【10】後日譚
二〇二〇年九月一日の十八時過ぎ。
棚橋雄二は自宅のオフィスルームで
自室を出るとエレベーターに乗って、高層マンションのエントランスへと向かう。
そこで、ウェストバッグの中から取り出したスマホを弄り、耳に詰めた無線のイヤホンへと音楽を飛ばした。
重々しいビートとマシンガンのようなフロウ……棚橋が好んでよく聞く海外の有名なラッパーの曲だった。
そのリズムに心を震わせながら、軽く準備体操をする。それから、エントランスをあとにして玄関を出た。そのとき、ちょうどすれ違った住人と会釈を交わし合い、ランニングを開始する。
棚橋には“健康に気を使う余裕がないのは人生の負け組の証拠である”という持論があった。
金と時間がないから、そういう部分に気が回らない。生活に必要最低限の事しかケアできない。
結果、あらゆるパフォーマンスが落ちて、仕事でも成功できない。そして、更に己の事に金と時間を使う余裕がなくなる……悪循環である。
ゆえに、彼は人生の勝ち組となるのには、まず己の身体を鍛える事が先決であると、幼いうちから気がついていた。そのため、この手のトレーニングを今に到るまで欠かした事がなかった。
そのお陰か体力や腕力に関しては人並み以上で、ヤンチャだった頃も、煙草ばかり吸って怠惰に過ごす他の不良どもに遅れを取った事はほとんどなかった。
そして、そのときの経験が彼の中で確固たる自信を形作った事は言うまでもない。
では、なぜ彼のような
それは、彼が何よりも、弱者を見下して踏みにじり、食い物にする事が大好きだったからであった。
よい立ち位置に着いて、弱者を虐げる。馬鹿な奴らから搾取する。自分より下の人間を見下す。
そういった行為に、棚橋は何よりも悦楽を感じていた。
その欲望を満たすためだけに、子供の中では誰からも恐れられる存在であった小茂田を利用していたに過ぎない。
そして、今の棚橋は、その小茂田を踏み台にして、更なる高みにいた。
裏社会の住人ではあるが、その財力や権力はかなりのものだった。
今の棚橋に怖い者は何もない。
そして、これまで歩んできた道は正しく、これからも同じやり方で同じ道を歩めば、もっと高みに登り詰める事ができると彼は信じていた。
軽快な走りを見せる棚橋は、閑静な住宅街を抜け、近くの河川の堤防沿いの遊歩道に差し掛かる。
この頃になると日は沈みかけ、夕焼けの朱色を僅かに遠くの空へと残すのみとなっていた。
遊歩道では誰ともすれ違わない。呼吸と心音、そしてイヤホンから流れ続ける音楽と自らの足音以外は何も聞こえない。
昼間の熱気は冷めつつあったが気温はまだ生温い。
額から汗が滴り、心地よい疲労感が全身を包む。
やがて、右手の土手の下に並ぶ家々の窓から温かな明かりが漏れ始めた……次の瞬間だった。
前方に誰かが立っていた。
遊歩道の真ん中で、両腕をだらりとさげて微動だにしない。
棚橋は
すると……。
「お前、枝本か?」
それは、彼の腹心である枝本廉であった。
青白い顔をしており、目が据わっていた。明らかにまともではない。
「……おい。どうした? こんなところで」
恐る恐る枝本との距離を詰める棚橋。
「おい。クスリでも、やってんのか?」
やはり、反応はない。更に近づく。
そこで、彼は気がついてしまった。
「あ……あああ……」
彼の喉元に深々と突き刺さったバタフライナイフの存在に。
「お前……それ……それ……」
棚橋は唇を震わせながらも冷静に、スマホで救急車を呼ぼうと腰のウェストバッグに手を伸ばした。
すると、次の瞬間だった。
枝本が唐突に喉をいっぱいに反らして叫び始めた。
「おおおおおおお……」
喉元の傷から、大きく開いた口から、見開かれた両目から、ごぼごぼと排水溝のような音を立てながら、大量の鮮血が溢れ出る。
それを見た棚橋は恐怖して、その場にへたり込んだ。
突如、襲い掛かる超常の存在に、彼の地位も財力も、積みあげた研鑽も、まったくの無意味であった。
鼻水を滴し、みっともなく泣き叫ぶ事しか、今の彼にはできなかった。
「何これ!? 何これ!? 何なのこれ!?」
そして、血の涙を流しながら迫る枝本を見あげながら、断末魔の悲鳴をあげるのだった。
某日。
白のラパンのハンドルを握り、山間の道を行く
やがて、彼女の目の前に右曲がりのカーブと苔に覆われたミラーが現れる。
その前を通り過ぎたあとだった。
前方の右側の沿道に誰かが立っており、彼女はぎょっとする。
「……何だ。こいつ」
車内で独り言ちて、その人物の前を通り過ぎる。
それは、紺色のスーツを着た瀬戸内浩介だった。
(了)
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