【14】後日譚


 八月三日の夜だった。

 血のような赤で統一された悪趣味な調度品。

 棚に並ぶ不気味な品々や書籍……そして、一匹のまむしが瓶の中で虚ろな目つきをしながら漂っている。

 その隣には、額縁に入れられた猿の写真があった。茂みの中から立ちあがり、カメラの方を振り返っている。

 茅野循の自室である。

 そして、机の上のノートパソコンには、桜井梨沙と九尾天全の姿が映し出されていた。

 この日の話題は当然ながら、昨日の馬頭村での一件である。

 既に九尾を介して一報を受けた穂村は、関係各所への連絡や説明、情報統制に頭を悩ませているのだという。

 最終的な落としどころは“月輪熊による被害”という事になるらしいのだが……。

『……それで、けっきょく、あの猿って何なの?』

 桜井の質問に九尾は少しだけ思案したのちに口を開いた。

『それは、猿の姿をしているけど、まったくの別のモノよ。わたしたちは、鬼猿キサルとか避猿ヒサルと呼んでいるわ』

 そこで茅野が大きく目を見開く。

「じゃあ、あの猿は……」

『そういう事になるわね』

 と、九尾が言うと、桜井は首を傾げた。

『どゆこと?』

「あの猿は“ヒサルキ”に関連した存在らしいわ」

 この茅野の言葉に対して、九尾が首肯する。

 しかし、桜井の表情はますます混迷の色を深めるばかりであった。

『ヒサ……ルキ?』

 いつものように、茅野の解説が始まる。

「“ヒサルキ”とは、ゼロ年代初頭に、インターネットの各所で投稿された書き込みによって、その存在が言及されている怪異の事よ」

 この“ヒサルキ”のネット怪談としての特性は、ひとつのエピソードだけではなく、別々の場所に投稿されたいくつかのエピソードから成り立っているところだろう。

 それらは、何かに憑依された人間の目撃談であり、串刺しになった小動物や昆虫にまつわる体験談であったり、猿に関連した何かの伝承であったりと、内容はまちまちである。

 一見すると、まったく別な場所で別な時期に発生した怪異であるかのように思われる。

 しかし、その投稿内容には、いくつもの共通点が見られ、とても無関係とは思えない。

 そして、それらのすべては“ヒサルキ”または“ヒサユキ”など、それと類似した言葉で繋がっている。

『……正確には同系統の怪異からなるエピソード群の総称よ。ヒサルキ関連に分類されるネット怪談は、すべてが同じ怪異にまつわる話ではないけど、まったくの無関係という訳ではないの』

