夢見る魔女~アデリエル~
朝羽
序章
「どうか、あの子を……アデルを引きとってちょうだい」
母が叔母にそう言ったのを聞いた瞬間、アデルは部屋の前から身をひるがえし、図書室へと逃げこんだ。
母が、自分を手放そうとしている。もうずいぶん前から疎まれていると幼心に勘づいてはいたが、実際にその口から聞くと、想像以上に胸にこたえた。
――不吉な予感はあったのだ。
その日、朝はやくから遠方に住んでいるエスニダ叔母が、はるばる家を訪ねて来た。数年ぶりに叔母がやって来たことにもだが、その叔母が腕に白い仔猫を抱いていたのにはもっと驚いた。白い仔猫はちらりと窺うように叔母を見上げ、それからアデルをみてニャア、と鳴いた。叔母がまるで値踏みするかのような目でアデルを見下ろした瞬間、背中がひやりとした。
ばたんと扉を閉め、部屋のすみの床に膝をかかえて座りこむ。鉛でもつまっているように胸が重く、息苦しい。それなのに。
(ヘンなの。なみだも出ない)
こんなとき、いっそ大声をあげて泣くことができるような子どもなら、まだかわいげもあっただろう。母親に嫌われることもなかったかもしれない。
だがどれだけ待っても、涙があふれてくることはなかった。悲しいというより、ただむなしい気分で、アデルはぼんやりと周囲を見わたす。
息苦しい家のなかで、この図書室と小さな庭だけが、アデルにとって精神の安らぐ居場所だった。代々魔女の家系であるために、母がそっくり受け継ぐことになった魔法書の類は難しく、幼いアデルにはほとんど理解できなかったが、書物をひらき、書面を眺めているだけでこころが躍った。本そのものというより、部屋に満ちる、手垢とインクの染みついた独特の紙の匂い――どこかかび臭さにも似た香りが好きだった。
だが、危険な魔法書も紛れているせいか、アデルが触れるにはまだ早いと母は良い顔をせず、見つかって叱り飛ばされたことも何度かあった。それでも何かあるとすぐに逃げこんでしまうのは、悪い癖だとわかっていたが。
(おばさんのうちへ行けば、もうここに来ることもできなくなってしまう)
ぼんやりとした頭で、近くの棚から書物を一冊ぬき出す。背表紙に記された題名は『薬草と薬草術の扱い方』で、アデルが読むことを許された数少ない本だった。ページの間にアデルお手製の押し花の栞がはさまれている。フリーデという、白い六枚花弁の花。セリ科の花で香りが強く、鎮静作用がある。魔女の安眠香の材料としても用いられる、アデルのいちばん好きな薬草花だった。
アデルはフリーデの栞を手に握りしめた。
(眠りたい)
深く、深く眠ってしまいたい。もう二度と目覚めなくてもいいように。
栞を両手に、アデルは目を閉じた。ふわりとしたあまやかなフリーデンの香りが鼻孔をくすぐる。眠らなきゃ――、そう思う間もなく、アデルは心地よい睡魔の腕の中に身をゆだねていた。
アデルは夢のなかにいた。
図書室でまどろむたびに、いつも決まって見る夢があった。毎回、同じ場所で同じ誰かと出会う夢だ。ふしぎなことに、そこもまた図書室だった。ただし、家のそれとは広さが違う。
茫漠と、どこまでも広がっている空間に、ぎっしりと書物の詰まった本棚が整然と並び、合間にぽつぽつと書き物机が置かれている。本棚はどれもこれも、見上げると首が痛くなるほど高い。四方の壁という壁もすべて書架で、天井まで続くそこここに梯子が架けられ、高い位置には足場が設けられている。
光源になるようなランプも、採光用の窓すらもないのに、そこはいつも明るく、背表紙に書かれた文字のひとつひとつまではっきりと読むことができた。
(またここに、来れた)
アデルはうれしくなって微笑んだ。ふつふつと喜びがわいてくる。今までに何度かここへ来たことがある、と思い出す。だが奇妙なことに、目覚めたとたん、この場所のことを忘れてしまうのだ。
(今日は、こっち)
それ自体が迷路のようななかを、奇妙な既知感に背中を押されてアデルは歩く。
(あの子は、今日もきっといる)
どこまでも同じ書架の続くなかを、まるで床そのものが道しるべとなっているかのように、迷うことなく進む。そうしてまさにある場所で、アデルはひとりの少女を見出すのだ。
(――いた)
白と黒の床に大量の書物が乱雑に広げられている。その中心で、美しい少女が身を屈め、一心不乱に文字を追っている。
年齢はおそらく十歳前後、十四のアデルより少し下ぐらいだろう。ゆるく波打つ金色の豪奢な髪。陶器のようになめらかな肌は象牙色で、頬の部分だけほんのりと紅をさしたようなばら色をしている。うつむきがちの顔のなかで、伏せられたまつげは驚くほど長い。瞳は宝石のような青で、まるで絵本に出てくるどこかの国のお姫さまがそのまま具現化したかのよう。髪も目も真っ黒な自分とは何もかもかけ離れていて、羨む気も起らなかった。
