は保障してくれる。
どういう意図でかは分からないが、最近はそれに甘えっきりのタダ飯食らいのダイバー崩れも増えてきている。
アゼルとしては、自分はそうはなるまい、報酬に見合う働きぐらいはしてみせる、と思いはするものの、こうも何も見つからなくてはどうしようもない。
そろそろこの仕事も、ゲヘナでの生活も、潮時かとも思うが、かと言って他に行くあても、やれる仕事も、思い付きはしない。
連合ではまだまだ獣人や岩人、樹人などはキマイラと総称され、根強い差別を受ける。
結局は思考停止し、惰性で今を生きるしかないのが実際のところだった。
「そんなことないスよ。今日こそは絶対凄いお宝見つけられますって! そんで俺、大金手にして、都会に出て、ビッグになるんスから!」
アゼルは思わず苦笑する。流石にもう付き合いきれない。
「勝手にやってろって。俺はもう戻るぞ」
そう言い残し、来た道を引き返そうと振り返ったアゼルの目に、一人の少女の姿が映った。
壁にもたれかかり、全身で大きく息をつく少女。
少女はすぐにアゼルの存在に気が付くと、焦った様子で駆け寄りながら叫んだ。
「お願いです! 助けてください!」
アゼルは立ち止まり、その少女を警戒しつつ観察した。
透き通るような白い肌。艶やかなクリーム色の髪。翠色に煌めく瞳。
アゼルは一目見て、素直にその容姿を美しいと感じた。
しかし、すぐにその容姿の不自然さに気付き、警戒を強める。
種族が分からない。
最初はその肌の色からエルフかと思った。しかし、その耳や手脚は長くはなく、全体的な体型もイオスそのものだ。
けれど、エルフとイオスの混血ならば、その子供は例外なくこの少女とは逆に、薄褐色の肌と長い耳を受け継ぐ。
他の可能性も考えるが、どの種族のどういう組み合わせの混血でも、こういう風にはならないはずだ。
それに、そもそもゲヘナに女性は多くない。それもダイバーとなると尚更だ。
その殆どは大した付き合いはなくとも、顔ぐらいは見たことがある。しかし、この少女はその中に含まれない。
なぜこんなところにこんな少女がいるのだろう。
アゼルはただ困惑し、立ち尽くす。
「お願いです! 追われてるんです!」
少女はアゼルに縋りつつ、恐れるように後ろを振り返った。
アゼルも咄嗟にその視線の先を追う。
いつの間にかすぐ目の前の距離に、数人の黒ずくめの大男たちが通路を塞ぐようにせまっていた。
「よう、ウサギの坊や。それにネズミ小僧」
黒ずくめたちの内の一人が一歩前に出て、アゼルとコレに馴れ馴れしい態度で話しかけた。
それに対し、アゼルは無言で応え、少女はその隙に素早くアゼルの背中へと逃げ込む。
そして、その更に後ろから、コレは強張った笑顔を顔に張り付かせながら震える声で答えた。
「へへへ、こんなトコで奇遇ですね。ゴディの旦那」
ゴディ。ギルド傘下の警備会社、ペクスの武装警備員。
岩人。その二メートルを超える岩の塊のように硬質の巨体が、禍々しい形状のナイフをチラつかせながら、下卑た笑みを浮かべている。
「いいからその女をこっちへ渡せ」
ゴディが一歩、また一歩とジリジリと近づいてくる。
「ど、どうします!? アゼルのアニキ……!」
コレが焦り、ゴディと少女を交互に見つめながら、小声でアゼルに尋ねる。
アゼルはただ黙って、自分の肩越しに少女の姿をもう一度見た。
少女の方も黙って、不安げな表情でアゼルをただじっと見つめている。
美しく整った顔が、すぐ目の前にある。瞬きをするたび、長いまつげが揺れる。薄く涙で滲んだ瞳は、本物の宝石のようだ。
アゼルは視線を移し、壁面に映った自分と少女の姿を見比べた。
住む世界が違う。
それは比喩などではなく、まさしく言葉通りの意味として、感じられた。
アゼルはゴディへと向き直り、無表情で告げた。
「勝手にすればいい。たまたまここで急に絡まれただけだ。俺には何の関係もない」
その瞬間、少女は声にならない声を上げ、すぐに走って逃げだしていった。
「おうおう、相変わらず冷たいヤツだね、アゼル君は」
ゴディはそんなアゼルをニタニタと皮肉めいた笑みで見下し、嘲笑した。
アゼルはその視線から逃げるように顔を背けるが、その先でオロオロと狼狽えるコレと目が合い、そこからも目を逸らし俯いて言った。
「だったらどうしたら良かったって言うんだ。知り合いでもない女を庇って、あんたのその物騒なものでブッ刺されてたら良かったとでも言うのか」
「俺としてはそれでも構いはしなかったんだけど、……なっ!!」
言い終わらない内に、ゴディは後ろから何かに突き飛ばされたように態勢を崩し、前のめりに倒れこんだ。
「いつまでグダグダやってんだ。さっさと追え」
大男たちに紛れて目立たなかったが、もう一人居たらしい。
小柄のネコ科の獣人の女。それがイラついた様子で男たちに指示を飛ばし、男たちはそれに怯えるように急いで先ほどの少女を追って走り出した。
女もその後に続いてゆったりと歩き出し、そのままアゼルたちには一瞥もくれないまま去っていった。
「……な、なんだったんスかね?」
しばらく呆然と立ち尽くしたあと、コレが思い出したように声を発し、アゼルは大きくため息をついてから、それに答えた。
「知るかよ。俺には関係ない。これ以上変なことに巻き込まれない内に帰るぞ」
そう言うとアゼルは、少女とそれを追う者たちの去っていった方向とは別の方向へと、歩き出した。
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