【File47】大神町

【00】Molek


 そこはアメリカ合衆国ニュージャージー州カリオンの人里離れた森の中の一軒家だった。

 この家の持ち主である翻訳家のケビン・オーキから911コールセンターに通報があったのは、ほんの数十分前の事であった。

 彼は通話が繋がるやいなや唐突に泣き出し、こんな事をわめき散らした。

『もう沢山だ!』

 彼はしゃくりをあげ、電話を受けたバーネット・サリヴァンの案内を無視して捲し立てる。

『モロクだ! あれは、神様じゃない! モロクだったんだ! モロクが俺に頭の中で囁くんだ。いつも見ているぞ……早く死ね……死ね死ね死ね死ね死ね……あぁ……もう耐えられない! 呪いは海を越えてやって来る。もう無理だ……最近じゃ薬も効かない……うううぅ』

 そして、ケビンは、己の住所と名前を捲し立て、こう続けた。

『……このまま、独り寂しく、死体が腐って蛆にまみれるなんてごめんだ。だから、後片付け・・・・は頼む』

 銃声。

 ケビンは、それっきり応じなかった。




『CRIME SCENE DO NOT CROSS』


 その文言がしるされた黄色いバリケードテープの内側だった。

「モロクって、何だ?」

「悪魔ですよ。元々は古代のパレスチナ辺りで崇められていた神です」

「詳しいな」

「大学で、その辺りの歴史について学んでいたものでして……」

「そうか」

「モロクは、子供を人身御供ひとみごくうとする残忍な儀式によって祀られたらしく、その顔は……」

「もういい、もういい、ろくでもない」

 そう言って、恰幅かっぷくのよいベテラン刑事が若い同僚の言葉を右手で制してから周囲を見渡した。彼の名前はウォルター・ジェイキンソンという。因みに若い同僚はスティーブ・フィンチ。

 ともあれ、その部屋で、まずウォルターの視界に映ったのは、入り口の反対側の壁一面を占める棚であった。

下半分には古めかしいCDやレコードなどが納められており、上半分に何かの専門書と日本のコミックが渾然一体となって並んでいる。

 CDやレコードは、デスメタルやブラックメタル、グラインドゴアといったジャンルばかりであった。そして、専門書の方はオカルト関連のものが多い。

 ウォルターは、その棚から藤子・F・不二雄の短編集『ミノタウロスの皿』を手に取りパラパラと捲ったあと、再び元に戻した。そして、左側へと目線を向ける。 

 そこには、オークウッドの書斎机があり、ケビン・オーキが突っ伏していた。

 彼の延髄えんずいは血にまみれており、机上に投げ出された右手は拳銃を握り締めていた。

 その周囲を警官たちが取り囲んで何やら話し合っている。

 ウォルターが、そちらへと視線を向けているとスティーブが言葉を発した。

「……通話の最中に、そのグロック17の銃口を咥えて、ずどん、で、間違いないらしいです」

短小・・にイカされちまったって訳か……」

 そのくだらない冗談にスティーブは、くすりとも笑わなかった。ウォルターは空気が凍りつくのを感じ、わざとらしく別な話題を持ち出した。

「……まあ、そんな事より、ここの主はずいぶんな日本通みたいだが……」

 和風のパーティション。

 オリガミの鶴。

 紙製のランタン。

 日本製の扇。

 模造刀。

 コミックの他にも部屋の中には、様々な日本製のもので溢れかえっていた。

「……“オーキ”は日本のファミリーネームですよ。そっちにルーツがあるのかもしれませんね」

「なるほど」

「それから、彼はライターの仕事の他、日本のコミックや小説を訳したり、目ぼしいものを見つけて、こちらの出版社に紹介する仕事をしていました。あと、精神科への通院歴があったみたいです」

 と、スティーブがウォルターの疑問に答えたところで、机の周囲にいた警官の一人が彼らの方へ振り向いた。

「ちょっと、来ていただけますか」

「どうした?」

 ウォルターとスティーブは、書斎机の方へと近づく。

 机の上には、投げ出されたケビンの上半身の他に、次のものが目についた。

 ノートパソコン。

 蓋が開いたままのピルケース。

 血飛沫ちしぶきにまみれた卓上カレンダー。

 そして、警官の一人がだらりと垂れさがったままのケビンの左手をそっと持ちあげて机の上に置いた。その手の甲には、奇妙な傷が刻まれていた。

「……何だこれは?」

 それは、知識のないものからすると、無秩序な線の集合にしか見えなかった。しかし、知ってるものからすると、それらが織り成す意味は一目瞭然であった。

「……漢字ですかね?」

 スティーブが眉をひそめる。

「意味はなんだ?」

「さあ……?」

 と、肩をすくめるスティーブ。

 その文字は……。


 『牲』


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