とう。好きになる理由なんて並べるな

 私は、今度も秋の時みたいにすぐ過去にできると、大丈夫だと、思っていた。けれど、私は相当に重症だったらしい。

「菜乃花、何頼みたい?」

 パスタが美味しいと有名なレストランに私は従姉妹と来ていた。従姉妹のゆずちゃんの隣には柚ちゃんの彼氏が座っている。

 柚ちゃんとは同じ歳で、たまにこうしてご飯を食べに行っていた。

今度はこのレストランに行きたいね、と話していたら今週末に移転のため閉店してしまうという情報が入り、急遽ご飯を食べに行くことになったのだけれど、柚ちゃんは彼氏とも行きたいねと話していたらしく、それなら三人で行こうということになったのだ。

 柚ちゃんの彼氏ははるくんというらしい。29歳。大晴の一つ下だ。柚ちゃんはしっかりしていて優しい。服装はシンプルなのにスタイルが良いからどんな服でも映える。春くんは笑顔がふんわりとしていて、雰囲気からも優しさが伝わってくるような人だった。

「このトマトパスタにしようかな」

「それも美味しそうだよね!今、クリームにしようか和風にしようか悩んでて」

「じゃあ俺が和風にしてシェアしようか?」

「それいいね!そうしよう!」

 私は二人の会話を聞いて、ニコッと笑ってみせた。

 正直、しんどかった。幸せそうな二人を見るのは、別れたての私にとっては、余裕のない私にとっては、苦しかった。でも、断りきれなくて、こうして来てしまった。私はどこまでも私を蔑ろにする。

「菜乃花ちゃん、どうぞ」

「ありがとう、春くん」

 春くんがフォークとスプーンを取ってくれる。気遣いができるし、優しくて羨ましいな。

 ——私の隣には、誰もいない。

 話に相槌をうって笑うけれど、もうどれが心から笑っている笑顔なのか、愛想笑いなのか、自分でもわからなくなっていた。

「あ、三人でシェアしよっか!菜乃花もそれで大丈夫?」

「うん!ありがとう」

 春くんが取り皿に取ってくれて、それを受け取る。柚ちゃんの食べきれない分は春くんが食べていた。そういうの懐かしいな、と遠い思い出を探る。



「もういらないの?」

 買ってきたお弁当が食べきれず、小さく唸りながら「大晴、食べる?」と聞くと「じゃあもらっちゃうよ?」と私からお弁当を受け取った。大晴の隣でうとうとし始めて、彼が食べ終わる頃には肩に寄りかかって夢見心地の私の背中を彼がとんとん、と軽く叩く。

「ほら、お風呂入っちゃいな」

「んー……入る」

「このまま寝ちゃっても良いけど、お風呂は何がなんでも入るタイプでしょ?」

「ん、そう……大晴、連れてって」

 ふわふわする微睡の中、大晴の腕を握って舌足らずにお願いをしてみると「ほら、起きて」と言いながら何故かソファーに押し倒されて。

「早くお風呂入らないと、このまま抱くけど」

「……えっ、ちょ、ま、待って!」

 そのまま服の中に手を入れられ、大晴は私の鎖骨にキスを落とした。体がビクッと反応して、力が入らない手で大晴を押すと、あっさりと離れてくれた彼は、艶やかな笑みを浮かべて「目が覚めた?」と私に聞いた。



 トマトパスタをくるくる巻いて、そういうことを思い出してしまい、心がざわついた。今考えると大晴の行動も大胆だし、そういうのが嬉しかった私って意外とスキンシップが好きなんだな、と自覚する。

「ここのパスタ、美味しいね」

 私がそう言うと二人も「美味しいね」と笑った。今はこういう時間を大事にしなきゃいけない。過去ばかりを思い出しても仕方ないもんね。わかっているのにな。

 でも、美味しいパスタだから大晴にも食べさせてあげたかったな。このクリームパスタとか、好きそう。

「デザートも頼む?」

 春くんがメニューを見せてくれて、私はパフェを食べることにした。柚ちゃんもパフェを頼み、春くんはガトーショコラを頼んでいた。

「ちょっと頂戴?」

「いいよ。柚ちゃんのも頂戴。あ、菜乃花ちゃんもよかったら食べてみて?」

 春くんと柚ちゃんがデザートをシェアしていて、春くんが気遣って私にも声をかけてくれたけど、「大丈夫。ありがとう」と流石に断った。

 バニラを掬って、パクリと食べる。

大晴なら「こんなに一人で食べられるの?」って言うかな。コーヒーを頼んで、パフェを食べる私を優しい目で見つめながら、時折、食べさせてって言って、ねだってくるのかな。

