ここのつ。運命の人なんていない
彼は、
『連絡先、ありがとうございました。良い結婚式でしたね』
「こちらこそありがとうございました。幸せそうで良い結婚式でした。元彼のことではご迷惑をおかけしてしまって、ごめんなさい」
『体調も悪そうだったからよく休んでね。もし執拗に連絡があるようだったら、何か力になれることもあるかもしれないから遠慮なく言ってください』
吉岡さんのメッセージには絵文字が思いの外つけられていて、なんだか可愛いなと思ってしまった。
吉岡さんには秋のことで心配してもらったけれど、あれから連絡がくるわけでもなく、秋にはきっともう未練なんてなかったんだ。「もしかしたら」なんて思ってしまった自分が恥ずかしい。
秋が好きだった。本当に、大好きだった。
でも、だからこそやり直せない。その気持ちは揺らがない、はずだ。
『今度、ご飯でもどうですか?』
吉岡さんってストレートな男性なんだな、と感心してしまう。まわりくどい言い方なんてしない。真っ直ぐに伝えてきてくれる。
「行きたいです。楽しみにしてます」
吉岡さんと会う日程はすぐに決まり、仕事帰りに会って一緒にご飯を食べることになった。
吉岡さんは私に気があるのかな?どうなんだろう。
吉岡さんの私を真っ直ぐに見つめる黒目勝ちな目を思い出して、なんだか嬉しくなってしまう。ざわついていた気持ちが鎮まり、溶けていくようだった。
「菜乃花ちゃん、お疲れ様」
「大晴くん!お疲れ様です」
お店の前で待ち合わせをして、一緒に店内へ入った。個室だから話しやすいよね、ということで此処になった。
メッセージのやりとりの中でいつの間にか下の名前でお互いを呼び合うようになっていた。大晴くんは年上だけれど、思いのほか話しやすく、同級生と話している感覚に近い。
久しぶりに会った大晴くんはスーツを着こなして、髪は結婚式の時よりもきっちりと整えられていた。あの時はコンタクトだったのに今日は眼鏡をかけている。
「今日は眼鏡なんだね」
「いつもだよ。この方が老けて見えるから」
「え?老けて見せたいの?」
「若いと依頼者さんに舐められることが多いから、老けて見られたいかな」
大晴くんが表情を崩して笑う。弁護士という職業の人と話すのが初めてで、色々聞いてみたいな、とメニューを開きながら思った。
「スパゲティーグラタンにするね」
と、大晴くんが先にメニューを指差す。
「パスタ好きなの?」
「うん、好き。スパゲティーグラタンがすごく好きで、あると頼んじゃう」
「じゃあ私はたらこのクリームパスタにする」
「飲み物は?」
「アイスティーにする。大晴くんは?」
「いつもコーヒーを飲んでいるから、コーヒーに」
「え、でも夜だよ?飲んだら眠れなくなっちゃわない?」
「んー、でもいつも夜も飲んで寝てるから、そんなに気にしたことがないな」
店員さんを呼んで注文を済ませた後も大晴くんといろんな話をした。楽しくて、時間はすぐに過ぎていった。
「駐車場まで送らせて」
こういうことをさらりと出来る男性って素敵だ。
大晴くんとは駅の近くで食事をしたため、立体駐車場まで私を送ってくれることになった。
「駅前ってこんなに綺麗だったんだね」
「もうそういう時期か」
イルミネーションがキラキラと光っている。吐く息は白く、高く遠くの夜空へと消えていった。
大晴くんと一緒にいると楽しくてもっと一緒にいたいと思ってしまう。歩くスピードはどんどん落ちていき、そのたびに大晴くんは私のペースに合わせて歩いてくれた。
「寒いから早く車乗りな?」
駐車場に着いてしまうと、大晴くんは私を車へ乗るように促した。
紳士的なその行為が寂しくて、でも留まる理由もなくて、私は大晴くんを見つめてしまう。
「ん?」
どうしたの、と首を傾ける大晴くん。