彼女を見かけたのはもう何度目だろう。この奇妙な場所にアデルがやって来たときから彼女はここに存在していた。
はじめて出逢ったときのように、アデルはしばし息を潜めて少女を見守っていたが、その眉間が徐々によっていくのに気づき、そっと呼びかけた。
『ロージィ』
名を呼ばれた少女ははっと顔を上げ、すぐにアデルに気がついた。そのばら色の頬が見る見るうちに喜色に染まる。
「アデル! よかった、また来れたのね!」
ロージィは本の山を蹴倒すような勢いで駆けよってきた。熱烈な歓迎にやや腰引けながらも、アデルの胸の中に奇妙な誇らしさが広がっていく。彼女は自分を必要としてくれる。
「ねえ、今度は何を教えてくれるの?」
無邪気に笑いながら、ロージィはせがむようにアデルの腕を引っぱった。まるで妹ができたようで、アデルはますますうれしくなる。
『ロージィは何が知りたいの?』
訊ねると、ロージィは満面の笑みを浮かべ、床に散らばった本から一冊を拾い、アデルの目の前で広げて見せた。
「これ! このやりかたが知りたいの」
ロージィが指さしたのは、黒猫やカラス、オウムなどの絵が描かれた項目、つまりは使い魔について書かれたページだった。
「前に言っていたわよね。魔女には使い魔という友達がいるって」
アデルはうなずいた。純血の魔女の家系では特に、使い魔という生涯の友が与えられる。母や祖母から娘へ、あるいは師から弟子へ。
そして、代々魔女の家系があるように、使い魔も代々使い魔になる猫や猛禽の一族があり、親や師から子どもや弟子に授けられることになっている。つまり使い魔がいるのは純血の魔女の家系だけで、師を持たないはぐれ魔女は使い魔を持たないのが習わしだ。
そう説明すると、ロージィはあからさまにがっかりした様子で肩を落とした。
「ええー、そうなの。残念だわ」
しゅんとした表情にアデルは焦り、本のページを急いで捲った。
『こっちの、ものにかりそめのこころを与える魔法なら知ってる。わたしにもまだできないけど、ロージィならできるかも』
「本当? じゃあそれ、教えてちょうだい」
ぱっと顔を輝かせたロージィに、アデルはほっとした。よかった、機嫌がなおって。
床に広げた本を挟み、ふたりで向かい合う。ロージィが本の記述を指さし、読めない文字やわからない箇所をアデルに問う。アデルは知っている知識を総動員して彼女に答えた。
「ねえ、これってどうやるの?」
『これはね、まず最初に魔法陣をかいて、そこ対象となる品を置くの。持ち主の思い入れが強ければ強いほどいいとあるわ』
「待って、これは初めて見る文字よ。なんて書いてあるの?」
『インクに必要な材料みたい。あっ、これ契約者の血が必要って書いてある』
「平気よ。少しぐらい痛いのなんて」
ロージィはふしぎな少女だった。物怖じしない性格で、はじめて出逢ったときもアデルを質問攻めにしたものだ。
あなたはだれ? どこから来たの? どうやってここに来たの? そして、ここは何処なの、と。
最初の質問以外、アデルは答えるすべを持たなかった。だがアデルがここは自分の夢のなかだと説明すると、ロージィは変ね、と首をかしげた。私も夢を見ているのかしら、と。
奇妙なことに、ロージィにとってはここは現実なのだという。家のドアを開けたはずなのに、なぜか気がついたらここに居た、と。
アデルにもどういう現象なのかさっぱりわからなかったが、その後も図書室で眠るたびに何度かロージィと逢うようになり、そのうちそういうものだと受け入れるようになった。というより、目覚めると同時に夢を見ていたことを忘れてしまうので、謎を追求しようがなかったのだ。
何度目かの出会いで、アデルは自分が悩んでいることをロージィに打ち明けた。魔女の家に生まれたが、自分は落ちこぼれで、ほとんとの魔法がうまく使えないこと。そのせいで母に疎まれ、嫌われていることも。
「アデルにはお父さんはいないの?」
いない、とアデルは首を横にふった。
「そう。じゃあ、あたしたち似てるけどまったく逆ね。あたしはお母さんがいないの。お父さんはいるけど、あたしのことを嫌ってる」
『ロージィを?』
「うん。あたしが手を使わずに物を動かしたり、文字を書いたりできるおかしな娘だから」
『ロージィ、あなた、魔女なの?』
驚いて訊ねるアデルに、ロージィは肩をすくめた。
「たぶん、そうみたい。死んだお母さんが魔女だったって。だけど、お父さんはあたしが魔法を使うのを嫌がるの」
『どうして?』
「わからない……けどたぶん、思い出すんだと思う。お母さんのこと」
消沈してしまったように、ロージィは表情を暗くした。その幼く細い肩が落ちているのを見て、アデルの胸には初めてある気持ちが芽生えた。
この子を、慰めてあげたい。励ましてあげたい。