「そういえば、この間、亮(りょう)が恋愛相談したって言ってたけど、迷惑かけてない?大丈夫だった?」

「あ!そうなの、電話でね。むしろ頼ってくれるのは嬉しいよ」

 柚ちゃんの弟の亮ちゃんは私達の二つ下で今25歳だ。たまに電話がかかってきてお互いの恋愛相談をしている。

「亮ちゃん、私、大晴のこと忘れられないかも。どうしよう……。」

 と、縋る思いで夜、電話してしまったこともある。

『忘れるには次の恋愛!さっさと次に行こう。アプリならいろんな人と出会えるし、菜乃花、可愛いんだから選びたい放題だよ。でも、乗り気になれない?』

「次の恋に行きたい気持ちはあるけど、まだ大晴のことが消化しきれなくて、すぐは無理そうかも……。」

 出口のない話を亮ちゃんはずっと聞いてくれて、私はだんだん落ち着いていった。感謝するのはむしろ私の方だ。

 亮ちゃんには好きな子がいて、その恋愛相談もたまにのったりもするけれど、最近は専ら私の話ばかりだった。

「どんな相談だったの?」

 亮ちゃんはオープンな性格で相談内容もわりといろんな人に話したりするタイプだからいずれ柚ちゃんの耳にも入るだろう、と私は話すことにした。

「好きな子がいて、この間、告白したらしいんだけどね、返事がまだないんだって。もう一週間も。だから脈なしなのかな?って言ってた」

「その話は初めて聞いた!へぇ、そうなんだね」

「うん、それで、菜乃花は相手に返事を待ってもらったことある?って聞かれたから、ないよって言ったの。付き合う前にこの人、良いなって思えたら、遠回しに好きですよって伝えちゃうからって。例えば、もう少し一緒にいたいとか言っちゃうの。……なんだろ、付き合う前の雰囲気ってあるでしょ?その時に脈ありかなしか、もうわかるかなって思っていて」

 大晴の時の、話になってしまう。

 苦笑いを浮かべるけれど、柚ちゃんは首を傾けて「うーん?」と不思議そうな顔をしている。

「柚ちゃんはそういう付き合う前の雰囲気とかに疎いもんね」

 と、横から春くんがふわりと笑った。

「付き合う前の雰囲気とかあるの?わかんないな……。」

 柚ちゃんは春くんが初めての彼氏だった。

 素直に羨ましくなってしまう。初めから、こんなにも良い人に出会って、そういう駆け引きなく素直に幸せになれて。

 恋愛のエッセイにも書いてあった。

『恋愛は傷ついて経験を積んで、良い人と出会うのではありません。傷つけば傷つくほど、次に付き合う人のことを疑ってしまう。この人も浮気するんじゃないか、離れていくんじゃないか、って。私の知り合いの方で、初めてお付き合いした方と結婚した女性がいます。彼女は言いました。浮気しないか心配だと思うような彼氏と、どうして付き合い続けるの?と。素直は無敵で、だからこそ恋愛は傷つかずにただ愛される女性が強いんです』と。

 失恋の傷を癒したくて読んだエッセイだった。思わず本をぶん投げそうになって、なんとか耐えた私は偉い。

 その考察でいえば、私はもう終わっている、ということになる。

 何度も何度も傷ついて、もう手遅れってことだ。

『誠実で良い人は必ずいます。だから、いつかその素敵な人と会うためにご機嫌に生きてください。毎日を輝かせて笑顔で、自分の好きな洋服を着てばっちりメイクをしていつでも出会える準備をしてください。私もそうしていたから今の旦那と出会えました』

そういうふうにも書いてあった。それは、素敵な旦那様に出会えたからこそ言える言葉なのに。幸せな女の言葉は、傷心中の女にとっては、明るすぎて辛いものでしかなかった。



その後、私は大晴を過去にするために、新しい人を探してみることにした。

「恋愛のエピソードでさ、ときめいた話、聞きたいな」

「そんなこと初めて聞かれた」

 それは、アプリの男性と一回目のデートの時だった。彼は二つ年下のシステムエンジニアで、顔が小さく、普通にかっこいい人だった。

 レストランで彼は私をとにかく褒めた。洋服可愛いね、顔も声も可愛いねって。

 その後の唐突な質問に、私はぎこちなく笑うしかなかった。

「そういうことをね友達にも聞くんだけど、いろんな話が聞けるから楽しいんだよね。それに女子に聞くとその子のトキメキポイントがわかるしね」

 変わった人だな、と思った。私はアイスティーを飲みながら、少しだけ考えてみる。ときめいた話、か。

「……煙草、」

「煙草?」

 呟いた言葉を彼が拾って、頬杖をつきながら私の次の言葉を待っている。

「前に付き合っていた人がね、煙草を吸う人だったの」

「うん」

「でね、バニラの煙草をね、私に咥えさせてね、甘いでしょ?って」

「ふうん」

「私が咥えた煙草をそのまま咥えて火をつけたの。それが、きゅんてしたことかな」

「俺は煙草吸わないから、それはしてあげられないな」

 彼の強い声色に、自分の口角が上がっていたことに気づく。ふっと唇が下がっていくのがわかった。私、なに、話しているんだろう。

「少しドライブしない?」

 レストランから出ると、彼が助手席に乗せてくれた。

 そういえば、と思い出す。付き合う前、助手席に乗せるっていうのも大晴はなかったな、って。

「夜景でも見に行こう」

「うん」

 彼が運転してくれて夜景を見に行った。自分が住んでいる町は思っていた以上にキラキラと光っていて、本当に綺麗で、ずっと眺めていられた。

 大晴はこの場所を知っているのかな。すごく綺麗だから、一緒に見たかったな。

 ……寂しいな。もう、誰でもいいのかもしれない。誰か、空いた黒くて深い穴を埋めて欲しい。誰でもいい。誰でもいいから、楽にさせてほしい。

 帰り道、「ここらへん、ラブホが多いんだよね」と彼が世間話をするみたいに言った。

「そうなんだ」

「今日はもう帰る?それとも休んでいく?」

「——。」



 ぼんやりと思い出してしまう。

 ——その日、大晴と初めて喧嘩をした。

「その先輩は菜乃花と不倫しようとしているかもしれないのに、菜乃花は全然わかってない」

「先輩にそんな気なんて全然ないよ!」

「なんで言い切れるの?男が何考えてんのか、菜乃花は全然わかってないんだから危ないよ」

 会社の既婚の先輩に夜ご飯に誘われ、付き合いで一回だけ行った。

その後、二回目も誘われ、一回目の話も大晴にしていたため、二回目の話もしたら「一回目は付き合いで様子見で行かせたけど、二回も行くのはおかしいよ」と大晴は眉間に皺を寄せた。