「こ、今度は私が大晴くんを駐車場まで送って行く!」
「え?」
行こう、と歩き始めた後ろで大晴くんが笑っているのが聞こえてきた。一緒にいたいって思っているの、きっとバレバレだ。
「危ないから、俺が停めてる駐車場まで行ったら帰り送るね」
「え?それじゃあ、私が大晴くんを送って行く意味ないよ」
と、顔を見合わせて笑う。一緒にいるといつの間にか笑っていて、明るい気持ちになった。
「綺麗だね」
低く落ち着いた声が空気を微かに揺らす。大晴くんを見上げると、彼はイルミネーションを見つめていた。
その横顔が柔らかくて、「綺麗だね」と大晴くんの言葉を声でなぞって、私もイルミネーションを見上げた。街灯の暖色とは裏腹に白や水色に光るイルミネーションはくっきりと存在感を表し、煌びやかだった。
「この立体駐車場に停めたんだ」
「何階?」
駐車場に着き、大晴くんと一緒にエレベーターに乗った。ボタンを押そうとするが、返答がなく不思議に思って彼を見ると、渋い顔をして小さく唸っていた。
「実は、ギリギリまで仕事をしていて待ち合わせに遅れそうだったから空いているところに適当に駐車して、走って行ったからよく覚えてなくて……。」
「え?そんな素振り全然なかったのに」
大晴くんは恥ずかしいのか私と目を合わせてくれず「バカだよね」と苦笑いを浮かべていた。時間通りスマートに現れた彼がまさかそんなに急いでいたなんて、全くわからなかった。
「そんなに必死になってくれるの、嬉しいな。ありがとう」
大晴くんが可愛くて、ふふっと笑みがこぼれる。その行動は私との待ち合わせを大切に思ってくれていたからこそのものだ。嬉しくて心が温かくなる。
「じゃあ、一階から探していこう?」
それに探していく時間分、まだ一緒にいられることがこんなにも嬉しい。
けれど、私の言葉を聞いた大晴くんは目を丸くして、勢いよく首を横に振った。
「それは悪いからいいよ!菜乃花ちゃんを送って行った後に自分で探すから大丈夫!」
私はエレベーターの「開く」を押して、自分の指先を見つめながら。
「でも、もう少しだけ一緒にいたいな」
それは自然と口から出た自分の気持ちそのものだった。大晴くんには何故か素直に気持ちを伝えやすくて、心の中でぐるぐる考えるよりも先に言葉になる。
「それは俺もだけど、歩かせちゃうの悪いな」
「行こう?」
私がエレベーターから降りると大晴くんも降りて、「んーそうだね」と渋々承諾してくれた。
「疲れたら言ってね。すぐ送るから」
「ありがとう」
気遣ってくれることが嬉しくて、頷きながら笑みがこぼれる。
一階から順番に見ていく最中、「もっと上がった気がするから五階とかかも」と言っていたけれど結局、車は三階にあった。
「一緒に見つけてくれてありがとうね」
「ううん、全然。見つかってよかった」
「あ、そうだ」
大晴くんは何かを思い出したかのように車を開けて。
「これ、俺の名刺。よかったらどうぞ」
「え!ありがとう」
名刺には勤めている弁護士事務所や部署が載っていた。
「そういえば弁護士バッジは付けてないの?」
小首を傾けながら聞くと「あ、それはね、」と言いながら大晴くんはまた車のドアを開ける。
「プライベートの時は付けないようにしてるからだね。でも、ちゃんと持ってるよ」
「え、さわ、触っていいの?」
「……ふっ、触っていいんだよ」
バッジを差し出されて慌てて手のひらを出すと、コロン、と置かれる。
「わあ、本当に天秤があるんだね。見せてくれてありがとう」
弁護士バッジなんて触る機会がなかったから持っていることが恐れ多くてすぐに返すと、大晴くんは「どういたしまして」と笑った。
「じゃあ、菜乃花ちゃん、また送るね」
「……ありがとう」
