【05】来客


 茅野薫は手形のついた窓硝子を見つめながら表情を曇らせる。

 流石の彼も気がついていた。

 あの日、願光寺に行ってから何かがおかしい。

 心霊、怪異、超常……。

 そう呼ばれる人智を越えた何かの息遣いが、すぐ近くに迫りつつある。

 しかし、彼はそんなものがこの世に存在する事を認めたくなかった。

 極力、気のせいだと思おうとした。

 幸いにも、あの日行動を共にしていた喜多と南の身には何も起こっていないらしい。それは部活などの際に、それとなく確認済みであった。

 だから、このまま自分が無視していれば、そのうち何とかなると考えていた。たぶん、これは自分の勘違いで単なる気の迷いであるのだと……。

 しかし、それは徐々に自らの存在を、露骨にアピールし始めた。もう無視し続ける事は難しい。自分の勘違いではなく確実に何かが起きている。

 その証拠たる、窓硝子に浮かんだ手形を見つめながら薫は歯噛みした。

 どうして自分だけが……その理不尽さに焦燥と怒りが込みあげ、拳を固く握る薫。

 しかし、すぐに溜め息を吐き出し、冷静に返る。

 スマホを手に取り、ベッドの縁に腰を落とす。

 薫は姉の行きすぎたホラー趣味にうんざりとさせられていたせいで、オカルトに興味が持てず、そっち方面の知識をほとんど持ち合わせていなかった。

 よって、こういうときに、どうしたらいいのかまったく思いつかない。

 それでも、まずは自分の身に降り掛かっているものが何なのか、理解する事が先決であると考える。

 因みに、この時点での彼の脳裏には『姉を頼る』という選択肢は欠片ほども存在していなかった。

 なぜなら、薫は自らの姉がプロをも呆れさせる、その道の経験者だとは知らないからだ。

 そもそも、彼には姉を何かの危険に巻き込むという発想がまったくなかった。あんなの・・・・でも姉なのだ。

 ともあれ、薫は検索エンジンに『藤見市 願光寺 心霊スポット』などと打ち込む。

 なぜ、自分だけが選ばれてしまったのかは解らない。

 しかし、願光寺へと足を踏み入れた事が、すべての切っ掛けであるのは考えるまでもなかった。

 あの廃寺に今回の出来事の正体へと迫るヒントがある。薫はそう考えたのだ。

 だが、検索結果はかんばしいものにはならなかった。

 どうやら、あの願光寺にまつわる噂は、相当ローカルらしい。

 早々に八方塞がりとなり天井を仰ぎ見ていると、家の固定電話の着信音が耳をつく。

 自室をあとにして、リビングへと向かう。キッチンとの仕切り棚の上に置いてる電話機のディスプレイに表示された名前は喜多海斗。

 薫は呆れ顔で溜め息を吐き、受話器を持ちあげる。

「ねえ、姉さんと話したいからって、家電に電話するのやめてよ。面倒だから」

『なんだ、薫か』

 ときおり彼の同級生たちは、わざと茅野家の固定電話にかけてくる事がある。

 美人で巨乳の姉と言葉を交わしたいというだけの目的で……。

 仲間内での悪ふざけのノリであったが、電話を受ける薫としては面倒でかなわない。

「……で、何の用? 姉さんならいないけど」

 舌打ちの音が聞こえ、喜多の声がした。

『今、ひまかなって……特に用はないんだけど』

「そんな事で……」

 と、そこで、薫は彼に願光寺の噂について聞いてみようと思い立つ。

「ねえ。そういえばさ……」

『何だよ?』

「あの願光寺の幽霊の話、詳しく知りたいんだけど」

『あー、あの“住職の霊が出る”とかいうやつ?』

「そうそう。それそれ……」

 薫もそれ以外の情報はまったく知らない。いったい、どんな恐ろしいいわくがあるのかと身構えるも、喜多の口からもたらされた話は意外なものだった。

『いや、あれな、実は嘘らしい』

「は?」

 薫は目を大きく見開く。

「……どういう事?」 

『俺も気になって、兄貴に願光寺の噂の事を聞いたんだけど、アレは兄貴が小学五年のときに一年上の世代が流したデマなんだと』

「何で、そんな嘘を?」

 まったく、意味が解らない。しかし、喜多の述べた理由は納得のいくものだった。

『あそこ、クワガタとかカブト虫がたくさん捕れるだろ? だから、その狩場を独占したかった当時の五十山田いかいだ小学校の六年生が幽霊が出るっていう噂を意図的に流したらしい』

 ……じゃあ、あの日、南が見たという背の高い女は何なのか。

 あの廃寺とは無関係なのだろうか。

 そう口にしようとして、薫は思い止まる。

 唖然としていると、喜多の気楽な調子の言葉が耳に刺さった。

『俺が願光寺の話をしたら、兄貴に爆笑されたよ。だから、たぶん南が見たのも何かの勘違いだったんだと思うよ』

 ……では、たった今、自分の身に降り掛かっている出来事は、あの廃寺とはいっさい関係がないのだろうか。

 薫には、よく解らなかった。




 二〇二〇年八月十六日の夜。

 そのとき、茅野薫はリビングで夏休みの課題に取りかかっていた。

 当初は二階の自分の部屋で勉強していたのだが、机の奥にはあの窓・・・がある。

 もう、手形は雑巾でふいたので消えていた。

 しかし、それでも気になって仕方がない。

 もしかしたら、カーテンの向こう側から訳の解らない何かが、部屋の中をのぞいているかもしれない。そんな妄想が頭を過り、勉強に集中できなかったのだ。

 それでも、ここで勉強をしなかったら負けたような気がしたので薫はリビングへと移動する。

 姉は夕食後に自室へと引っ込んだきりで邪魔する者はいない。

 蛍光灯の明かりをつけた薫は、ローテーブルの上に教材やノートを広げる。いったんキッチンへとおもき、作りおきの麦茶をついだ。しばしの間、勉強に集中する。

 すると、そのまま何事もなく時は過ぎ、壁掛け時計の針が二十一時を回った頃であった。

 一息入れようと背伸びをしたところで、唐突にインターフォンの音が鳴り響いた。

 こんな時間に誰だろう。薫は疑問に思いながらも立ちあがり、リビングを後にすると玄関へと向かった。

 いつの間にか、向かいの家の犬が再び吠え始めている。

 薫はインターフォンのパネルのスイッチを押した。しかし……。

「あれ……?」

 なぜかモニターには何も映らない。

 どうやら電源が入っていない。故障らしい。薫は首を傾げながらも扉に声をかける。

「あの、どちら様ですか?」

「あー、もし。薫? 私だ」

 扉の向こうから聞こえてきたのは、母親の声だった。

 薫は苦笑しながら問い返す。

「どうしたのさ? 今年は帰って来ないんじゃなかったの?」

「いや、ちょっと、そういう訳にもいかなくなってな。兎に角、ここを開けて欲しいんだが」

「何なの? 父さんは?」

 少し間を置いて返答がある。

「ああ。今来るよ。兎に角、開けて欲しい」

「はいはい……」

 彼の両親が連絡もなしに予定をくつがえす事は、これまでにも割りとよくあった。

 茅野薫は言われたとおり、玄関の扉を開けようとした。

 そのときだった。


「開けては駄目よ」


 薫は唐突に背後から聞こえてきたその声に、驚いて背筋を震わせた。

 振り向いてみると、そこに立っていたのは彼の姉である茅野循であった。

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