「だって、そんな雰囲気、全然ないんだよ」

「菜乃花は行きたいの?」

「大晴が行ってほしくないって言うなら行かない」

「じゃあ、行きたいってこと?」

「別にどっちでもいいの。付き合いだから行った方がいいのかなとも思うし、別に特別行きたいわけでもないから断ってもいいとも思うし」

「じゃあ、断りな。もし俺が職場の女の人と二人でご飯食べに行くって言ったらどう?」

「……浮気?って思う」

「でしょ?それと同じことだよ」

 大晴は溜め息を吐き出してネクタイを緩めた。「本当わかってないんだから」と小言を漏らしながら。

「なんで大晴、そんなに怒るの?私が好きなのは大晴なのに」

「その場の雰囲気に流されてホテルに連れ込まれたらどうするの。心配してんの」

「……そんなことならないよ。それくらいわかるもん」

 そんな言い方をされて、カチンときてしまい、声を低くして私も眉間に皺を寄せた。

「わかってないでしょ。そのうち内容証明が送られてくるかもしれないよ。そしたらどうすんの」

「奥さんから訴えられる?」

「そうだよ。慰謝料も取れるよ」

「ただご飯食べただけなのに?気持ちもないのに?」

「奥さんが頑張ればできるんだよ」

「どうしてそんな言い方するの?」

「菜乃花が全然わかってくれないから」

 いつもの優しい大晴は見当たらず、怒っているのだとわかった。秋とも杉本くんとのことでこういうことがあったな、と思い出す。

「……嫉妬?」

 恐る恐る口にしてみれば、火に油を注いだだけとなる。

「嫉妬じゃないから。ねえ、ちゃんと聞いて」

 あからさまに嫌な顔をして私の隣に座る大晴。

「菜乃花は何とも思っていなかったとしても、向こうは違うかもしれない。不倫の多くは社内で起こるんだよ?口説かれたらどうすんの?もっと男のことを警戒してほしいんだって」

 秋にも同じようなことを言われたような気がする、と思い、縮こまって頷いた。

「……わかった。気をつける。ごめんなさい。先輩とのご飯、断るね」

 こんなにも言われるんだから、確かに警戒が足りていないのかもしれない。

「ん、わかったならいいよ」

 大晴は私の頭を撫でて怖い表情を和らげた。

「でも、大晴、嫉妬してた。それは認めてよ」

 不服そうに私が言うと、大晴は手を止めて、「頑固だなあ」と困った顔をする。

「厳密に言えば、別に菜乃花が男とご飯行くのはいいよ。独身ならね」

「え?独身の方が危ないよ」

「独身なら訴えられないでしょ」

 また秋と同じ、他の人と付き合ったほうがいい、ってこと?

 驚いて顔を上げると。大晴は優しい顔をして私の頬を手の甲で撫でた。

「菜乃花のこと信用してるから。他の男には靡かないでしょ?ただ、奥さんがいると訴えられたら大変だから。まあ、連れ込まれる可能性があるのは独身の男の方もあるから心配ではあるけど、菜乃花が行きたいなら行っておいで。でも既婚者は駄目だからね」