悪いから大丈夫だよ、とも言おうと思ったけれど、あともう少し一緒にいたいから言葉を飲み込んで甘えてしまう。
隣を歩く大晴くんの温かさを感じながら、誠実だなあ、としみじみ思った。指一本触れてこないし、行動から私のことを大切に思ってくれていることがわかる。
秋は付き合う前に触れたし、キスだって……。
秋と初めて会った日も寒い日で、秋は私の背中に触れて「寒いから早く車に入りな?」って。懐かしいな。
過去は思い出になって、ふわふわと私の中に現れる。悲しさも辛さもそこにはなかった。
「……ん?」
大晴くんが私の視線に気づいて、優しい目でこちらを見た。
私の中に、ぽつり、と現れる横しまな気持ち。
——触れたいな。
「大晴くん、あのね、」
「ん?」
「また、会えるかな?」
流石に「触れたい」は言えなかった。なんで私の方が男の人みたいな気持ちになっているんだろう。
「また会いたいね。今週の土日は菜乃花ちゃん、空いてる?」
「うん!空いてるよ」
「じゃあ土曜日、どこか一緒に行こっか」
大晴くんが笑って、私も頷いて笑った。約束はこんなにも嬉しい。
と、浮かれていた最中、寒さで足が冷えたのか、ピキッと固まる感じがした。
「……っ、」
ああ、まずい、攣りそう。
駐車場はあと少しなのに。もう少しだけもって!と願うものの、タイミングはどこまでも悪い。
「いっ……た」
「菜乃花ちゃん!?」
なんとふくらはぎが両方攣ってしまい、その場にしゃがみ込んでしまった。痛くて立っていられない。
「ご、ごめん、大晴くん、足が攣っちゃって」
「大丈夫?長時間、寒い思いさせちゃったから。ごめん」
大晴くんは一緒にしゃがみ込んで背中をさすってくれた。
これじゃあ大晴くんが酔っ払いを介抱しているみたいだ。一緒に恥ずかしい思いをさせてしまって申し訳ない。
でも、痛くてすぐには立てそうになかった。
さすってくれる手が温かくて安心する。
「ごめんね、こんな……。」
「ゆっくりで大丈夫だからね」
「……ありがとう」
しばらくすると少しだけマシになって、私はよろよろと立ち上がろうとしてみる。
「よかったら掴まって」
大晴くんが手を差し出してくれた。そっと手をのせると、握ってくれる。
「あ、大丈夫、かも」
まだ変な感覚はあるけれど、歩けそうだった。ゆっくり歩き出すと、大晴くんが手を握ったまま支えてくれる。
触れたい、と思って結果的には触れられたけれど、下心みたいだな、と思っていた。まるで私の方が男の人の思考みたいになっていて恥ずかしくなってくる。
「よくあっためるんだよ?」
「ごめんね、ありがとう」
車まで送ってくれると、大晴くんはやっぱり心配そうな顔して早く車に乗るように促した。
「帰ったら連絡して。心配だから」
「わかった。今日、ありがとう」
「ん。また土曜日にね」
ばいばい、と言って手を振り合った。大晴くんの表情は最後まで優しかった。
始まりは、いつだって思う。どうかこの恋が続きますように、って。
「あの日、足が攣ったの、いい思い出になったね」
「あれ恥ずかしかったけど、確かにいい思い出になったね」
大晴のアパートで紅茶とコーヒーを淹れながら笑い合う。はい、とコーヒーを渡すと「ありがとう」と言って大晴は一口コーヒーを飲んだ。
「あと、土曜日にさ、菜乃花、この間のお礼がしたいから俺の家で料理したいって言ったでしょ?あれは驚いた」
「え!でも、快くいいよって言ってくれたのに?」
「そりゃ、好きな人が家に来たいって言ってくれたんだから承諾するでしょ」
「だって、もっと近づきたかったから……。」
ルイボスティーを飲んで、むっと唇を突き出してみる。
土曜日、秋とはできなかった昼間のデートを大晴とした。二人で有名な神社に行ってお参りをして、その後に私が「介抱してくれたお礼がしたい」と言って大晴の家で料理を振る舞う事になったのだ。
