【03】忍びよる魔の手


 時間は少しさかのぼる――。


 橘満也は、その日、朝起きると身支度をして家を出た。透明なビニール傘を差して、住宅街の路地を歩く。

 来津市立図書館に向かおうというのだ。

 図書館にはフリーWi―Fiもあるし冷房も効いている。カフェやラウンジスペースもあり、近くにコンビニもあった。 

 何より家にいれば、親に必ず「だらだらしてないで勉強しろ」と怒られるが「図書館へ行く」といって家を出れば、何も文句は言われない。

 どのみち、スマホでゲームをやる事には変わらないにも関わらず、である。

 外は酷い雨天であったが、親の小言を聞かなくてよいというだけで、彼にとって家を出るメリットは充分だった。

 ともあれ、橘はぼんやりと考え事をしながら、古びたブロック塀の並んだ狭い路地を抜けて、図書館のある来津駅前の大通りに辿り着く。そのまま歩道をしばらく行けば、車道を挟んだ反対側に目的地の図書館が見えてくるはずだった。

 とうぜん、その最中、彼の頭を過っていたのは、一応は交際中の渋谷円香の事であった。

 その渋谷の元におかしな手紙が届いたのは、もう三ヶ月近く前の事となる。

 それ以来、渋谷は不意に誰かの視線を感じるのだという。

 そして、彼女は、その視線の主がストーカーかもしれないので何とかして欲しいと、橘に懇願こんがんしてきた。

「……いや、何とかして欲しいってさ」

 橘が放った苦笑混じりの独り言は、雨音にかき消される。

 何とかって、何だよ……と、心の中で毒づいた。

 ストーカーだとか、そんな事は警察か親か……兎も角、自分のような子供ではなく、大人に相談するべきだろう。

 橘はそう考えていた。

 フィクションの主人公のように、彼女の事を身をていして守りストーカーの正体を暴いて追い詰める。

 そんな事が普通の高校生である橘に、できる訳がない。

 彼は、ほぼ週一ペースでサイコ野郎や怪異の正体を暴き立てて、どつき回している、どこぞの女子高生・・・・・・・・たち・・とは違うのだ。

 どう頑張っても、警察か親に相談しろとか、戸締まりに気をつけろなどと、役に立たないアドバイスを送るのが精々である。

 そもそも、現時点では、本当にストーカーにつきまとわれているかどうかすら判然はんぜんとしない。

 不審な出来事といえば、例の下駄箱の手紙だけで、他は神経質になった彼女の気のせいという事も充分に考えられた。

 だから橘は、渋谷があまり気に病まないように取りなしたつもりだったのだが、彼女はそれをよしとしなかった。

 彼氏なのに薄情だと言われ、橘もつい売り言葉に買い言葉で喧嘩になってしまった。

 一応、双方が謝罪して冷静にはなっていたが、どうにもぎくしゃくしたまま夏休みに突入してしまった。

「あーあ。もう終わりかな……」 

 などと呟き、傘の裾を少しあげると、前方の歩行者用の信号が点滅していた。

 急ぐ気にもならず、のんびりと横断歩道の前で信号待ちをする。

 飛沫をあげて、軽自動車やトラックが目の前を横切る。

 ふと、橘は何となくの癖で、ポケットの中のスマホを取り出して画面に視線を落とした。

 すると、その瞬間だった。

 ふわり、と甘い香が鼻先を漂う。

 香水ではない、生花の匂いだ。 

 そして、手元のスマホの下。それは、自分の爪先の真向かいだった。

 歩道のへりと車道との間にある溝蓋みぞぶたの上に足があった。

 古びたサンダルを突っかけた汚ならしい爪先。

 目の前に誰かがいる。いつの間にか立っている……。

 橘は、はっとして、顔をあげた。

 すると、そこにいたのは鼠色ねずみいろのジャージを着た小肥りの男だった。

 髪はボサボサで無精髭ぶしょうひげを生やしていた。

 この日の空模様より曇りきったまなこで、じっと橘を見つめている。 

「うわあっ!」

 恐怖にかられ、仰け反ろうとしたところで傘を持った右手首を掴まれた。

 その瞬間、橘はおかしな事に気がつく。

 その男は傘も差して・・・・・・・・・いないのに・・・・・なぜかまったく・・・・・・・雨に濡れていなかった・・・・・・・・・・。 

「なっ、何なんだ……何なんだよ、お前……」

 男は橘の腕を引いたまま、横断歩道を渡ろうとする。

 必死に抵抗するも、その力は恐ろしく強い。

「やっ、やめろ! 放せ……!」

 そして、悲鳴のようなブレーキ音が、橘の鼓膜に突き刺さる。

 彼が覚えているのは、そこまでだった。




 昼過ぎとなり午前の診察が終わった為か、来津病院一階ホールの待合所は閑散としていた。

 薄暗く陰鬱なその空間には、ほんのりと死の気配が漂っているような気がして、西木千里は思わず顔をしかめる。

 桜井はぼんやりと虚空を眺め、茅野の方は思案顔を浮かべながらうつむいていた。

 そのまま、微かに外から鳴り響く雨音に耳を傾けながらベンチに腰をおろしていると、受付から渋谷が戻ってくる。

「で、まどっち、どうだった?」

 西木が尋ねると、渋谷は首を横に振る。

「やっぱり、面会はできないみたい。コロナ対策で……」

「そう」と西木。

 ショッピングセンターのフードコートで橘の母親から連絡をもらったあと、四人は桜井の運転するミラジーノに乗り込み、満也が運ばれたという来津病院へと向かう。

 しかし、案の定、彼との面会は叶わなかった。

「どうする? 循」

 桜井が隣の相方へと視線を向けた。茅野は俯いたまま、苦々しげに答える。

「……もう少し状況がはっきりしないと、何とも言えないわね。この事故は偶然なのか、それとも、故意によるものなのか……」

「もやもやするねえ……」

 桜井が眉をハの字にして溜め息を吐いた。

「事故の状況は解らないけど、怪我は幸い大した事はないみたい。意識ははっきりしているけど、頭を打ったから一晩様子を見て、何事もなければ、明日には退院できるらしいけど」

 渋谷が受付で聞いた情報を打ち明けると、茅野が立ちあがる。

「取り合えず、今はやれる事がないわ。帰りましょう。あの手紙から指紋を採集してみたいし……彼氏から話を聞くのは、明日にしましょう」

 すると、おもむろに渋谷が脅えた顔になる。

「この臭い……」

「臭い? 何もしないけど……」

 と、桜井が、猫のように鼻を鳴らした。しかし、すぐにきょとんとした表情で首を傾げる。

「フードコートでも、言ってたけど、何なの?」

 茅野と西木も怪訝そうに顔を合わせる。

「この甘い香……最近、ふとした瞬間によくするの。そんなときは大抵、誰かに見られているような気配がして……無言電話がかかってきたときも、この臭いが突然して……」

 そう言って、渋谷は不安げな顔で周囲をきょろきょろと見渡した。

 しかし、薄暗い病院の一階ホールには、特に不審な人影は見られなかった。

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