(もしかしたら、友達になれるかもしれない)
姉というよりは母性のような、庇護欲に近い感情だった。
そうしてアデルたちは逢瀬を重ね、誰も知らない場所でふたりはひっそりと友情を育むことになったのである。特にアデルが古い魔女のことばを読めると知ってからは、ロージィは目を輝かせて読み方を教えてとせがむようになった。
アデルはロージィの期待に応えようと、精一杯努力した。庭に植えた薬草の名前と効能、魔女のあいだに伝わることわざ、邪なものを払うまじないの言葉……。アデルが知っていることは多くはなく、身についたものはさらに少なかったが、ロージィがまじめに話を聞いてくれることがただただうれしかった。だれかに必要とされることが、こんなにこころを強くしてくれるとは知らなかったから。
「ねえアデル、いつか、あたしも本物の魔女になれるかな」
『うん、きっとなれるよ』
アデルはうなずいた。今でさえロージィは、土に水がしみこむようにあっという間に新しい事物を覚えてしまう。きっと偉大な魔女になるだろうと思った。自分などよりも、はるかにずっと。
「もしあたしが本当の魔女になれたとしたら、あたしの師匠はアデルね」
『え?』
「だって、あたしにいろんなことを教えてくれるのはアデルだけだもの」
ロージィが笑顔でそう言うのに、アデルは逆に胸がふさがってしまって何も言えなかった。うれしかったのだ。
こんな落ちこぼれでも。母にさえ必要とされない娘でも。この幼い友達だけがわたしを必要としてくれる。どんなに、どれほどにうれしかったか、ロージィにはとても理解できないに違いない。そしてアデル自身も、自分の気持ちを表現できる言葉を持たなかった。
(ずっと、ここにいたい)
アデルはそう思った。この幸せな夢のなかで、大事な友達とずっとふたりきりで、いつまでもいっしょにいられたら、と。
――だが、夢とは必ず覚めるものだ。
『あっ……』
ふいに大きく視界が揺れ、体が上へ引っぱられるような感覚がした。今までに何度もあったから知っている。これは目覚めの兆候だ。
(ロージィ)
アデルは恐れた。このままでは目が覚めてしまう。起きて、すべてを忘れてしまう。この場所のことも、ともに過ごした時間も、妹のような大事な友達のことも。
「アデル、どうしたの?」
『だめ、もう、行かなきゃ』
ロージィは目を瞠った。見る見るうちにその表情が曇っていく。
「待って、行かないで、アデル。また会えるんでしょ? また会いに来てくれるんでしょう?」
切実な声に、アデルはくちびるを噛みしめる。必ずまた会えると約束できないことがつらかった。
『ロージィ、ロージィ! わたしを忘れないで、きっと会いに来るから!』
アデルの逼迫した叫びに、ロージィが泣き笑いのように顔をゆがめてうなずいた。その像がぐにゃりと大きくゆがみ、アデルは思わず手を伸ばした。
だがその手も周囲の色に溶けたかと思うと、かわって目の前には、厳しい表情をした母の顔があった。
「起きなさい、アデル」
肩を揺すって起こした母の手が、アデルの手首をつかむ。否応なしにひっぱり上げられ、無理やり立たされた。
「ここへはまだ入るなと言ったはずよ」
「……ごめんなさい」
小さな声で謝罪し、アデルは顔をうつむけた。そして、はっと気づいた。見覚えのある白い仔猫が自分の足元にじゃれつくようにしてアデルを見上げている。今朝、叔母が腕に抱いていた仔猫だ。
「この子は?」
驚きながらもアデルは仔猫を抱き上げた。白い小さな猫は、おとなしくアデルの腕に抱かれ、ニャア、と鳴いた。
「はじめまして、アデル」
まさか、とアデルは思わず母の顔を見つめた。母はかすかにうなずくと、エレノア叔母さんからよ、と告げた。
「その仔はノア。アデル、あなたの使い魔です」
アデルは目をいっぱいに見開いた。胸の奥に、あたたかい喜びが芽生えたのがわかる。だがそんな幸福な感情も、次の瞬間凍りついた。
「その仔をつれて、エスニダの家にお行きなさい」
「叔母さんの……」
「エスニダが、あなたの新しい先生になってくれます」
べっとりとした重苦しい気持ちがアデルの胸を塞ぐ。どうしようもなく息苦しくて、アデルは零れ落ちそうになる涙を必死でこらえた。泣いても、母にはさらに煙たがられるだけだと理解していたから。
「……わかりました」
か細い声で、アデルは恭順の意を示す。母は何も言わずにうなずいた。そんな母と娘を、白い仔猫がふしぎそうに見上げている。
翌日から叔母の家に里子として預けられることになったアデルは、あの奇妙な図書室での夢を、もうそれきり見ることはなかった。
そして、すべてを忘れてしまった。あの場所でだけ出逢えた、たったひとりの小さな友達のことも。
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