下心ありありの私は大晴の家に行ったわけだけれど。
「でも、あの時の大晴、全然触れてこないんだもん、びっくりした」
「何言ってんの。付き合う前に触れないでしょ、普通。本気なら尚更」
「私はずっと触れたいなって思ってた。下心ばっかりだったもん」
ふはっと大晴が笑う。彼はカップをテーブルに置いて隣に座る私に「おいで」と手を広げた。
「でも、告白した後、キスしたでしょ?」
ん?と私を覗き込んで同意を求める目をするから、ちゅ、と私からキスをして「でも、軽いキスばかりだった」と対抗してみる。
大晴はこのソファーで「菜乃花ちゃん、好き。付き合ってくれませんか?」と告白してくれた。「よろしくお願いします」と言って、私は大晴の彼女になった。
「不服でしたか?」
「……不服でした」
今度は大晴がキスを落とす。唇が離されて、私が渋い顔を見せると、顔をそむけて、ふっと笑う。
「さっき軽いキスは不服って言ったのに。わかってやってるでしょ、狡い」
もうひとつ軽いキスを落としてから、拗ねている私を大晴は抱き寄せ、耳元に唇を近づける、と。
「ベッド、連れてっていい?」
甘さを含んだ声でそう囁かれ、思わず大晴のシャツを握ってしまう。
いいよ、と頷くと、大晴はベッドに私を連れて行き、いくつもキスを落とした。
「菜乃花、好き……好き、」
触れるだけのキスの隙間、「好き」と何度も伝えてくれる。
ああ、幸せだな、と思いながら大晴の背中に手をまわして「私も大好きだよ」とキスをする。
足りない、と思って「もっと」とキスの合間、ねだってしまうと「ん」と大晴は小さく声を出して首肯した。そうして、やっと深いキスに変わる。
自分でも驚くほどに、大晴には自分の気持ちを素直に伝えられた。思ったことを素直に伝えていればすれ違わないんじゃないか、とも思って。
でも一番大きいのは大晴なら私のことを受け入れてくれるだろうって信頼しているからこそ、伝えられるところが大きいのだと思う。
——大晴、キスしたい。
「ん?何?」
愛されて全部が、意識さえ溶けそうになる最中、手を伸ばして伝えようとするけれど、上手く伝わらない。伝える余裕がなくなって、シーツを握って耐えようとするけれど、声が漏れてしまう。
「何、なんて言ったの?」
なんて、大晴は余裕たっぷりの声で私に聞いてくる。けれど行為はやめず、大晴のことでいっぱいになる私を見つめていた。
「ん、キス、したいっ」
もう一度伝えると、今度はちゃんと伝わったらしく、大晴が、ちゅ、と音をたててキスをしてくれた。
愛されていることがわかるのは、こんなにも心が安定するものなのか、と私は大晴の彼女になって気がついた。
不安も辛さも、占いも、ネットの「彼を虜にする方法」なんて情報も、何もいらない恋愛。ただただ毎日が幸せで、大晴と過ごした時を思い出すだけで笑みがこぼれるような、そんな幸せ。安心安全な恋愛は、私自身を大切にできる恋愛だった。
「菜乃花、お酒買っておいたよ。好きだって言ってたやつ」
「え!覚えててくれたの!ありがとう!私もケーキ買ってきたの。夕ご飯の後に食べよ」
「え、俺もケーキ買ってきちゃった。コンビニのだけど」
「えっ!そうなの?じゃあ、いっぱい食べられるね」
そういうお互いのことを思ってすることも、嬉しいがいっぱいで。
——だから、私は忘れていた。
『明日、お泊まりしてもいい?』
『ごめん、ちょっと忙しくて。明後日なら』
メッセージのやりとりや、会う時間が減っていく、そういうことの警戒を怠っていた。
大晴と会う時間が減っていったのは付き合ってから4ヵ月ほど経ってからだった。
「……菜乃花、ごめん、国選弁護が始まって案件数がどんどん増えていて。家でも仕事しないと追いつかないんだ」