「……大晴って、変」

「……まあ、嫉妬はしてたかもね」

 私と目を合わさず、私の右手を取ると、ペアリングにキスをして「でも、菜乃花が本当に会いたいと思った人には俺のことなんて関係なく会いなよ」と小さく言った。



 今の状況を大晴が見たらなんて言うかな。——何も言わないか。もう別れてるもんね。

 薬指に無くなったペアリング。その面影はどこにも見当たらない。

「ごめん。このまま帰るね」

 貴方が愛してくれた私を、どうでもいい男にはやれない。

「そっか。じゃあ、まあ、次の機会に」

 確かに私は危機管理能力が低いんだろう。連れ込まれる危険性だってある。でも、それでもいいかもって思った自分も確かにいた。

 大晴がもう隣にいなくて、自分を無くして、思い出も全て忘れたくて。投げやりになってしまいそうで。

 あと、どのくらいしたら、私は大晴を過去にできるんだろう。



 アプリの人と何人か会って、その度に私は大晴を思い出して苦しくなった。

 疲れて、夜も眠れなくて、私は恋愛から距離を置くことにした。

『やっぱり一緒にいたいなって思っちゃう。仕事が落ち着いたら私とのこと、考えてほしいな』

『菜乃花の気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも今は気持ちに応えられない。ごめんね』

 別れて三カ月後、私から送ったメッセージは呆気なく散った。

 私の方が未練タラタラで情けない。

 もう終わっちゃったんだな。小さく溜め息を吐き出すと、涙が画面にポタリ、ポタリ、と落ちていった。

 大晴を好きな私だけが取り残されて泣いている。

 情けないと思うのに、行き場のない気持ちは消化しきれず、涙へと変わっていく。

 亮ちゃんは言った。

「その人、残酷だよ。今は応えられないってさ、もしかしたら未来では応えられるかもって期待しちゃうじゃん。別れるなら相手のためを思ってスパッと切るべきだよ」

「……確かに。私、待っちゃうかもしれないもんね」

 でも、仕事が落ち着く日なんて来るのかな。待ったら、もっと、辛くなる。



「……菜乃花」

「ん、」

 目が覚めると、ぼやけた視界がだんだんクリアになってきて、目の前に大晴がいた。心配そうに眉を下げて私を見つめている。

「うなされてた。大丈夫?」

「あれ、私……。」

 夢?だった?大晴と別れる夢を見ていた。

「あったかい紅茶淹れてくる。待ってて」

 ぽん、と頭に手を置かれて、離れていく。大晴の部屋はいつもと同じだった。ペアリングのケースも棚の上にある。

「……怖かったな」

 ほっと胸を撫で下ろして、私はソファーにもたれかかった。

「はい、紅茶」

「ありがとう」

 湯気がゆらゆら揺れている。大晴はいつものように私の隣に座った。

 時間がゆったりと流れて、心地良い。

「あのね、大晴、」

「ん?」

「私ね、大晴と一緒ならどこに行っても楽しいだろうなって思うの。だから見たことない場所とか、したことないこととか、一緒にしていきたいな」

「そうだね。春はお花見に行って、夏は海に行って花火もやって、秋は過ごしやすいから旅行にでも行って、冬は温泉もいいな」

「ふふっ、楽しそう。ペアリングもね、嬉しくて。見るたびに大晴の彼女なんだなってわかるから嬉しいの。ありがとう。あとね、いつも大切にしてくれてありがとう」

「いつも素直に伝えてくれるから嬉しいよ。そういうところ好き。自分の彼女なんだから大切にするのなんて当たり前でしょ」

 柔らかい声を出して、私の髪を撫で、大晴は頭にキスをしてくれる。

「菜乃花、」

「……ん?」

「一緒にいると毎日笑っていられるような人と出会って、幸せに過ごしてほしい」

「……私、もう幸せだよ?」

 その言葉が不思議で、顔を上げる、と。

 大晴は少しだけ寂しそうに笑って、私を抱きしめた。安心する匂いに目を瞑ると、大晴の声が聞こえてくる。

「愛してるよ。幸せを、ずっと祈ってる」



 朝、目覚めて最初に思い浮かべるのは、貴方のこと。

「——朝、」

 のそりと起き上がると、布団の上に涙が一粒、落ちていった。

 願望が詰まった夢。なんて滑稽なんだろう。

「……このままじゃ、駄目だ」

 涙声は情けなく、私を更に弱くする。

 こんなことなら愛したくなかった。全部、なかったことにして……お願いだから。



 ——ああ、本当は離れたくなかった。

 朝、目が覚めて、アラームが鳴る前にスマホを操作して消す。

 菜乃花の、目を細めて可愛らしく微笑む顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 まさか夢まで見るなんて、と自分に驚いた。

 俺から振っておいて未練があるなんて情けない。菜乃花はもっと傷ついたはずだ。

 けれど、何度も夢を反芻してしまう。素直に気持ちを伝えて、柔らかく笑ってくれる菜乃花に触れて、その笑顔を守りたいと思っていた。

 でも、今の俺じゃ駄目だ。一つの案件をこなしていくことさえ時間がかかってしまう。未熟な今の俺が菜乃花と付き合い続けても仕事ばかりに集中して、きっと悲しい思いをさせてしまう。だから別れる選択は正しかった。

 朝、目覚めて隣にいる菜乃花を、寝顔も可愛いな、と思いながら眺めていると、んー、と唸って重い瞼を開けようとして、けれど開かなくて。俺の首に手を回して抱きついてくるから、俺は小さく笑いながら抱き寄せて。

 「おはよう」と寝ぼけた声を出すから、俺も「おはよう」と返すけれど、すぐにまた眠ってしまう。「愛してるよ」と、眠っている菜乃花の髪を撫でながら囁いてみるけれど、彼女は夢の中。直接、その言葉を伝えたことはなかったな。

「……仕事、しよ」

 早めに出勤して仕事をしよう。隙間を、なくそう。



 私は、極力、大晴のことを思い出さないように自分の時間を埋めることにした。痩せて綺麗な体のラインを作るためにジムに通ったり、お弁当を作ってみたり、ずっと取りたいと思っていた図書館司書の科目を取るために通信の大学に申し込みをして勉強を始めた。

 恋愛からは遠ざかることにした。次の恋に行けないのなら、まずは大晴をちゃんと過去にする。そう決めた。

 別れて一年が経ち、私が29歳の誕生日を迎える頃には、思い出しても泣かないようにはなっていた。ただ、ふとした瞬間には思い出してしまうことが多く、完全に過去にするにはもう少しだけ時間がかかりそうだった。

