【File38】矢車菊の家

【00】幼馴染みが絶対に勝てないラブコメ


 一九九五年の四月下旬の事。ゴールデンウィーク前のある日の放課後だった。

 杉川正嗣すぎかわまさつぐは、山下美園やましたみそのを自宅近くの公園に呼び出した。

 杉川と山下は、同じ高校に通う同級生で幼馴染みの関係にあった。

 もちろん、この時代に個人が気軽に使える通信端末などポケベルぐらいしかなく、杉川はそれも所持していなかった。

 よって、こっそりと、学校の下駄箱に手紙を忍ばせる。

 名前は記していなかった。

 なぜなら、杉川と山下は幼馴染みといっても、仲がよかったのは小学生にあがる前までの事だった。以降は疎遠となり、気軽に言葉を交わすような関係ではなくなっていた。

 そうした現状から、名前を書けば呼び出しに応じてくれない可能性は充分に考えられた。

 案の定、公園にやってきた山下は、藤棚ふじだなの真下にあるベンチで、先に待っていた杉川の姿を目にした途端、酷く意外そうな顔をした。

「……え? 杉川……くん? あの手紙って、杉川くんなの?」

「ああ、うん……」

 と、頷きながら、杉川はベンチから腰を浮かせて山下を出迎える。

 そして、彼女が昔のように“まーくん”と呼んでくれない事に、心の中で深い失望を覚えた。

 その心を立て直す間もなく、山下は藤棚の軒を潜り、杉川の元までやってくると当然の疑問をていした。

「それで、何の用?」

「あ、その……あの……」

 山下を目の前にして、なけなしの度胸が溶けてなくなり、視線を盛大にさ迷わせる杉川。

 周りにある錆びついた遊具が、まるで墓標のように不吉な物に感じられた。

 空は薄墨色うすずみいろにごり、鬱々うつうつとしている。

 頭上から地面に溢れ落ちるように咲き誇る藤の華やかさが、意気地のない自分を嘲笑あざわらっているかのように思えてきた。

 それでも、もうここまできたら後戻りなどできはしない。

 杉川は友人の言葉を思い出し、勇気を振り絞る。

 うつむいて、自分と彼女の爪先との間にある地面を見つめながら、ゆっくりと言葉を吐き出す。

「ち、小さい頃……よく、き、君と……ここで、遊んだよね?」

「うん。懐かしいね」

 素っ気ない相づちを耳にしながら杉川は思考する。

 “君”という呼称は、少しキザったらしかっただろうか。それとも、昔のように“みーちゃん”と呼ぶべきだったか。やはり、無難に“山下さん”にすればよかったのか……。

「……で、それが、何なの?」

 美園の天使のような声音が、杉川の思考をズタズタに引き裂いて邪魔をした。

 杉川は「あの……その……あの……」と、たっぷりともたつき、再び言葉を発した。

「あのときの約束……覚えている? その、君が僕に……あの、その……」

「約束……?」

 きょとんとした顔で聞き返す山下。

 本気で忘れているのか、それともとぼけているのか……杉川にはよく解らなかった。

「いっ、いや……覚えていないならいいんだ」


 『ねえ。わたし、大きくなったら、まーくんのお嫁さんになったげるね!』


 それは、たわいのない幼き日のごとであった。

 しかし、杉川にとっては、ずっと今日まで続く彼女への想いの支えとなっていた言葉であった。

「あ、ああ……おっ、覚えてないなら別にいいんだけど……」

 杉川は笑って誤魔化そうとする。しかし、山下は怪訝けげんそうに眉をひそめた。

「ねえ、それで、何が言いたいの? そもそも、けっきょく、話って何な訳?」

 急かすような口調で紡がれたその言葉に、杉川の胸のうちに秘めた想いが弾き出される。

「あ、あのっ」

「だから、何?」

「ずっと、好きでした。つき合ってください」

 ようやく口から出た渾身こんしんの告白。

 しかし、山下はあらかじめ用意していた言葉を放り投げるかのように即答する。

「ごめん。無理。今、私、つき合ってる人がいるから」

 大きく肩を落とす杉川。

 そして、たっぷりと数十秒も凍りつき、やっとの事で「ああ……」と気の抜けた声を出した。

 再び顔をあげると、いつの間にか山下美園は、泡沫うたかたの幻のように目の前から消えていた。




 二〇一九年の年始の事だった。

 FW文庫編集者の黒峰徹くろみねとおるは、自ら担当する作家の寺井秀太てらいしゅうたを渋谷道玄坂の雑居ビル地下にあるスペインバルに呼び出していた。