「忙しくて大変だよね。頑張って……。でも、寂しい」
秋との時と違ったのは、寂しさを伝えてしまったということ。
「少しだけでも会いたい。だめ?」
会いたい時に「会いたい」って言ってしまったこと。
私が我が儘になりすぎてしまったから、だめだったのかな。
『菜乃花、ごめん。付き合っていくのが大変で別れたいって思ってる。』
リン、と通知を知らせたスマホのメッセージは唐突すぎるものだった。信じられなくて、暫くその言葉を眺めていた。
『電話とか、会ってから言うと驚かせちゃうと思うから先にメッセージで伝えようと思って。今だけ忙しいだけかもって思ったりもしたけど忙しくなくなる兆しがないし、何より菜乃花の時間を奪っちゃうのが申し訳ない。本当にごめん』
ああ、また忙しさに負けるんだ。
私の心は妙に落ち着いていた。しょうがない。仕事は生きていく上で大切だし。
またか、という思いが強いから、受け入れるのも早いのかもしれない。
『私こそ会いたいって圧をかけちゃってたかもしれない。ごめんね。明日、少しでいいから時間取れる?』
『菜乃花が謝ることは何もないよ。俺の自分勝手さからだから。ごめんね。時間取れるよ。何時がいい?』
明日の約束を取り付けて、私はぼんやり考えていた。
最後に会ったのは、抱きしめられたのは、キスをしたのは、いつだったか。
今回の恋は、心の準備を全くしていなかった。別れる準備だ。
秋との時は必要以上に不安がって、いつも別れに怯えていたのに。
幸せボケしていたんだ。思ったことを素直に言えて、一緒に過ごす時間が楽で、落ち着けて。当たり前のように、このまま結婚するんだろうなって思っていた。
「来てくれてありがとう。入りな」
明日は今日となり、私は二週間ぶりに大晴の顔を見た。でもいつもと変わらなくて、このまま続いていくんじゃないかって錯覚してしまいそうになる。
「メッセージ、びっくりしたよ」
ヘらり、と笑ってしまう。
「ごめん。急に送って」
ううん、と言おうとしたけれど声が出なくて、私は首を横に振った。
いつものようにソファーに座ると、「ちょっと待ってて」と大晴がお茶を出してくれた。
「あ、そうだ、俺の友達の康太(こうた)、彼女と結婚するんだって」
「え?確かまだ付き合って三ヵ月くらいじゃなかったっけ?」
「そうなんだけど、本気なんだって」
康太くんは大晴の幼馴染みで、話によく出てくる人だった。
「よかったね。年上の人だっけ」
「そう。明るい人だって。ちょっと派手めなところも康太のタイプみたい」
「おめでとうだね。嬉しいね」
私たちは別れるのに、友達は結婚するなんて、すごい対比だね。
なんて皮肉は心の奥でぐちゃぐちゃに黒く塗られていく。
『本気なんだって』も、ああ、大晴は私とのこと本気じゃなかったんだね、って、黒く、塗り潰す。
「……私達のこと、話そう?」
小さくそう言った。他の人の幸せを心の底から祝える気力が、今の私にはなかった。
「……そうだね。ごめん」
お茶の味はよくわからなかった。
私は大晴を説得できるだろうか。
隣に座る大晴との距離は近いのに、こんなにも遠い。触れられない。
「私はね、忙しくても好きだから一緒にいたい」
「でも、全然会えないし、寂しい思いをさせるから」
大晴は私を見なかった。俯いたまま。
「でも、別れたらもう一生会えないんだよ」
「でも、いつ忙しくなくなるのかわからないんだよ。菜乃花、婚期を逃したらどうするの」
その言葉に、唇がグッと閉じられた。驚いた。大晴も秋と同じように「もっと良い人がいるよ」って言うつもりだろうか。それってつまり私との結婚は考えてないってことだ。
そうわかって、悲しさに胸が重くなる。私だけが真剣に考えていただけだった。