「つまり、私たちが出会ったあの猿は、“ヒサルキ”と呼ばれる都市伝説を構成する一つの欠片であるという事ね?」

『そういう事になるわね』と九尾。

 桜井は二人の話を聞いて『ふうん』と、いつも通りの解っているのか、解っていないのか不明な相づちを打った。

 そして、九尾が更に話を続ける。

『鬼猿は取り憑いたものを狂暴化させ、殺戮さつりくに走らせる存在なんだけど、その起源に関する伝承は失われていて、正体はよく解っていないわ』

『じゃあ、元々は普通のお猿さんなんだ。身体が大きかったのも、取り憑かれたせい?』

 桜井の言葉に頷く九尾。

『そうね。鬼猿は取り憑いた猿の中身を喰らって膨れるのよ・・・・・。最終的に、外見は大きくなるけど、ほとんど骨と皮だけになる』

『ああ、だから、図体の大きさやパワーの割りには、妙に軽かったんだ』

『因みに鬼猿はいったん取り憑かれてしまうと、とても厄介だけど、“相性”の幅が狭くて、ほとんどが猿にしか取り憑けない……』

 万物には“相性”というものがあり、その“相性”が合わないものに霊は憑依する事ができない。

『……あとは病人や人間の子供、犬なんかに憑依する事がまれにある程度なんだけど』

 すると、そこで桜井がしょんぼりとした顔で肩を落とした。

『ただのお猿さんが取り憑かれていただけなら、悪い事をしたかな……。普通の腹パンにしておくんだった』

 九尾が苦笑する。

『いや、まあ、何で腹パンかは知らないけど、鬼猿に取り憑かれた猿は、もうほとんどが助からないから』

 そこで、茅野が質問を発した。

「けっきょく、その鬼猿という存在は何なのかしら? 鬼や悪霊? それとも妖怪や山の神?」

 九尾はしばらく思案したのちに、その質問に答える。

『そうね。しいて言うなら“霊的な寄生虫”かしら?』

「寄生虫ね。なるほど……」

 と、茅野は納得した様子で頷いた。

 すると、九尾が呆れ顔で嘆息たんそくする。

『それにしても、あなたたち……』

「何かしら?」

『何? センセ』

『いや、何か麻痺してたけど、よく生き残れたなって……』

 鬼猿は縄張りに入った者を容赦なく襲う。

 普段は滅多に縄張りから出る事はない。しかし、いったん縄張りに足を踏み入れた者は、まず助からない。

 たとえ縄張りの外に逃げ出したとしても、しつこく追いかけてくるのだという。

 執念深い上に、身体能力だけではなく、知能も高い。

 出会った者は、高い確率で死に至る恐るべき怪異である。

 だが、桜井と茅野の二人は……。

「まあ、けっこう、楽しませてもらったわね。猿のくせに」

『猿にしては頑張ってたよね』

『いやいや、何で上から目線なのよ!』

 九尾は力いっぱい突っ込んだ。


 ……この日のリモート女子会も夜遅くまで続いた。





 それから数日後の昼さがりであった。

 そこは馬頭村の近隣にある頽場岳の山麓さんろくであった。

 地元民からは『らず沢』とか『避沢ひざわ』などと呼ばれている場所で、山頂から見おろすと横向きになった馬の頭部の形をしている。

 二〇〇五年に馬頭村で遭難者の下顎したあごが発見されたときも、地元猟友会はこの沢の捜索を請け負う振りをして、いっさい足を踏み入れる事はなかったのだという。

 それほど、地元では禁忌とされている土地であった。

 その沢の底へ続く斜面を、木陰のやぶの中から猟銃のスコープでのぞくのは、白髪混じりの偉丈夫いじょうふであった。

 彼の名前は田中太夫。

 いざなぎ流の陰陽師であり、腕利きのベテラン狐狩りでもある。

 その彼がスコープ越しにとらえるのは、岩場の斜面を駆け降りる一匹の猿だった。

 日本猿によく似ているが、その身体は大きく、小柄な人間ぐらいはあった。

 襤褸布ぼろきれをマントのように羽織り、首が不自然にぶらぶらと揺れ動いている。

 桜井たちが馬頭村で遭遇した鬼猿であった。

 田中は数日前、警察庁の穂村一樹より要請を受けて、今回の案件の対処に当たっていた。

 彼が事前に行った情報収集で知り得たところによると、この沢が元々の鬼猿の縄張りに当たるらしい。

 しかし、その縄張りは徐々に大きくなり、鬼猿の版図は廃虚となった馬頭村まで広がっていた。

 何でも馬頭村では、かつて山の神が村に降りて来ないように祈る儀式を行っていたらしいのであるが……。

 ともあれ、二日ほど、この沢の近辺で夜営をして、ようやく標的の鬼猿を発見した次第であった。

 しかし、田中はスコープをのぞいて首を捻る。

「聞いた話とずいぶん違うな……」

 なぜなら、彼の知識では、鬼猿はとても狂暴で、縄張りに侵入した者を絶対に見逃しはしないはずだった。

 しかし、この鬼猿はどういう訳か、田中と出会った瞬間に、悲鳴のような鳴き声をあげて逃げ出したではないか。

 なぜか人間である田中を猛烈に恐れていた。

 今回も清戸町の一件で話にあった女子高生二人が関わっているらしいとは聞いていたが……。

「まあいい」

 余計な詮索はあとにしよう。田中は雑念を追い払い、レティクルの中央を猿の頭部に合わせてトリガーを引いた。

 銃声と硝煙。鬼猿の頭が半分ほど砕ける。岩場に倒れ込んだ。

 田中は立ちあがり、ボルトを前後させると身を潜めていた藪から姿を現す。

 斜面を降り、倒れたまま動かない鬼猿の元へ向かった。

 一応、銃を構えていたが、これ以上は撃とうとは思わなかった。肉体の損傷が大きくなり過ぎると、中身が漏れて逃げ出してしまう。

 完全に殺すには、肉体ごと燃やすしかない。

 鬼猿は身体を小刻みに痙攣させながら、地べたを這って逃げようとしている。まるで、反撃の意思を感じない。

「やれやれ……」

 その二人の女子高生は、いったい何をしでかしたんだ……そんな疑問を頭に思い浮かべながら、田中はリュックから油瓶を取り出す。

 鬼猿の背中に、瓶の中身をぶちまける。

 次にベストの胸ポケットから、オイルライターとショートホープを取り出した。

 フィルターをくわえ、煙草に火を灯して煙をくゆらせる。

「今回も楽な仕事になってしまった……」

 そう言って、田中は指先のショートホープを油まみれの鬼猿の背中に向かって弾き飛ばしたのだった。






(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る