【10】欲望の樹


 深淵へと向かう細い木板の階段が蛙のような鳴き声をあげた。

 片山知己は、か細いペンライトの明かりを頼りに、慎重に地下室への階段を降りる。

 彼の前には、白い衣をまとったサティーがいた。

 それは、殺したはずの彼女本人なのか。彼女によく似た誰かなのか。それとも、狂える自らの脳が作りあげた幻影なのか。

 片山には解らなかった。

 やがて、地下へと降り立つと開いたままだったロビーの跳ね上げ蓋が大きな音を立てて閉まった。

 驚いて背筋を震わせる片山。

 サティーは、まったく意に介した様子を見せない。その背中が暗闇の向こうへと遠ざかってゆく。

 片山は慌てて彼女を追う。

 そこは、かつてはワインセラーとして利用されていたらしい。

 奥に長細く、両側には木製の棚が並んでいた。

 そして、その最奥であった。

 錆びついた鉄の梯子はしごが地上へと延びている。

 天井は丸い跳ね上げ蓋で閉ざされているらしいが、その隙間から光の帯が漏れていた。

 サティーは、その中に立つとおもむろに振り向く。

 そして、初めてあったときのように微笑むと、最初から何も存在しなかったかのように消え失せた。

 恐る恐る片山は、その梯子へと近づいた。

 そして、地上から降り注ぐ光を見あげて、彼は梯子を登り始めた。

 跳ね上げ蓋を押し開けて、地上へと顔を出す。

 視界に太陽の光が満ちて、すべてが白に染まった。たまらず顔をしかめて目をつむる。

 そのまま、外に這い出てゆっくりと目蓋を押しあげた。

 初めは自分がどこにいるのかさえも解らなかった。しかし、地面が芝生である事とわずかな空気の流れから屋外である事は瞬時に悟る。

 そして、微かな悪臭が鼻をついた。

 その肉が腐ったような、果物が熟れたような臭いに表情を歪めていると、視覚が明るさに順応し始める。

 ようやく、片山はその場所が中庭である事に気がついた。

 四方を取り囲む壁には窓も扉もなく、中央には大きな樹がそびえていた。

 無花果いちじくに似てはいるが幹は太く、周囲の地面からは網の目のように伸びた根が力強く隆起していた。

 しかし、かつては多くの緑を茂らせていたであろう枝には、葉が一枚もない。樹皮は乾き色艶も悪い。まるで、そこだけ真冬のように思える。その大樹は無惨に立ち枯れようとしていた。