「忙しくない人と付き合って幸せになってほしいんだよ。前の恋愛だって忙しい人と付き合って大変だったでしょ」
「でも、好きになった人が忙しくなったのなら、それに適応していかなきゃって思うよ……一緒にいたい」
「——。」
「でも」がいっぱいだ。もう大晴の未来に私はいないのかな。
沈黙が流れる中、部屋の棚の上——私は気づいてしまった。ペアリングが入っていたケースがなくなっていることに。
ああ、もう大晴の中では私とは別れているってことなんだ。
「……私のどこが駄目だった?」
「駄目なところなんてどこもないよ」
「……私のこと嫌いになったの?」
「嫌いになんてなってない。好きだよ。でも、自分のことでいっぱいいっぱいで。ごめん」
「好きならどうして別れるの?意味、わかんないよ」
「今は仕事に集中したいんだよ。自分のことで精一杯だから、付き合っていくのが大変で。菜乃花のことを思って別れるんじゃなくて、自分のために別れるんだよ」
その言い方は狡い。別れる以外の選択肢が見つからなくなる。
「……別れたくないよ」
「俺が別れたいって言ってるのに、菜乃花が別れたくないって言って、もしこのまま付き合い続けたとして、それって付き合ってるって本当に言える?」
言葉に、傷つけられる。
勝てない、とも思った。
それと同時に、もう大晴の中での別れは決まっていることなんだと悟った。
これは話し合いなんかじゃない。決まっていることに私が頷くまで説得させられる時間だ。
「……。」
言葉が出なくなった。何を言えば良いのか、何を伝えればいいのか、わからなかった。
付き合いたての頃、「一ヵ月も会えないなんて付き合ってる意味あんまりないよね」と大晴は言った。「忙しくても一週間に一回くらいは会いたいよね」って。
じゃあ、どうして私と付き合ったの?
——言葉が出ない。
涙も、出ない。心の内側は恐ろしいほど静かだった。
「そんなに別れたい?」
絞り出して出た言葉の答えは決まっているはずなのに。
「別れたい。ごめん……。」
「……そっか。わかったよ」
頷くしかなくて、私は、どうにもならないことなんだな、と必死で自分を納得させようとしていた。そうするしかなかった。
「じゃあ、帰るね。忙しいのに時間取ってくれてありがとう」
「……ごめん。気をつけて帰って」
大晴のアパートを後にして、あっさりと別れてしまったことに実感がまるで湧かなかった。
何がいけなかったのだろう、と車の中ひとり、思う。
コンビニの駐車場の目の前には田んぼが広がっていて、私はぼんやりとそれを見つめることしかできなかった。
絶望が覆い被さって、とてもじゃないけれど体が動かせない。
体が重く、喉の奥は苦しくて、心臓の奥は熱く、息をすることさえ痛い。心が、体のどこにあるのかわからない心が悲鳴をあげて泣いているのに、表情筋はぴくりとも動かない。体の奥が泣いている気がするのに、涙は一滴も流れない。
絶望って重いんだな、と思った。
「ねえ、キスして」
「どうしたの急に」
部屋にいる時、大晴がキスをねだってきたことがあった。珍しい、と小首を傾けて聞いてみるけれど、彼は私からのキスをすでに待っているようで。顔を近づけてキスをすると満足そうにキッチンへと行ってしまった。
「ねーえー……何?気になる」
「これから煙草吸うから」
換気扇の前で煙草に火をつけるところだった。大晴は喫煙者で、コンロの前に椅子が置いてあって、換気扇を付けながら煙草を吸う人だった。
もともと煙草を吸う人とはあまり付き合いたくないなと思っていた方だったけれど、大晴と付き合ってみると、煙草を吸っている姿を見るのがいつの間にか好きになっていた。
煙草を吸った後の苦いキスも本当は満更でもなかった。
ただ、体に悪いからやめてほしいというのはあるけれど、ゆらゆら揺れる煙草の煙を見るのは好きだったし、苦いキスの後に渋い顔をすると大晴が笑ってくれるから、それも好きだった。
