【File50】薔薇屋敷

【00】隣の芝


 薄暗い部屋でキーボードを叩く音が鳴り響く。暗闇に青白く浮かびあがったディスプレイが赤く光り、暗転。次の瞬間、中央に『GameOver』の文字が浮かんだ。

「ああっ! 煽り厨がっ! 死ね!」

 荒井陽希子あらいひきこは右手の握り拳を机の縁に叩きつけた。するとデスクトップパソコンの上に飾られていたゲームキャラのフィギュアが倒れる。舌打ちをして、それを直し椅子から腰を浮かせた。

 荒井は両手を突きあげて凝り固まった背骨を伸ばすと、夜になっている事にようやく気がついて電気をつける。

 この日も荒井は目を覚ますと、ずっと自室でオンラインFPSに興じていた。平日であるにも関わらず、寝食を忘れてずっとだ。

 腹が減っている事を思い出した荒井は、自室の扉のサムターンを回し、そろりと開ける。すると、扉口の左側に小包の箱が置いてあり、その上に母が作ってくれたカレーライスとサラダが載せられているお盆が置いてあった。

 その小包とお盆を自室に引き込み、素早く扉を閉めて鍵を掛けた。窓に向かって右側の壁に沿って横たわるベッドに腰をおろし、お盆をいったん除けて小包を開いた。中には、彼女がネットで購入したミネラルウォーターのペットボトルがいくつか納められていた。

 ペットボトルを一本引き抜き、キャップを開けてラッパ飲みする。それから、お盆を膝の上に置いて、皿の上に掛かったラップをはぎ取り、カレーライスとサラダを食べ始めた。

 美味しくはない。

 カレーの方はすっかり冷めており、表面に膜が張っていた。ご飯も乾いている。サラダのキャベツもしなびていた。

 味わう事なく一気に口の中に掻き込み、再びミネラルウォーターをラッパ飲みした。

 口元を枕元に置いてあったティッシュでぬぐい、荒井は何気なく掃き出し窓の向こうを見る。すると、隣家の窓明かりが目についた。

 荒井はお盆を脇に除けて立ちあがると、何となく窓際に向かい、カーテンの隙間をのぞき見る。

 すると、左向かいの窓の明かりの中に、隣家の住人の姿が見えた。

 見た目は二十五から三十くらいの専業主婦で、榊原さかきばらという苗字である事は知っていたが、名前までは知らなかった。歳上の旦那と二人で暮らしているらしく、子供はいないようだった。

 家の大きさから察するに、かなり裕福らしい。荒井家と接した面とは反対に大きな庭があり、そこには大きなドーム型の温室があった。色取り取りの薔薇が栽培されており、荒井が引きこもる前は来客を招いてお茶をたしなむ榊原夫婦の姿を良く目撃した。

 薔薇の手入れは、もっぱら夫人がやっているらしく、温室に籠り剪定せんていにせいを出す彼女の真剣な顔も記憶にある。

 明らかな人生の勝ち組。

 しかし、今の彼女はそういった成功者とは思えない表情をしていた。

 荒井の自室と、このとき榊原夫人がいた部屋の距離は十メートル程度しか離れていない。それゆえに、荒井には彼女の表情が手に取るように解った。

 眉間にしわを寄せ、何かをぶつぶつと呟きながら部屋の中を歩き回っている。余裕がまったく感じられずに、不満げで苛立って見えた。

 最近の彼女はずっとこの調子だった。

「ざまあ……」

 荒井の口から忍び笑いが漏れた。

 恐らく今の生活が上手く行っていないのだろう。

 ときおりベッドに顔を伏せて泣いている榊原夫人の姿を見る事もあった。

 そういった隣人の動向は、陽希子にとって自らの孤独と劣等感を癒す麻薬のようなものだった。

 せっかく、金持ちの男を捕まえて人生のゴールテープを切ったと思いきや、こんな引きこもりの見世物となって鼻で笑われる存在に成り下がった女の心境を考えると、胸のすく思いがした。

 この日もしばらく榊原夫人の醜態しゅうたいを観察していると、不意に彼女と目が合いそうになる。荒井はさっと室内に顔を背けた。

 すると、ベッドの足元にあるサイドボードの上に置きっぱなしだったスマホが目に映った。高校に入学したとき、親に買ってもらったもので画面にうっすらと埃が積もっている。

 引きこもり始めてしばらくしてから、クラス委員の高坂某こうさかなにがしから、しつこく電話やメールが来はじめたので電源を落としてずっと放置していた。引きこもりにはスマホで他者と連絡を取る機会などないし、インターネットの利用はパソコンがあれば事足りる。

 だから、今の今まで、スマホの存在をすっかり忘れていた。

 荒井は何となく懐かしくなってスマホを手に取った。そして、思い出す。

 このスマホを使って家族以外でまともにやり取りをしたのは、あの高坂某だけだったな……と。

 彼女は荒井家に直接訪ねてきて、プライバシー保護の意識が薄い両親を丸め込みメールアドレスを聞き出したらしい。

 どうも、この家には何度か訪れた事があるらしく母親とは懇意こんいなのだという。

 高坂某は何とか荒井を学校にこさせようと必死だった。両親の態度が腫れ物を扱うかのようなものだったのに対して、高坂某はかなり強引だった。

 なぜ、あれほど彼女は懸命だったのだろうか。大して仲良くもない自分などのために。

 うざったくて、面倒で、はっきり言えば大嫌いだった。

 荒井は手の中のスマホを見つめながら少しだけ高阪某について思いを巡らせると、スマホの電源を入れた。画面に指を這わせて彼女にメッセージを打った。

 文面は『学校、行ってみようかな……』というものだった。

 もちろん、本心ではない。単に退屈で寂しいからかまって欲しいだけだった。土壇場で『やっぱり、学校へ行かない』と意見を翻すつもりでいた。

 荒井は引きこもるに当たって、心に決めた事があった。

 自分はこのまま学校にも行かないし、働きもしない。いざとなったら、ネットで適当な結婚相手ATMでも見つければいい。あの隣の惨めな女みたいに失敗なんかしない。荒井は異性と交際した経験はまったくなかった。しかし現にゲームでは、男のプレイヤーはみんな自分に優しいし、リアルで会わないかと誘われた事も何度かあった。きっと何とかなるだろう。

 そのどこまでも甘く、子供染みた人生設計がもうすぐ破綻しようとしている事に、彼女はまったく気がついていなかった。 

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