 片山は、ゆっくりと根元に歩み寄る。

 そして、周囲の芝生や隆起した根と根の間に何かが落ちている事に気がついた。

 それは黒ずんでしおれた人参か何かの根菜類だと始めは思った。

 しかし、拾いあげて眺めるうちに、その物体に目や鼻や口、そして、手足がある事に気がつく。

 まるで、小さな毛無しの猿の木乃伊ミイラ

 どろどろに腐敗しており、すぐに形が崩れてしまいそうだった。どうやら立ち込める悪臭の元は、これらしい。

 その物体を地面に投げ捨てると、ぐしゃりと潰れて汁を飛ばした。

「……ああ。そうだ」

 そこで、片山は再び思い出す――。




 サティーを自室のベッドの上で絞め殺したときだった。

 彼女の手足から力が抜け、小刻みに痙攣けいれんし始めた頃だった。

 白眼を剥いていた彼女が唐突に口を開いた。


「わくわく」


 それを聞いたあとの記憶がまったくない。

 気がつくとベッドに寝たままで、丸三日も経っていた。

 酷い倦怠感けんたいかんと頭痛をどうにか我慢し起きあがると、自分が黒ずんだ小さな木乃伊を握り締めていた事に気がつく。

 そのときは、それが何なのかまったく解らなかった。




「ああ……そうか……」

 片山は気がついた。


 ……この樹が・・・・サティーだ・・・・


 嶽地聖夜は、彼女を殺す代わりに外国人女性を殺していた。

 そして、自分がこの樹を受け継ぐ後継者に選ばれたのだと……。

 片山はようやくすべての答えを得る事ができた。

「あははは……そうだったのか! そんな事だったのか」

 すると、耳元で声がした。

「もうすぐで、彼女を君から奪おうとする人たちがやってくるよ……」

 嶽地聖夜だった。

「守らなきゃ……この楽園を……」

 はっ……として、片山は振り向く。

 誰もいない。

 しかし、その瞳には中庭の片隅にあったプレハブの物置小屋が映っていた。




 ダーオルングたちは、もっとも身体が大きく腕っぷしの強いソムチャイを先頭に、そして用心深いアーティットをしんがりにして、地下のワインセラーを進む。

 もうすぐで、ようやく目的の物が手に入る。

 報酬はアメリカドルで三百万。

 さんざん苦労した見返りには充分な報酬であった。

 しかし、あの四人目の足跡が気にかかる。

 例の樹の・・・・飼い主・・・のものだろうか。

 樹の飼い主だと思われたキタカタセイジュウロウが、既に死んでいる事は、ダーオルングもとうぜんながら知っていた。

 例の樹・・・は飼い主の欲望を糧にする。

 飼い主がいなくなれば枯れ果ててしまう。

 だから、もしも、あの足跡がキタカタセイジュウロウの後継者・・・であったとしたら、逆に安心できる。まだ樹は活きているという事になるからだ。

 最初は種子だけでも回収しようという腹積もりであったが、後継者を殺して樹ごと奪い取る事も可能だ。

 ダーオルングは、皮算用にほくそ笑んだ。

 そうして、ワインセラーの奥に辿り着いた彼らは、地上を目指して梯子を登った。

 ソムチャイが跳ね上げ蓋を右腕と頭で押し開ける。

 眩しい太陽光が射し込んだ。

 ソムチャイが表情を歪めて、地上へと顔を出した。

 その瞬間だった。

 ソムチャイの頭上に影が差した。

 風切り音が湿気った夏の空気を切り裂く。

 ソムチャイの頭部に何かが勢いよくぶつかり、左横に大きく傾いだ。

 彼の真下にいたダーオルングの顔に、生温い飛沫としたたりが降りかかる。

「……ボス?」

 足元からアーティットの怪訝けげんそうな声がした。

 その瞬間、ソムチャイの身体が揺らぎ、足を滑らせて落下する。

「おいッ! 何なんだッ!」

 そう言い終わるより早くダーオルングは、ソムチャイに巻き込まれ梯子から落下する。

 アーティットの悲鳴が聞こえた。ソムチャイに押し潰され、息の詰まるような衝撃のあと、首をよじって真上へと視線を向ける。

 すると、地上から自分たちを覗き込んでいる誰かの姿があった。

 逆光で顔は見えない。しかし、肩に何かを担いでいる。それは、大振りの鶴嘴つるはしであった。

 ダーオルングはソムチャイの名前を呼んで身体を揺すったが、まったく動く気配はない。

 どうにか、ソムチャイの身体を退かそうとするが、もたついて上手くいかなかった。

 もがいた瞬間、アーティットの悲鳴が聞こえた。どうやら、彼が自分の下敷きになっているらしい事にダーオルングは気がつく。

 上にいた誰かが梯子を降りてくる。

 きっと、飼い主だろう。

 このままでは、殺される……。

 ダーオルングは悲鳴をあげた。




 ちょうど、その頃だった。

「あっ。ジープだ」

 桜井がエントランス前に停めてあったジープを指差した。

「この車、あのコンビニで見たよね? 確か三人組の外人さんの……」

「そういえば、そうね」

 と、茅野も思い出す。

「どうする? 帰る?」

 桜井の問い掛けに首を振る茅野。

「いいえ。あの門を壊したのは、このジープよ。鍵を使わなかった。つまり、あの三人組も不法侵入者……」

「ああ、うん」

「だから、私たちは壊れたフェンスを見て、不審に思い、様子を見にきた善意の第三者という事になる。遠慮なく屋敷の中に入れるわ」

「それは、正々堂々と不法侵入ができるね」

 ……などと、頭のおかしい会話を繰り広げながら、二人は屋敷の玄関へと向かった。

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