「その人のことが本当に好きだったんだね」

 久しぶりにアプリを開いて、一人の男性と出会った。私がまだ元彼のことを完全に過去にできていないことを話すと、彼はそう言って目を伏せた。

「心に穴が空いた感じになるよね。僕も5年付き合った彼女と別れた時、そういう思いをしたからわかるよ」

 彼はゆったりと落ち着いた声で首肯してくれた。

「彼以上の人と出会って、好きになったら忘れられるかな」

 彼は私の気持ちに寄り添ってくれる、とても優しい人だった。

「誰かを好きになるのが怖いです」

「怖いよね。でも、それだけ人のことを好きになれた菜乃花ちゃんだから、良い人と必ず出会えるよ」

 穏やかで、優しくて、彼は私のペースに合わせてくれた。

 あの人を好きになれたら、私は幸せになれるのだろうか。

 もう大晴のことは過去にできた?吹っ切れた?自分のことなのに、分からなくて困惑してしまう。

 そろそろ、と思い、アプリを開いて彼と出会ったのに。

「自分の気持ちを確かめるために大晴くんと会ってみてもいいんじゃない?」

 いつものように亮ちゃんに相談すると、そうアドバイスをされた。それに私は勢いよく首を横に振る。

「駄目だよ!そもそも連絡する勇気がないよ。それにね、別れてから半年以上経つと復縁の確率ってすごく下がるんだよ!」

「どこ情報よ、それ。ていうか、復縁したいんだ?」

「っ、そん、なわけ」

 ファミレスのソファー席で亮ちゃんの言葉に撃たれる。亮ちゃんはあの後、告白した女の子からオーケーをもらい、今は彼女となっていた。

「本当に断ち切りたいなら、連絡先は消すけどね、俺なら。コーラ取ってくる」

 さらりと口にして、亮ちゃんはドリンクバーへと行ってしまう。

 連絡先を、消す……。

 もやもやして、それに頷くことはすぐには難しそうだった。

 戻ってきた亮ちゃんに縋るような思いで言葉を続ける。

「だって、会ったらまた好きってなっちゃうかもしれない。それが怖いんだよ……。」

「……菜乃花、」

「会って、もう過去にできた、吹っ切れたんだって思えるのなら会いたいけど、もし好きだって思っちゃったら、また傷つく。また私の想いは一人で消化しなきゃならなくなる。それが怖いの……。」

 亮ちゃんは取ってきたコーラに口を付けず、頭の後ろに手を置いて小さく息を吐き出した。「まじか……」と呟きながら。

 俯いていた亮ちゃんが顔を上げる。私と目を合わせると、意を決したように口を開いた。

「菜乃花、それってまだ好きだってことだよ」

「……。」

 まだ、好き?ってこと?……そんなわけ。

「い、いやいやいや!だって別れて一年だよ?それはもうないって!思い出も美化されるって言うしさ!ね、未練があるだけ!過去にしがみつきたいだけだよ。まだ好きなんてこと、ありえない……。」

 なんだか怖くなって、目の前にあるカップを包み込むように持ち、俯く。亮ちゃんからの返答はなく、恐る恐る顔を上げてみると彼はじっと私を見つめていた。

「じゃあ、その新しいアプリの人と付き合いなよ?」

「……で、でも、まだ好きかわからないし。だからこうして亮ちゃんに相談してるわけで」

「で?そのアプリの人の職業、言ってみ?」

「え?どうして?さっきも言ったよ」

「再確認で。ほら、ちゃんと言って」

「……弁護士、です」

「……。」

「た、たまたまだよ!?」

「……もういい加減、素直になりなって」

 深く溜め息を吐かれてしまう。

 素直……。大晴は、私の素直なところが好きだって言っていたな。

「本当は、どうしたいの?菜乃花」

 ——本当は。

「でも、一方的に別れを告げられて、私それが許せなくて。話し合いもできない人と復縁するわけにはいかないよ」

 強く、はっきりと言葉にする。それは亮ちゃんではなく、自分に言い聞かせるために。

「じゃあ、許せないって、こんなにも辛い思いをしたんだって、会って大晴くんに伝えてきなよ」

「や、やだよ!そんなのできない!だってもう一年も会ってないんだよ!?」

「だって菜乃花、前よりも綺麗になった」

「え?」

「今のその姿を見たら、惜しいことしたって絶対思うよ。復讐的な?そういう気持ちで会ってもいいんじゃない?」

「亮ちゃんは身内だし、なんでも褒めてくれるから……。ありがとう。でも、会ってくれるかな、大晴……や、でも、弁護士で、しかも、あんなにかっこいいんだよ?もう彼女の一人や二人……。」

 と、なんだか想像しそうになって、口を噤んだ。亮ちゃんは「全く世話のやける……。」と呟いてコーラを飲み込んだ。

 沈黙が流れ、私は、大晴の柔らかく笑う顔をふと思い出して、気持ちを整理するために口を開く。

「あのね、亮ちゃん、」

「うん?」

「お弁当が上手くできた時もね、友達の結婚式で可愛いドレスを着て髪をセットしてもらった時もね、痩せられた時も、仕事をやめようって決心した時も、本当は、全部ね、大晴に言いたかったの」

