【04】思春期
二〇二〇年八月十三日。
茅野邸のリビングだった。
座卓のノートパソコンの画面には一人の女性が映っていた。
ぼさぼさの黒髪で年齢不詳。その面差しは茅野循とよく似て整っていたが、酷く疲れた風であり目の下の隈が酷い。
背景にはあまり整理されていないキャビネットが映り込んでいる。どうやら、彼女の仕事場らしい。
その人物が気だるそうに言った。
「今年のお盆は、そっちに帰らない」
彼女こそ、茅野姉弟の実母、
「ちょっ、何で!?」
息子の驚きの声に茅野海は淡々と答える。
「一番の要因は、新型コロナウィルス感染症だ。この研究施設の感染対策は完璧だから外に出たくない。更に可愛い息子ともこうして顔を見て好きなときに会話を交わす事ができる。家に帰る意味がない」
「はあ!? じゃあ、お墓参りは?」
「……人間は死亡したのち火葬され、残るのはリン酸カルシウムと数パーセントの炭素などにしかならない。よって、墓参りというのは生きている人間の気持ちのあり方の問題であり……」
「解った、解ったって……」
薫は右手をウェブカメラにかざして母の発言を制する。
「お父さんは、何て言ってるの?」
「最初は循と薫に会いたいから帰るとダダをこねていたが、さっき徹底的に論破してやった。今はふて寝しているが夜には元に戻るだろう」
「ああ、そう……」
どや顔をする茅野海と、げんなりした表情で肩を落とす薫だった。
「ところで薫」
「何? 母さん……」
茅野海は神妙な表情で眉をひそめなから尋ねる。
「
「音?」
耳を澄ましてみても何も聞こえない。背後のキッチンから茅野循が洗い物をする音が聞こえるのみであった。
もう一度、画面の向こうの母に向かって薫は尋ねる。
「音って、どんな音?」
「いや」
茅野海は考え込んでから、
「何か『ぱっ』とか『ぽっ』とか、そんな音がお前と話している間、ずっと……」
薫は目を大きく見開き、そして思い出す。
先日、願光寺で聞いた音。
それは、気泡が弾けるような、ペットボトルからグラスに液体を注ぎ入れたときのような、何かが擦れ合うような……。
「……どうした? 薫」
きょとんとした表情で首を傾げる茅野海。
薫は引き
「何でもない」
「そうか。マイクの調子が悪いのかもしれない。こっちで使わなくなった機材を送ろう」
「ああ、うん……」と、生返事をする薫。
「では、仕事に戻る」
と、言い残し、茅野海は何の
すると、その直後、キッチンの方から、きゅっ……と、蛇口を閉める音がした。どうやら、茅野循が洗い物を終えたようだ。
エプロン姿の彼女がリビングへとやって来る。
「……母さんは何て?」
「今年のお盆は帰って来ないってさ」
薫は姉の質問に対して不機嫌そうに答えた。
二〇二〇年八月十四日の早朝。
藤見市駅裏にある明光寺の境内に茅野姉弟の姿があった。
この寺は、茅野家の
二人はお盆に関する諸々の準備をしに来たのだった。
仏花を抱えて鼻唄混じりで、墓石の合間に横たわる砂利敷きの通路を歩く姉。その姿を見て、薫は呆れた様子で溜め息を吐く。
「姉さんってさ……」
「何かしら?」
「案外、こういう行事はしっかりやるよね」
「ふっ。私は母さんとは違うわ」
などと、胸を張って得意気な顔をする。
薫は、こういうところがそっくりなんだよな……と、思ったが口には出さなかった。
ともあれ、持参した掃除用具や灯籠を地面におろし、墓掃除をするために空のバケツを持って水を汲みに行く。
水道は本堂に近い場所にあるプレハブの小屋の中にあった。
小屋の入り口は開け放たれており、中には学校の水飲み場のような流し台があった。
その奥の壁には棚があり、金属のヤカンや
薫は流しにバケツを置いて蛇口を捻る。
勢いよく吐き出された水が渦を巻き、見る見るうちにバケツの底へと溜まってゆく。
ある程度の量になったところで薫は蛇口を閉めた。
そこで、何気なく水面に視線をさげる。
すると、バケツを見おろす自分と、その後方……つまり、小屋の天井付近に何者かの顔があった。
髪の長い女。
薫は驚きのあまり凍りついて、わずかに波打つ水面を見つめ続けた。
そして、彼は気がつく。
恐ろしく背の高い女が自らの背後に立っている。その女が遥か頭上から自分を見おろしている。
不意にその女の顔が、不気味に歪んだ。
……笑っている。
薫は恐怖に弾かれて、後ろを振り向いた。
しかし、そこには、開け放たれた小屋の入り口と、その向こう側に広がる墓地があるばかりであった。
二〇二〇年八月十五日の朝。
広大な田園を割って延びる国道をひた走る銀のミラジーノの車内だった。
茅野循は物憂げな表情で、その話題を切り出した。
「近頃、薫がご機嫌斜めなのよね……」
「カオルくんが?」
と、ハンドルを握る桜井が応じる。
「ええ。昨日の墓掃除のときも、妙に険しい顔で黙り込んで……私のイカしたジョークに、くすりとも笑わないし」
「循のジョークは、素人向けじゃないからね」
「そうかしら? 何にせよ、悩み事があるなら、お姉さんを頼って欲しいのだけれど……」
茅野は眉間にしわを寄せて深々と溜め息を吐いた。
「まあまあ。カオルくんも思春期なんだよ」
「そうなのかしら……?」
「それか、この前、玄関の扉を壊したのをまだ怒っているか」
「あれは、私のせいじゃないわ」
茅野は唇を尖らせる。
そんな会話をするうちに、二人は高洗町へと辿り着く。
その日はスポット探訪を思う存分、楽しんだのだった。
ちょうど、その頃だった。
遠く離れた場所から犬の吠え声が聞こえる。
次の瞬間。
……ばたん。
という大きな音がして、わずかな震動を感じた。
茅野薫は自室のベッドの上で目を覚ます。
「……何、地震?」
枕元に置いてあったスマホで確認するが、特に地震の情報などは見られなかった。
代わりに姉からの『梨沙さんと、ハイキングに行ってきます』というメッセージが入っていた。
「最近、ハイキングにはまっているのかな……」
目を擦りながら、首を傾げる薫。
すると、さっきの音は何だったのか……再び脳裏に疑問が浮かびあがる。
薫はベッドから足を出した。
立ちあがって背伸びをしながら欠伸をすると視界の端に何かが引っ掛かる。
それは、勉強机の奥の壁。
玄関前に面した窓硝子であった。
そこにうっすらと白い汚れがついている。
薫は机の上に手を突いて、その窓へと顔を近づける。
「何だ? これ……」
すると、次第に彼の起きがけの脳が、硝子についた白い汚れの正体を認識し始める。
それは、手形だった。
人のものと同じ形をしていたが、大きさは二倍近くある。指が気持ち悪いくらい長い。
顔を近づけてみると、指紋や掌紋が細かに浮かんでいた。
とても、悪戯でどうにかできるレベルではない。
薫は恐る恐る右手の人差し指で硝子をなぞった。
手形は窓の外側からつけられているようだった。
すると、次の瞬間だった。
それは、窓の外。
なだらかに傾斜する屋根の縁の向こうへ何かが、すっ……と、隠れたような気がした。
薫は目を
それは、女の顔だったように思えた。
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