 慰労いろうと、原稿の進捗しんちょくを確かめる為である。

 寺井は売れっ子であり、順調に既刊を重ねていた。デビュー作でもある『傷だらけの俺をひたすら甘やかすだけの堕女神ちゃん』シリーズは、アニメ化もされている。

 しかし、二〇一六年のデビュー以来、かなりのハイペースで順調に新刊を上梓じょうししてきた彼であったが、ここ一年近くは刊行が止まっていた。

 どうも、展開に詰まっているようなのだが……。

「……で、先生。原稿は、どうなっています?」

 他愛もない話題が過ぎ去り、ずいぶんと酒が回った頃に、黒峰は本題を話を切り出した。

 すると、寺井は露骨に顔をしかめながら、皿に盛られたイベリコ豚の生ハムをフォークですくう。

「やってるよ。ちゃんと……」

「どれくらいで、あげられそうですか? 目処めどが立ちそうなら、こちらもそれに合わせてスケジュールを組ませてもらいたいのですが」

「……んな事を言われてもさ」

 と、言葉を濁し、寺井は唇を尖らせてカタルーニャ産の白ワインをあおった。

 そして、黒峰の質問に答える事なく、たらのクロケッタにフォークを突き刺す。そのまま、不機嫌そうな顔で黙り込んでしまった。

 これは、完全にへそを曲げられたと黒峰は内心で苦笑する。

 そして、事態が思ったより深刻である事も再認識した。

 彼がこんな風に書けなくなった原因については、心当たりがあった。

 アニメ放送に合わせて出版された『傷だらけの俺をひたすら甘やかすだけの堕女神ちゃん』略して、『キズダメ』の十二巻の評価が散々だったのだ。

 正直に言えば黒峰も十二巻のクオリティに関しては、納得がいっていなかった。

 これまで彼が見せてきた読みやすい文体で紡がれる絶妙なストーリーテリングはすっかりとなりを潜め、描写は回りくどく、展開も雑だった。

 何度かリテイクはさせたが、それでも改善の気配はいっこうに見られなかった。

 そうこうするうちに〆切が迫り、焦った黒峰はそのままの内容でGOサインを出した。

 恐らく寺井はアニメ化における慣れない各種作業に忙殺され、少し調子を崩しているのだろうと……。

 そして、普段から黒峰は、ラノベ読者などキャライラストがよければ何でもいい文盲もんもうだと見下していた。その為に少しぐらい内容が悪くても文句は言われないだろうと考えた。

 しかし、結果は黒峰の希望的観測通りにはならなかった。

 ネット上には寺井やキズダメに対する辛辣しんらつな言葉が並び、作品への批判が吹き荒れる。

 やれ、アニメ化して調子に乗っているだの、寺井の手抜きだの、寺井の才能が枯渇しただのと……。

 編集の無能を叫ぶ声も少なくはなかった。

「ねえ、黒峰さん……」

 暗い顔で寺井は残ったアヒージョのオイルにバケットを浸した。

「俺は工業機械じゃねえんだよ……頭の中で材料を入れて、がっしゃん、がっしゃん、ぴー、ぴー、で小説ができあがってくる訳じゃねえんだ……」

「ええ。解ります」

 黒峰は親身な表情で頷き、彼の言葉に同意を示す。

「それを世間の連中は解ってねえ……何なんだよッ! 人の苦労も知らずに……俺は芸術家アーティストなんだッ! 他の売文屋どもと一緒にするんじゃねえよ」

 だん、とワイングラスの底を勢いよくテーブルに叩きつける。

 荒れ始めた寺井に対し、黒峰はできる限り、落ち着いた声音で優しい言葉をかけようとする。

「そうですよね。世間は本当に先生の仕事に理解がない……」

 しかし、内心では、ラノベ作家風情が芸術家を気取るとは片腹痛いと、鼻白んだ気分になっていた。

「……でも、それでも、待っているファンだっています。ゆっくりでいいんで頑張りましょう」

「ああ……ああ……」

 寺井が心ここにあらずといった様子で首を縦に揺らす。

 溜め息を吐き、黒峰は自分のグラスに口をつける。

 どうせライトノベルなんざ、美少女のエロ絵がメインで文章はオマケなんだから適当にとっとと仕上げろ……と、怒鳴りつけたくなったが、どうにか堪える。

「さあ、先生、それじゃあ、今日は気分転換という事で、ぱーっと、いきましょう!」

 そして、精一杯の愛想笑いを浮かべるのだった。

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