「……うん、」

「前に大晴とね、恋とか愛の話になった時があってね、違いってなんだろうって話したの。そしたら大晴が『恋は好きとか一緒にいたいとか自分の欲望だけだけど、愛は相手のことを想って不安や不満もあるだろうけど、お互いの違いも含めて好きだよってことだよ。だから恋と愛は共存するんだよ』って言っててね、だから私も言ったの。『恋は自分一人だけでもできるものだけど、愛は二人いないとできないね』って。そしたら、大晴、笑ってた。その通りだね、すごいね、って。だから私ね、大晴が幸せなら、それでいいんだ。十分なんだ。私じゃない他の誰かのことが好きだったとしても幸せなら、それでいいんだ」

「……馬鹿じゃん」

 亮ちゃんが瞳を揺らして、辛そうに顔を歪める。

 そういえば、大晴も「馬鹿じゃん」って言ったことあったな、と思い出す。あれは多分、仕事の愚痴を吐いていた時だ。

「……私が会いたいってメッセージ送ったら、大晴、どう思うかな。嫌じゃないかな。心を、乱さないかな。って、私にそんな影響力ないかな?どうだろ、亮ちゃ、」

 亮ちゃんの顔を見て、私は止まってしまった。

「……俺、なんか彼女に会いたくなったわ」

 亮ちゃんは、無理矢理に笑って、テーブルごしに私の頭を強く撫でた。ぐりぐり、撫でた。

「菜乃花さあ、相手のこと考えすぎ。たまには我が儘になりなよ。そんだけ可愛いんだから、大丈夫。絶対会ってくれるよ。会ってくれなかったら俺がぶっ飛ばすから」

「……うん、」

 亮ちゃんの表情を見ていたらなんだか泣きそうになってきて、俯いた。

 

 

 その日の夜、私は大晴に久しぶりにメッセージを送った。

『久しぶり。急にごめんね。よかったら仕事の息抜きにご飯でも食べに行きませんか?』

 返事は思いのほか早く、『久しぶり。誘ってくれて嬉しいよ、ありがとう。金曜日の夜とかどう?』と来た。

 ドキドキ、鼓動はずっと激しく鳴っていた。

 会うことにはなったものの、これでもし、好きだなあってなっちゃったら、どうしたらいいんだろう。

 今の私は、大晴のこと、好き?まだ、好きなのかな。亮ちゃんは「まだ好きってことだよ」って言っていたけれど。

 私は紙に書き出してみることにした。ネットに書いてあったからだ。紙に書くと冷静になれるから頭の中が整理されます、って。

 嫌いなところを箇条書きにしていくと、こんな人だったんだ、次の人を探そうってなることもあるらしい。だから実践してみることにした。

「嫌いなところ」

・論理的で口論になると勝てない

・一言余計なところがある

・一方的に別れを告げてきて話し合いもさせてもらえなかった

 マルポチをペンでぐりぐりする。あとは……と考える。

 思いつかなくて、「好きなところ」と隣に書いてみる。

・私のことを大切にしてくれる

 そう書いて、二重線を引いた。大切にしてくれていたら、別れないよな、と思ったから。

・笑い方が好き

・菜乃花って呼んでくれる声が好き

・スーツ姿が好き

・好きだよって気持ちをよく伝えてくれるところが好き

・私の好きなお酒を準備してくれるところが好き

・時間を作って会おうとしてくれたところが、

 途中でペンが止まる。本当に全く会えなくなる前に、大晴は私と別れた。それは、愛だった?

