【01】箸休め


 二〇二〇年八月八日。

 その日は朝から酷い雨天であった。すべてが灰色に染まり、前日の猛暑が嘘に思えるほど肌寒かった。

 そんな中、ワイパーが行ったり来たりするフロントガラスを見つめながら、ハンドルを握るのは桜井梨沙である。

 彼女の運転する銀のミラジーノは、藤見市の町中を突っ切り、そのまま駅裏へ。

 田園と住宅街の境に横たわる路地に入り、背の高い杉や竹藪の中に佇む館の門前で停車する。

 茅野循の家であった。

 二日前に扉が吹っ飛んだ玄関口には、青いビニールシートが暖簾のれんのように垂れさがっていた。

 桜井が軽くクラクションを鳴らすと、そのビニールシートの向こうから茅野循が姿を現す。

 小走りで助手席側に回り込み、車に乗り込んできた。

「まだ扉、そのままなんだね」

「今日の昼過ぎに、業者が来るわ。応対は弟に任せてある」

「ふうん」

 と、気のない返事をして、桜井が玄関の方に再び視線を向けると、ビニールシートの向こうから茅野薫が顔を見せて、ぺこりと頭をさげた。

 桜井も右手を振る。

「薫くん、また身長が伸びたんじゃないの?」

 そう言ってサイドブレーキをおろし、車を走らせる。

「この前の練習試合はヘディングでゴールを決めたらしいわ」

「やるねえ」

 と、感心した様子で笑う桜井。

 そして、この日の本題を切り出す。

「……それにしても、何なんだろうね。西木さん」

「ええ」

 と、茅野は頷く。

 二人の元にクラスメイトで友人の西木千里から『心霊ではないけど相談したい事がある』というメッセージが届いたのは、八月七日……九尾天全とのオンライン女子会の最中であった。