「はい、ちょっと咥えてみて」
「私、煙草吸わないよ?」
「火、つけないから。唇を丸めて、ちょっとだけ咥えてみて?」
一度、大晴から煙草を一本差し出されたことがある。言われるがまま、咥えてみた。
「唇、離して」
「ん」
「で、自分の唇、舐めてみて?」
「え、甘い」
「これ、バニラ味の煙草」
緩やかに笑いながら、私が咥えた煙草に大晴は火をつけて当たり前のように吸い始めた。
「きゅんてした」
「きゅんてしたの?」
思ったままを口にしてみれば、大晴はいつもみたいに、ふはっと笑って、ふっと白い煙を吐き出していた。
「今日、何時頃、家出る?」
「んー、8時くらいかな。でも大晴はもう少し遅い出勤だよね?」
平日、泊まりに行った朝は大晴のアパートから出勤していた。大抵、家を出るのは私の方が早い。
「今日は忙しいから同じくらいに出ようかな」
その日は珍しく一緒に家を出た。
スーツ姿の大晴がかっこよくて、好きだなってなるから「盗撮してもいいですか?」と前に聞いてみたことがある。
「盗撮は駄目です」
「えー訴える?」
「訴えるよ?」
なんて冗談を言って。
「あ、バッグ持ってるよ」
家の鍵を閉めようとする大晴の鞄を持ってあげる。資料が大量にあるらしく、バッグも大きい。けれど、左手は空けてくれて、手を繋いでくれたことが嬉しかった。
「今日はるんるんしてるね。可愛い」
「一緒に出勤できるのが嬉しくて。るんるんしてるかはわからないけど」
私ね、溺愛されてるんだって、思っていたんだ。
「……大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせる。別れることには慣れてるじゃないか。今回だって同じこと。
仕方なかったんだ。忙しいんだもん。忙しくても離れたいくらいの関係性だったってことだ。単純なこと。
大人なんだから、全部飲み込まなきゃ。好きな人と会えなくなっても日々は続いていく。夢から覚めるだけ。元に戻るだけだ。
涙が出ない。
私、そんなに傷ついていないのかもしれない。ほら、大丈夫だ。
「お揃いのペアリングが欲しいな」
付き合って三ヵ月目、大晴が自分の指に目を落としながらそう言った。
ペアリングは学生のイメージが強かったからそもそも買いたいとさえ思わなかった。大人のリングだと婚約指輪や結婚指輪になってしまうと思っていたから。固定観念に囚われていたことに気がついた。
でも、そっか、買ってもいいんだ。
「俺、シルバーのアクセサリー好きなの。だから、菜乃花がもしよければ……って、ごめん。俺、重い?嫌だったら言って?」
「ううん!嬉しい!私も欲しいな」
その次の週、大晴が出張で四日ほど都内へ行ってしまう予定があり、たった数日のことを思って、その前にどうしても欲しくなってしまった。
大晴がペアリングを買ってくれて、私の指に嵌めてくれた。大晴の指には私が嵌めて、二人で写真を撮った。
「婚約指輪と結婚指輪って違うんだね。最近知ったの」
「プロポーズする時は婚約指輪だね」
大晴がそう言いながら私の指に指を絡めて、恋人繋ぎをする。
「でも、号数とかわからなくないのかな?彼女に直接聞いちゃうのかな?」
「そんなの、半年前から準備してサプライズするんだよ」
「え!そんなに大掛かりなの?すごいね」
大晴の奥さんになる人は羨ましいな、とその時思ったことを覚えている。その時の彼女は私だったのに、私は胸の奥底で別れることがわかっていたのだろうか。
なんだかもう疲れたな、と脱力する。どうしてこんなにも上手くいかないんだろう。
夜、眠れず、暗闇の中、天井をじっと見つめていることしかできなかった。
