それでも桜は美しい
神崎翼
それでも桜は美しい
登校するとき、校舎の敷地を囲う壁からはみ出た大きな枝に咲き誇る桜を、子ども心に綺麗だと感じていた。ただ、葉桜の季節は枝から落ちた毛虫が煉瓦模様の歩道の上にうじゃうじゃしだすので、良いことばかりではない。桜が綺麗だと言った口で枝を折りたいと抜かす始末だった。
ただ、実際にその枝葉を切り落とすという話を聞いたときは動揺した。
「え、ほんと?」
「ほんと! 道にはみ出た分は全部切っちゃうんだって。お母さんがいってた」
子どもにとって、春は桜の花びらを、夏は毛虫を、そして秋は落ち葉をもたらし冬に丸裸になるあの枝葉は、大人にとっては切り落としてしまってよいものだったらしい。
登校するとき、そして帰るとき、どちらも必ず通り過ぎる歩道の上の、今は裸の枝を見上げる。もう二月もしないうちに桜を、今年も咲かせるはずだった大きな枝。
どちらにせよ、私が目にすることはなかったのだけれど。
私は小学六年生で、この桜が咲くのは早くて三月の終わりごろ。私はもう卒業していた。私にとって最後に見る桜の枝葉は、正しくこの冬の桜だった。
春。桜の花はいつだって美しくて、それを毎日見るものだから見飽きてしまって。だけど咲くたび見上げていた。平日は毎日通る通学路。朝と夕方、一往復。欠かさず六年、桜の下を通っていた。夏に近づくうちにいつの間にか葉っぱになって、毛虫を避けるのに足元を一生懸命見た。秋の内、落ち葉をわざとざくざく踏みながら歩くのは楽しかった。帰る頃には大人がいつの間にか掃き掃除していた。一度くらい、焼き芋焼いてみたかった。冬は黒々とした枝が寒そうだった。葉っぱを落としてしまったのだから当然だけれど。でも、変わらずそこにいた。春以外大して見上げることもなかったけど、多分ずっとそこにいた。
毎年毎年、咲いては散って、学生帽に桜の花びらを乗っけながら登校する。それが春の恒例だった。それを、そうか、来年以降の生徒はもう当たり前ではないのか。
気温が低い中、鼻を赤くしながらしばらく桜の枝を見ていた。道にはみ出てしまうほどに大きく育った桜。次の春までに、塀を超えた分だけ切り落とされる。今更。どうして。
私は小学六年生で、卒業する。この校舎に戻ってくることはもうないだろう。そして伸ばされ続けた枝葉の手は切り落とされて、桜は小学校の敷地の中。塀越しにでも、見えるだろうか。
卒業なんてぼんやりしたもの、どうでもいいと思っていたのに。もう二度と、本当にこの桜と出会えないんじゃないかと思うとこみ上げるものがあって、私は慌てて早足でそこを去っていった。冷たい風が後ろからその背を押す。枝と枝の間を通り抜ける風のねじれた音。風まで私の敵みたいでいらいらした。
「中学校にも桜ってある?」
「あるわよ、どうして?」
帰って、お母さんがいれてくれたホットミルクをすすりながら質問する。ほわりと涙腺までゆるみそうで「んー……」とクッションに顔を埋めて誤魔化した。
「小学校の桜なくなるからって」
「ああ。道路に出た分だけ切り落とすんでしょう? もったいないわね。きれいだったのに」
あっさりとした肯定の言葉に、思った以上にショックを受けて、じわ、とクッションに水分が吸い込まれる。私は「んー……」と気のないような返事しかできなかった。
いざ卒業式の日。私は校舎の中から桜を見に行った。校舎と塀の間にある狭い場所。わざわざこんなところまで足を運ぶことはない。もしかしたら、こうして桜の全貌を目にすることは初めてかもしれなかったと今更思い至った。
子どもを三人束にしても敵わないぐらい太い幹に、高い背丈。大きく育ち塀の上を超える枝葉。卒業の比だというのに、何とも新鮮な気持ちである。私にとっての桜は、道から見上げる桜の枝葉とイコールだった。こんな狭いところに押し込められたなら、そりゃあ塀だって超えるだろう。植えた人間が悪い。
「………」
ぺた、と触れる。初めて触れた桜の幹はざらとしている。お花見のときに公園で他の桜を見たことも触れたこともある。だけど、この桜は特別なように感じた。
どうして人間はこの桜を切り落としてしまうんだろう。
「今からでもやめてくれないかなぁ」
結局、どうして桜の木の枝を切り落とすことになったのか、詳しいことはわからなかった。風の噂で、私たちと同じように毛虫を嫌がった人が大人の中にいて、小学校にクレームをつけたんだと聞いたけど。私や、私の友達の親はみんな「もったいないね」と桜を惜しんでいた。どこの誰だろう。六年間通ったから毛虫が嫌なのはわかるけど、それは桜のせいじゃないのに。
「ごめんね」
いよいよ卒業だから、センチメンタルになっているのだろうか。同級生たちはだいたい同じ中学校に行くから、惜しむも何もないというのもある。先生たちに挨拶はした。校舎で行きたい場所はもうここだけだった。離れがたい。ここは見つけにくいから、お母さんも探しているだろうけど。
桜を見上げる。春に向けて、黙々と準備をしている。まだ膨らんでいないつぼみがいくつもついているのがわかる。校舎の中の枝にも、外の枝にもついている。きっと四月には満開になる。その前に、人間の都合で切り落とされる。
「人間の方が切り落とされればいいのに」
何も悪くない桜が切り落とされるのは理不尽だと思う。あの光景が変わることを惜しむ気持ちもある。ずっと見てきた桜が、どこのだれかもしれない人間よりも大切だった。
「ばいばい。元気でね」
誰も見ていないからと、声に出してお別れを告げる。当たり前に返事はない。気恥ずかしくなって、私は誤魔化すように幹を撫でて、振り返ることなく桜を後にした。風は吹かなかった。
中学に入学すると、途端桜のことなど忘れてしまった。新しく増えた教科や友達、先生や部活など、新しい生活のことで頭がいっぱいになった。中学の桜は綺麗だった。どの桜もお行儀よく校舎の中に植えられていて、悠々と枝を伸ばしていた。通う道からも少しだけ見えたけど、見上げる必要はなかった。ほんの少しだけ背が伸びたのもあるし、真上に枝が伸びているようなこともなかったからだ。
「そういえば、さっき小学校の方に用事があったんだけどね」
「んー?」
母が淹れてくれた温かい紅茶を飲みながら英語の教科書と格闘していたときのことだ。
「小学校の桜。ばっさり切り落とされてたわよ」
「あー……」
卒業当日のような強い感傷は沸いてこなかったけれど、胸の中に虚無があった。一抹の寂しさというものかもしれない。誤魔化すようにお茶をすすると、それでね、と母が予想外の続きを話す。
「でも、いろいろ大変だったらしいわよ。事故があったらしくてね。聞いた話だと、チェーンソーで腕が落ちちゃった人がいるんだって。怖いわよねぇ」
ごくり、とすすった紅茶が喉を下る。温かいはずのそれが、私には氷水のように感じられた。
それでも桜は美しい 神崎翼 @kanzakitubasa
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