 書き出してみたものの、結局よく分からなくて、私はノートを閉じた。



 私と大晴は、前に柚ちゃん達と食べに行ったパスタ屋さんが移転オープンしたとのことで、そこに行ってみることにした。

 緊張で心臓がどうにかなりそうになりながらお店の駐車場に車を停めると、大晴らしき人がお店の入り口に立っているのが見えた。

 慌てて近づいてみると、やっぱり大晴で、久しぶりに見た彼はなんだか遠い人のように思えた。

「久しぶり、菜乃花」

 だから、見たことのある綻んだ表情を見ると、なんだか安心した。

「待たせちゃってごめんね。中入ろう」

 懐かしい香水の香りがして、胸が締めつけられる。

一年分、私の知らない大晴なんだなあ……。

「ここね、パスタが美味しくてね、大晴と——」

 来たいと思ってたんだ。と言いかけて、ハッとして唇を閉じた。急に言葉を止めた私を、大晴はメニューから顔を上げて「ん?」と不思議そうな顔をして見つめている。

「ううん、なんでもない」

 と、私は曖昧に笑った。そんなこと、言えないや。

「今日は会ってくれてありがとう。急に誘ってごめんね」

「いや、俺も会えて嬉しいよ」

 よかった、と胸を撫で下ろす。

 久しぶりに見た大晴のスーツ姿はやっぱりかっこよくて、その落ち着いた声もずっと聞いていたくなって、笑った顔を見ると嬉しくなった。

「最近はお仕事、いそが——」

 忙しい?と聞こうとして、また口を急いで閉じた。

私は、前に「仕事が落ち着いたら私とのこと、考えてほしいな」とメッセージを送ってしまっているんだった。

 これだと圧をかけているみたいになってしまう。

 大晴がまた不思議そうな顔をして私を見た気配を感じて、慌てて首を横に振る。

「ううん、なんでもない」

「仕事は回転率が前よりも上がってきたよ」

 ふっと笑って、大晴が答えてくれる。ちらりと私を見て、大丈夫だよ、とでも言いたげに。

 お見通しなのかな、と一気に顔が熱くなる。恥ずかしい。

「菜乃花は?仕事どう?」

「あ、私ね、今、図書館で働いてるの。やっぱり好きな物に囲まれてお仕事がしたいなって思って」

「そっか。本、好きだもんね」

 うん、と頷いて笑った。大晴に転職できたことが言えて嬉しくなる。

 パスタが運ばれてきて、一緒にご飯を食べて「美味しいね」って言い合えたことさえ嬉しくて、幸せで、でもちょっとだけ切なかった。

「お手洗い、行ってくるね」

「ん、行ってらっしゃい」

 ハンカチを持って、お手洗いへ向かう。トイレに入って、その場にしゃがみ込んだ。

 ——ああ、駄目だ。

眉間に皺が寄ってしまう。

 ——亮ちゃん、私、やっぱり大晴のことが好きみたい。

 本当は、会ったらきっとこうなってしまうって、わかっていた。

 私、やっぱり大晴のこと、好きでいちゃ駄目かな?嫌いなところよりも好きなところの方が多かったから、好きでいてもいいかな。一年間も忘れられなかったんだから、まだ好きでいてもいいのかな?

 好きでいてもいい理由を探して、誰かにそれでもいいよって言ってほしかったんだ。

 出会った頃、私に連絡先を聞いてくれた真っ直ぐな大晴を思い出す。

 駆け引きなんてしないで、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた大晴に、今度は私が、誠実に、真っ直ぐに、気持ちを伝えたい。

 受け止めてもらえなかった気持ちは、亮ちゃんに供養してもらおう。

 運命の人も、結婚相手とやらも、本当は、全部、大晴がよかった。少なくとも今の私は、そう思っている。本当の気持ちだ。

 そう決心を固めて、席へ戻ろうとして。大晴の背中が見えて、少しだけ見つめてしまった。

 心の底から好きになった人が私のことを愛してくれなくても、私は愛すことができる。相手の幸せを願うことができる。そういう愛し方も、あるよね。

「お待たせ」

「ん、そろそろ帰る?」

 大晴が腕時計に目を落とす。時刻は21時過ぎ。

「あ、え、っと……。」

 ここは人が多いから、できたらもう少し静かな場所で話したいな、と思った。

「少しだけ、外で話しても大丈夫?」

「ん?大丈夫だよ。じゃあ、そこらへん、ちょっと散歩する?」

「うん、ありがとう」

 気持ちを伝えるのって、すごく怖い。大晴も、私に告白してくれた時、怖かったのかな。

「あ、お金、払うよ」

「いいよ。付き合ってた時も払わせたことなかったでしょ」

「で、でも!」

「ね、いいから」

 お会計は大晴が済ませてくれた。付き合っていた時も外食のお金は全て払ってくれていた。払うよ、と言うものの、「いいの、甘えてて」と言ってくれる。

 もう付き合ってないんだよ、と言いかけてやめた。代わりに「ありがとう。ご馳走様」と伝えると大晴は「どういたしまして」と私の髪に触れそうになって、直前で止まった。

「……ご、めん。つい」

「う、ううん、大丈夫」

 息が止まりそうだった。ドキドキと鼓動は速くなる一方だ。

 外に出ると、暖かい春の匂いを近くに感じた。春が近くなって、夜でも過ごしやすい。

 夜道は静かで、周りには誰もいないようだった。二人の歩く音や息遣いが鮮明に聞こえてくる。

「……今日ね、」

「ん?」

 隣を歩く大晴が私の方を見る気配を感じた。でも、顔が見れない。私は自分のパンプスのつま先を見つめて、言葉を続ける。

「会ってくれて、嬉しかったの。ありがとう」

「俺の方こそ。あんな酷い別れ方をしたのに、また会ってもらえると思ってなかったから、嬉しかったよ。ありがとうね」

 ふるふると首を横に振る。酷い別れ方、だったんだ。

「私ね、この一年、ずっと大晴のこと大嫌いだって思って忘れたくて、全部無かったことにしたかったの!」

 ふっと顔を上げて、真っ直ぐに伸びる道の先を見つめる。街灯が雨上がりの夜道を照らしていた。

「あんな別れ方をしたんだから当然だよ。本当にごめんね」

「でもね、でも……」

 あれ、おかしいな。言葉が続かない。伝えたい言葉はあるのに、声が、震えてしまう。

 今まで大晴の前で私が泣いたことは一度もない。だから、泣きたくないのに。

「……っ、ごめっ、」

「菜乃花、」

 ずっとその声で呼ばれたかった。声を聞いた瞬間、堰を切ったように涙が溢れてくる。

「ゆっくりでいいから。菜乃花」

「……ごめ、ん。大晴、」

 もう彼氏じゃない大晴に慰められるわけにはいかない。私は俯いたまま大晴と二歩分、距離を取ってバッグの中のハンカチを探す。

「……っ、泣く、つもりは、なかったの。困らせちゃって、ごめんね」

 ずっ、と鼻水を啜りながら乱暴にハンカチで目を拭くと、大晴に腕を掴まれた。

 驚いて顔を上げそうになってしまい、急いで顔を逸らした。泣き顔なんて見られたくない。

「もっと優しく拭かないと」

 大晴は私からハンカチをそっと取ると、私の顔に当てようとするものだから、急いでまた距離を取った。

「や、やだっ!泣き顔、見られたくない!」

「なんで駄目なの?ほら、こっち来て」

 手を引かれて、固まってしまう。熱が伝わってきて、私は思わず大晴の方を向いてしまった。目が、交じり合う。

「泣き顔も、可愛いね」

 なんて、寂しそうに笑うから。

 ねえ、大晴、私じゃ、駄目かなぁ……。彼女になるの、私じゃ、駄目、かな?

