【File53】夢の家
【00】暗い食卓
6日午後22時頃、営団地下都※※線渋谷駅5、6番線ホームで「複数の人が刺された」との通報があった。
警察によると、男が突然刃物を振り回し、電車を待っていた人らに向かって襲い掛かった。被害に遭った40歳男性と25歳女性は、共にその場で死亡が確認された。また、19歳女性が右手を切りつけられ軽症を負った、との事。
なお、男は駆けつけた警察官に取り押さえられ、殺人と傷害の現行犯で逮捕された。この男の身元は所持品などから都内在住の無職(52)とみられている。県警は不特定多数を狙った通り魔事件とみて捜査を進める方針であると明かした。
(2000・ 6・7 東都日報より)
二〇一〇年の冬。
ぼう、と音がして、ファンヒーターが火力をあげた。しかし、そのダイニングの空気は寒々しく暗かった。
夫の茂房は無表情のまま、グリルで焼いた鮭の切り身を箸で崩すと、それを口の中に運んで即座にごはんを掻き込んだ。その瞬間、彼の左側にあったテレビから笑い声が聞こえた。茂房はそちらに視線を向けると、もぐもぐと口を動かし続けた。無表情のまま……。
彼の右肩の後ろには、裏庭に面した小さな窓が見えた。その窓の外側にはびっしりと吹雪によって飛んできた綿雪がこびりついている。
「最近、寒くなったわね」
栖美が視線を窓に向けたまま、ぼそりと言葉を発した。すると、茂房は消え去りそうなぐらい小さな声で「あぁ……」と反応を示した。視線はテレビの方を向いたままだった。
そんな彼の凍りついたような表情を眺めながら、栖美はどんよりとした表情で溜め息を吐いた。
彼とは同じ高校の同級生で、その付き合いは長い。結婚する前は、もの静かで人の話によく耳を傾けてくれる落ち着いた男だと思い込んでいた。
愚痴っぽい栖美の話を黙って聞いて、ぶっきらぼうながらも肯定的な返事をしてくれる。
しかし、結婚してしばらくして、彼はこちらの話に興味がないのだと気がついた。それどころか、彼は他人にまるで関心を持とうとしない。家事や年老いた義母の世話を任せ切りにして、仕事場と家の往復。その癖に家の事で何かの不手際があったり、義母が体調を崩したりすると、ねちねち嫌みを言ってくる。もちろん、夫婦の営みもしばらくない。
彼はなぜ自分と結婚したのだろうか。義母の世話や家事を押し付けるためなのか。
茂房と一緒の時間を過ごせば過ごすほど、そうとしか思えなくなってゆく。もうすでに栖美の心は疲弊しきり、毎日の暮らしに意義を見いだせなくなっていた。
そんな彼女の日々の心の拠り所は、前年に始まった携帯電話のSNSサイトだけだった。
そのサイトではシンプルなミニゲームがいくつかあり、イベントなどで良い成績をおさめる事ができれば、プロフィール画面などで使える限定アバターを手に入れる事ができた。
ゲーム自体は、携帯電話の決定ボタンを連打するだけのシンプルなものが殆どだったが、他のユーザーと協力してプレイしていると、つまらない日常を忘れて何時間も熱中する事ができた。
最初は旧友から送られてきた招待メールで何となく登録しただけであったが、今となっては親しい関係になったユーザーが何人もいた。
どこの誰かも解らない。顔も解らない。彼らとはサイト内の個人メールや掲示板でしかやり取りした事はない。しかし、それでも毎日顔を付き合わせている夫の茂房よりも、ずっと濃密な絆を感じていた。
このときも、既に夫の事など頭から追い払い、そのSNSで現在開催されているゲームイベントの事で頭の中がいっぱいになっていた。
早くご飯を食べて、後片付けをして六畳間の義母の様子を見て、ログインしなければ。本物の仲間。本物の自分……。
「……おい。今の話、聞いてたか?」
その声で現実に帰った栖美は背筋を震わせ、視線をあげた。すると、怪訝な顔つきの夫に見つめられている事に気がついた。
「あ、ああ……ごめんなさい」
「また、あのゲームの事でも考えていたのか?」
夫は栖美が携帯ゲームにはまっている事を快く思っていない。家事が疎かになるとか、何とか言っているが、栖美からすれば、家の事をいつもほったらかしの彼にだけは言われたくなかった。むっとして、不機嫌な返事をする。
「……何?」
素直に謝罪して聞き返すと、茂房は無表情のまま
「……来週、出張があるから」
「来週のいつ?」
「水曜。三日。週末に帰って来る」
「そう」
「母さんの事、頼む」
「うん」
会話が途切れた。
再び冷々とした沈黙が場の空気を満たした。栖美は急いで食事を終えると、自分の食器を重ねて持ち上げる。
「義母さんの食器、下げて来るわ」
返事はなかったが、何時もの事なのでなんとも思わなかった。栖美はいそいそと自らの食器を流し台に置くと、ダイニングを後にした。それから、玄関の近くにある階段を昇ると二階へと向かう。
そして、義母の寝室ではなく自らの寝室へと向かうと、そこで充電器に差しっぱなしだった携帯電話を手にとって素早く例のSNSへとログインした。
そのブルーライトに照らされた栖美の顔には、虚ろな笑みが浮かんでいた。
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