「好き」だけじゃ付き合っていけないんだ。難しいな。大人の恋愛ってすごく難しい。
「……大晴、」
名前を呼んでみる。こんな結末なら、好きになんてなりたくなかった。
好きって言って、何度もキスしてくれたのに、結局は私を遠ざけて。
——あの頃に、戻りたい。
「お疲れ様。あがりなー」
ドアを開けてくれた大晴の顔を見たら、きっと早く触れたくなってしまって。
「大晴!」
名前を呼んで、距離を縮めたくてパーカーを掴んで。
「ん?どうしたの?」
きっと不思議そうな顔をするに違いなくて。けれど、首に手を回して大晴のパーカーに顔を埋める私の背中に手を回して支えてくれるはずだ。
そして、「今日は積極的だね」なんて、明るい声で笑う。
「……き」
「ん?何?」
「……好き。大好き」
涙声で気持ちを伝えると、慌てて私の顔を覗き込む。そこでやっと驚いた顔をして「何かあった?」って真剣な声を出す。
「大晴、あのね、大好きなの」
ぼろぼろ涙が出てきて止まらない。
目の前に大晴がいて、触れられる、なんて。
「俺も、大好きだよ」
「っ、うそだっ」
「ん?嘘じゃないよ」
「大晴、私のこと、ほんとうに好き?」
「大好きだよ。伝わってない?」
じゃあ、どうして、別れたの?
空想の、私の中にいる大晴は、困った顔をしている。
嘘つき。嫌いになりたいのに。それなのに、抱きしめてほしいなんて、なんて厄介な気持ちなんだろう。
「全然、伝わってない。大晴、いなくなっちゃうもん」
「いなくならないよ。不安?」
「不安だよ。やだ。離れたくない……ねえ、もしあの時、一緒にいたいじゃなくて、離れたくないって言ってだだこねて、困らせて、ずっと伝え続ければよかった?大人だから、聞き分けの良いふりして、私ね、頑張ったんだよ。本当はね、ずっと一緒にいたかったの。大好きだったから、離れたくなかったの」
「……ごめん」
あの時の、あの日の大晴になってしまう。揺るぎない別れを突きつけられる。
ああ、苦しいな。もう、全部、なかったことにしてしまいたい。
でも、それでも。どうしても「本当は」が、出てきてしまう。
名前を呼んで頭を撫でて、いつもみたいに「お疲れ様、疲れたね」って言いあって、大晴が「おいで」って呼んでくれて、私は笑いながら抱きしめてもらいたくて、そばに行くあの時を、何度も反芻してしまう。
あの時の自分が羨ましい。もっと触れればよかった。もっと自分からキスをすればよかった。
「……馬鹿。嫌い、大っ嫌い」
空想は、空想のまま、本物の大晴はもういない。涙がぼろぼろ溢れてきて、誰に見られているわけでもないのに私は顔を手で隠して、嗚咽を漏らした。
言霊が本当にあるなら、嫌いになりたい。本当に、嫌いになって、全部なかったことにしてしまいたい。
良い思い出は全部凶器となって私を傷つける。息が、できない。私、あの人と出会う前、どうやって息をしていたんだろう。
秋と出会って、秋と別れて。大晴と出会って、大晴と別れて。
だから私はきっとこの先もまだ知らない誰かと出会って、別れるのかもしれない。出会って、結婚するのかもしれない。
でも、私、大晴の彼女だった時の私のことが好きだった。
思い出すのは、笑い合う二人で、スマホにまだ残っている写真の中の私は幸せそうに笑っている。昼下がり、リビングで化粧をする私をキッチンにいた大晴が撮った写真だ。
ぽかぽかの光に溢れている写真を見て、私は大晴の前だとこんな顔をして笑っているんだと気がついた。
写真に映る自分はいつもぎこちなく笑っているから写真が嫌いだったけれど、大晴が撮ってくれた写真の中の私は自然に、幸せそうに、笑っていた。
——あの写真は、もう、見れない。
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