 ひっく、と嗚咽が溢れて、「うー」と声を出して俯く。また涙が出てきた。

 弱くて、情けなくて、ちっぽけだ。

 空白が流れて、私は、一度唇に力を入れてから力を抜いて、伝えようと口を開く。

「……たい、せい、わ、私のこと、もう一度、振って。お願いっ。じゃないと、進めないの……あ、朝、起きると、大晴のこと、思い出しちゃうの。帰る時は、ね、まだお仕事、してるかな、とか、思っちゃっ、うの」

「……うん」

 私の手を握っている大晴の手が少しだけ強くなる。

「私がいる、とね、きっと、邪魔だから、だか、ら別れたのも、ちゃんとわかってて。だからね、私、他の人、をね、好きになろうと、思っ、たの。でも、思い出しちゃうのは、大晴のこと、ばかりでね、だからね、今日も、下心だけで、会っちゃったの」

「……うん、」

 大晴はしゃがんで、私を下から見上げている。溢れる涙を手で拭おうとする私を止めて、ハンカチで拭いてくれる。

「あんな、別れ方、したしね、っ、自分のためにも、って、思って、何度も、何度も、忘れようとしたの。でも、駄目で。だ、だからね、今日ね、気持ちを、ちゃんと、真っ直ぐ、伝えようと、思ったの」

「……うん、菜乃花、」

 ひっく、と声が漏れてしまう。もっと凛として大晴に伝えたかったのに。

 涙でぐちゃぐちゃで、情けない。こんなはずじゃなかったのにな。

「……菜乃花、ありがとう。伝えてくれて」

「ま、まだっ!まだ、伝えきれて、ない……。」

 大晴の顔が涙でぼんやりとしてしまう。

 まだ、大事なこと、言ってない。ぎゅっと、大晴の手を握り返して、私は目を強く瞑って開けた。溜まっていた涙が、ポタリと落ちていく。

 真っ直ぐに大晴を見つめて。

「大晴、大好き」

 言い終えて、私は力を無くした。手も、もう離してほしかった。顔を見ていられなくなって、逃げ出したくて、たまらなくて、自分の弱さに目を瞑ってしまいたくなった。

「……っ、」

 けれど、次の瞬間には、大晴の匂いに包まれていた。抱きしめられている、と理解するまでには相当な時間を要した。泣いているせいで、頭がぼうっとして、思考が上手く回らない。

「……なんでこんなに、綺麗になってんの」

「……大晴?」

「……てっきり、他に好きな人ができたんだと思ってた」

「そ、そんなわけ、ないよ。わ、私が好きなのはっ」

 頭に手を置かれて、撫でられる。久しぶりのそれに、言葉が止まった。

「……愛してる」

「……え?」

 大晴が私を抱きしめる力が強くなる。苦しそうで消えてしまいそうなその声はちゃんと私に届いた。驚いて声が出なくて、泣き止みたいのに、涙は止まらなくて。

「寂しい思いをさせると思った。それに自分のことで精一杯で、迷惑をかけると思った。大切にできていない自分に嫌気がさして、菜乃花のこと、手放した」

「……ん、」

「他の誰かと幸せになっているのならそれでもいいって思ってた。だから今日も元気そうな姿を見れて、安心した。これ以上、菜乃花を傷つけた俺が何かを望むなんていけないことだと、思った」

「……う、」

 大晴の胸に顔を埋めて、落ち着こうと息を吐き出す。

「……何度も、夢みてた。大晴が、私の名前呼んで、笑ってくれるの。私、大晴が笑ってくれると、嬉しいんだ」

「……菜乃花、」

 少しだけ体を離して、大晴が名前を呼んでくれた。おでこをくっつけて、そのまま、ゆっくり唇が重なる。

「もう一度、俺にチャンスをくれない?」

 ちゅ、と離れると、大晴は明瞭な声でそう言った。チャンス?と、顔を上げると、優しいあの目をして、私を見つめている。

「今度こそ、大切に、するから。もう一度だけ、俺の彼女に、なってくれませんか」

 好きな人が、自分のことを好きでいてくれる。それが嬉しくて、大切で、どうしようもなく愛おしくて。

「わ、私、もっ、せい、いっぱい、頑張る」

「なんで菜乃花が頑張るの。もういっぱい頑張ってくれてるのに」

 また涙がボロボロこぼれてしまうと、大晴が背中をさすってくれた。

 自分の気持ちを伝えることは、こんなにも怖い。

 けれど、伝えたいと思える人がいること、伝えたいと思える気持ちがあること、それってすごく尊いことだ。

 大人だから、我慢することだって、飲み込んでしまう気持ちだっていくつもあるけれど、私達には言葉があって、声があって、気持ちを伝える手段をいくつも持っている。

 そして、その機会はいつだって与えられているはずだということも本当はわかっているはずだ。

 本当は——の後に続く気持ちを大事に、後悔のないように、大切な人に気持ちを伝えたい。

 だから私は、これからも大晴にいっぱい、素直な気持ちを伝えていくんだ。


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