 もちろん、二つ返事で了承する桜井と茅野。

 そういった訳で、これから待ち合わせ場所の藤見市郊外にあるショッピングセンター二階のフードコートへと向かおうというのである。

 因みに、まだ詳細は聞いていないので、その相談内容がどんなものなのか二人は知らない。

「でも、私たちに相談するぐらいだから、きっと厄介事よ。まともではないわ」

「だね」

 桜井と茅野はわくわくとした微笑みを浮かべて、ルームミラー越しに目を合わせた。




 夏休みの期間で、土曜日で、雨天という事もあり、フードコートは込み合っていた。フロアに並んだテーブルは、ほとんど埋まっていた。

 桜井と茅野が入り口から見渡すと、奥の席に西木の姿があった。

 どうやら、連れもいるらしい。

 黒髪のツーサイドアップで、西木とは接点がなさそうな普通の女子高生といった雰囲気である。

 桜井と茅野が近づくと、西木も二人に気がつき、にこやかな笑みを浮かべて右手を振った。

「桜井ちゃん、茅野っち、わざわざ、ごめんね。この子、私と同中おなちゅうのまどっち……渋谷円香しぶやまどか

「渋谷です……よろしくお願いします」

 緊張した面持ちで、ぺこりと頭をさげる渋谷。

 桜井と茅野も自己紹介をして、それぞれテーブルに着いた。

「まどっちとは、中学の頃、ずっと一緒のクラスでね。今でもよく連絡を取り合っているの」

「うん」と、少し照れ臭そうに笑う渋谷。

 西木によると、彼女は来津高校に通う三年生で、来津市の外れに住んでいるのだという。

「……で、相談があるのは、この子?」

 と、桜井が西木に尋ねると、渋谷は神妙な顔つきで頷く。

「突然、ごめんなさい。ちょっと、その……困った事があって西木さんに相談したら、そういうの・・・・・が得意な友だちがいるって」

そういうの・・・・・? 心霊案件じゃないんだよね?」

 と、桜井が西木に問うと、彼女は苦笑する。

「いや、そうなんだけど、絶対に二人が得意なやつだから」

 そう言って、渋谷に目線を送り話の続きを促した。

 渋谷は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。

「実は、その……ちょっと前から、私、ストーカーに悩まされていて……」

「なるほど。確かに私たち向けね」

 あっさりと納得して頷く茅野。

 一方の桜井は、ぼそりと「これは腹パンだな……」と言った。

 そんな二人のリアクションに、渋谷は戸惑いの色を見せて、西木に不安げな視線を送る。

 すると、彼女は苦笑しながら、

「いいから、話を続けて?」

 と、言葉を返してきた。

「え、あ、うん」

 渋谷は首を傾げつつも話を再開する。

「始まりは、緊急事態宣言が明けて、久し振りに学校へ行ったときだった。授業が終わって、生徒玄関へ行って、下駄箱の蓋を開けたら……」

 靴の上に四つ折りの便箋びんせんが置いてあったのだという。

 開いてみると、こう記してあった。



 こんにちは。

 突然すいません。

 話したい事があるので、明日の十七時に近くの公園に来てください。

 貴女の家の近くの朝日野町三丁目にある藤棚のある公園です。

 よろしくお願いします。



「……ラブレター? ずいぶんと時代錯誤だけれど」

 茅野が思案顔で言うと、渋谷も同意する。

「うん。それに、ちょっと、その手紙、おかしくて……」

「おかしい? どゆこと?」

 その桜井の疑問に、渋谷は答える。

「まず、朝日野町が、私の家からそんなに近いとも言えないの。まあ、そこまで遠くもないんだけど……」

「その公園と、渋谷さんの自宅はどれくらい離れているのかしら?」と茅野。

 この質問には、西木が答える。

「えっと、たぶん、五キロ……いや、まあ四キロぐらいはあるかな?」

「うん」と、渋谷が頷いた。

「確かに“家の近く”ではないね」

 桜井は肩をすくめる。

「それから、その便箋、何て言うか……端の方が黄ばんでて」

「紙に含まれるリグニンが日光の影響で変色していたって事かしら? つまり古い便箋だった?」

 茅野の問いかけに渋谷は「えっ、えっ……はい」と、面食らいながらも頷く。

 そこで、西木がぞっとしない様子で言った。

「ラブレターだったら、そんな変色した便箋なんか使わないよね」

 その言葉に渋谷は首肯する。

「だから、私も少し変だなって。怖くなって、彼氏と一緒に、手紙に書かれた日時に、その公園に行ってみたんだけど……」

 誰もいなかったらしい。

 そこで渋谷と彼氏は、質の悪い悪戯だったのだろうと、その手紙の事をいったん忘れる事にした。しかし……。

「その次の登校日の朝、学校に着いて靴を内ばきに履き替えようとしたら、また同じ便箋が……」



 昨日は来てくれてありがとう。

 という事は、君は僕を好きっていう事でいいのかな?

 そうなんだよね?

 それでいいんだよね?

 僕のお嫁さんになってくれるんだよね?



「うわ、きっも……」

 桜井がうっそりと吐き捨てた。

 西木も「だよね」と同意する。

「それで、その手紙は、もう捨ててしまったのかしら?」

 その茅野の言葉に、渋谷は自らの鞄を膝の上に乗せて中からジップロックを取り出す。

「最初の手紙は捨ててしまったんだけど、二通目の方なら……」

 と、テーブル越しにジップロックを差し出す。そこには、話にあった通りの文章が記された便箋が、開かれたままの状態で入っていた。

 やはり、端の方が黄色く変色しており、右下にクローバーのイラストがプリントしてある。

 茅野は、その便箋をしげしげと見つめながら問うた。

「そのあと、この手紙の送り主からコンタクトは?」

「えっと、特にこれだっていうのはないんだけど……」

 独りでいるとき、常に視線を感じるらしい。

 学校からの下校時、買い物に出たとき、そして、彼氏とのデートの帰り道……。

「警察には?」と、桜井。

 渋谷は沈痛な面持ちで、首を横に振る。

「一通り話を聞かれたあと『また、何かあったらご連絡ください』って、適当にあしらわれた感じで」

「何かあってからじゃ、遅いっていうのに……」

 西木が憤慨ふんがいした様子で言った。

「それで、これは、関係があるかどうなのか、解らないんだけど……」

 そんな前置きをしたのちに渋谷は語る。

「今週の水曜日のお昼頃、家の電話に無言電話が……。何も喋らないんだけど、少しだけ誰かの息遣いが聞こえてきて……それで、怖くて……」

 その翌日、別件で連絡をしてきた西木に今回の事を思わず相談したのだという。

「……という訳なんだけど、桜井ちゃんに茅野っち。心霊とは少しだけ違うんだけど、お願いできるかな?」

 と、言って二人の顔を見渡した。

 そこで、渋谷がおずおずと疑問の声をあげる。

「あの……ずっと気になっていたんだけど、その、ときおり出てくる“シンレイ”というワードはいったい? “シンレイじゃないけど”とは?」

 しかし、その質問になぜか誰も答えようとしなかった。

 そして、桜井と茅野は顔を見合わせて、にんまりと笑う。

「まあ、最近はハードめのスポットばかりだったから、箸休めにはちょうどいい感じかもね」

「そうね」

 と、茅野は桜井の言葉に同意を示すと、西木、渋谷の顔を順番に見渡し、

「いいわ。私たちに任せて頂戴ちょうだい。そのストーカー野郎を何とかしてあげるわ」

 などと、自信満々に言い放つ。

 渋谷は、余計に不安になり「は、はあ……」と曖昧な言葉を返した。

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