【File54】錬金術師の家

【00】ナポリにて


 およそ一年前。

 青々と煌めく海面には白い船影がいくつも浮かんでおり、その風光明媚な入り江を見下ろすのは歴史ある町並みだった。

 暗色の火成岩と薄黄色の擬灰岩ぎかいがんで造られた建物がモザイク模様のように犇めいている。その細い路地を、水平線の彼方よりやってきた潮風が駆け抜けていった。

 イタリア南部カンパニア州ナポリ。

 そこは犯罪組織カモッラたちが幅を利かせる治安の悪い地区ではなく、観光客たちが集う場所からも少し離れた人気のないエリアであった。

 その石畳を靴底で鳴らすのは、黒髪の東洋人である。裾の長い小花柄のワンピースに紺色のカーディガンを羽織り、革のブーツを履いている。麻の鞄を左肩から斜めに掛けていた。

 魔術師hogである。

 当時の彼女は銀座の画廊で女主人をやりつつ“賢者の石”の製法を求めて欧州各地を巡っていた。

 “賢者の石”とは、かつて鉛などの卑金属ひきんぞくを、本物の黄金に変えるという目的で生み出されようとしていた伝説上の魔術的触媒である。そして、腐食しない黄金は不変の象徴である事から“賢者の石”を人に用いれば、永遠の生命を手に入れる事ができると言い伝えられている。

 hogは転生の術で肉体を乗り換える事ができるが、不老不死という訳ではない。

 転生を繰り返す度に魂はすり減り、いずれは現世に留まる事ができなくなってしまう。まだ余裕はあったが、なるべくなら早いうちに“賢者の石”を手にしたかった。

 しかし“賢者の石”といえば、錬金術の奥義とも呼べる代物である。そもそも、本当にそんなものが作り出せるのかすら解らない。

 実際、これまでhogは欧州を巡り、いくつかの“賢者の石”に関する情報を検証してきたが、そのすべてが箸にも棒にも掛からない嘘ばかりであった。

 そんな訳で旅費が尽き掛けて、日本に戻ろうとした矢先の事だった。スイスのバーゼルにて信憑性の高い情報を入手する事ができた。

 その真偽を確かめるべく、このナポリの細い路地を潜り抜け、くすんだ黄色い外壁の家の前に辿り着いた。

 hogはアーチ状のひさしを潜り抜けて呼び鈴を押した。




 呼び鈴のブザーが鳴った。

 白髪の肥った男が顔をあげ、手に持っていたスカラベの指輪を書斎机の上に置いた。そして、右目に挟んでいた単眼ルーペを掌に落とす。

 名前をクラウディオ・アバーテ。考古学者であった。

 彼は椅子から腰を浮かせると玄関へと向かう。チェーンを掛けたまま玄関扉を開けると、その隙間の向こうに立っていたのは東洋人の女だった。

 女は鞄の中から名刺入れを取り出す。そして、まるで機械音声のようなイタリア語で自己紹介をし始めた。

「先日、お電話させていただいた田中和子です」

「ああ、君か……」

 彼女は東京に本社を置く出版社に勤めているという話で、中世から近世における科学や医療に関する話を聞きたいという連絡が数日前にあった。

「どうぞ」

 クラウディオは名刺を受けとると田中を迎え入れて、そのままリビングへと案内する。それから、彼女をイタリアの有名メーカーであるマルニの応接セットに残してキッチンまで行くとお茶を淹れた。再びリビングへと戻り、テーブルを挟んで彼女の向かいに座る。

「それで、君が聞きたいのは、どんな話かね?」

「フルチ・アルジェントについてです」

「ああ」と、クラウディオは失笑する。そして、お茶を一口飲むと話を続けた。

「“賢者の石”の製法だね?」

 フルチ・アルジェントは、十九世紀初頭の錬金術師を自称していた人物であった。口が達者で妙なカリスマ性を持ち合わせており、財界人や政治家、著名な学者、芸術家とも繋がりがあった。

「フルチがイタリア北部に住んでいた頃の書簡の中に、“賢者の石”の製法を発明したという記述を見つけました」

 その田中の言葉を聞いたクラウディオは鼻を鳴らして笑う。

「……私は眉唾だと思っているよ」

「ええ。“賢者の石”など夢物語の産物でしょう。しかし、卑金属を黄金に変える……この飽くなき挑戦が現代科学のいしずえの一つであった事は言うに及びません。錬金術への言及なくして、科学や医療の歴史を語る事はならないでしょう」

「確かに。かのパラケルススもすぐれた医師であり科学者であった」

 クラウディオは田中の見解に理解を示す。

「そこで、私どもとしましては、是非ともフルチの考案した“賢者の石”の製法の所在を突き止めたいと考えておりまして、こうして伺った次第であります。それにあながち彼の考案した“賢者の石”は夢物語などと切り捨てる事はできないかもしれません」

「ふむ」と、クラウディオは相づちを打ち、田中の言葉を待った。

 彼女は一気に喋った事で失った喉の水分をお茶で補給してから語り始める。

「このフルチが発明した“賢者の石”の製法は、彼の死後、細かい経緯は不明ですが、あるイタリア社会党員を経由してナチスドイツの手に渡ったそうです。かのアドルフ・ヒトラーいわく『不完全ではあるが、まさしく伝説の賢者の石を造りあげる製法そのものだ』として、部下に研究させていたらしいのです」

 そのナチスドイツの手に渡った製法は、第二次世界大戦の際に消失したと言われている。しかし、スイスのバーゼルで近頃発見されたフルチ本人の日記にて、次のような記述があった。

 若い頃、このナポリに滞在中、借金の形に“賢者の石”の製法をマッシモ・アバーテなる貿易商に譲り渡した……と。

 このマッシモがクラウディオの曾祖父である。彼は十九世紀中頃に貿易業で一財を築いた人物だった。

「その話は知っている。しかし、残念ながら曾祖父の遺品の中には、そのような製法の記されたものは遺されていなかったらしい」

「そうですか」

 と、田中は表情を変えぬまま俯く。そこで、クラウディオはにやりと笑った。

「……が、しかし、少ない可能性ではあるが、まだフルチの“賢者の石”の製法は、現存しているかもしれない」

「と、言うと?」

「十九世紀半ばの欧州では、養蚕ようさん業者がアジア圏の蚕卵さんらんに目をつけていた」

「ええ。この国が我が国との国交を結んだのも、その頃でしたね」

 田中の言葉にクラウディオは頷く。

「曾祖父のマッシモは、日本の蚕卵をこちらに持ち込んで一財を成した。その際にヨコハマの好事家に、いくつかの古書や書簡を譲り渡したのだという。そのすべてが魔術や錬金術に関わるものだったらしい。どうやら、その好事家は欧州の珍しい書物や有名人の書簡をコレクションしていたそうだ。当時のマッシモの覚書に、そういった記述があった」

「その中にフルチの“賢者の石”の製法が……?」

 クラウディオは首肯する。

「あるかもしれない」

 そう言って彼は、ニヤリと笑った。


 このすぐ後にhogは日本に戻ると、欧州遠征で尽きた資金を補填するために魔法道具作りをし始めた。

 そのあと、コロナ禍がやって来て、来津市の旗竿地の不思議な家の一件や鏡台探しの一件が起こり、流れでVtuberのプロデュースを行う事になって忙しくなり、“賢者の石”の捜索は長らく棚上げになっていた。

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