【10】虐殺


 しわだらけの赤ら顔。

 その口の両端は大きく吊りあがっている。

 人間によく似ていた。しかし、その発達した犬歯と、輪郭を覆う金毛こんもう、小さな穴のような瞳は、野生のものであった。

「……なっ、何なのよ……これ……」

 野島がひざを震わせ、隈笹くまざさの中に浮かびあがった猿の顔と、倒れたまま動かない前沢を交互に見渡す。

 前沢の左側頭部ひだりそくとうぶには大きな凹みができており、髪の毛がべったりとピンクに近い新鮮な血液で濡れそぼっていた。

 その開かれたままの双眸そうぼうに、生命の輝きはもうない。

「姫、後ろへ……」

 池田がそう言って、野島をかばうように縁側の方へと向かって立った。

 森山、堤川が彼の横に並んで壁を作る。

 すると猿は、そのままニヤニヤと笑いながら、やぶの中から姿を現す。

 その異様な姿を見て、野島たちは息を飲んだ。

 猿の身長は百六十程度。

 マントのように襤褸布ぼろぬのを羽織っており、その裾からのぞいた長い両手で消防斧をたずさえていた。

 その禍々しさに柊が顔をしかめると、猿はカチカチと歯を鳴らした。直後、斧を振り回しながら猛然と突っ込んできた。

 野島の絶叫が轟く。池田が声を張りあげた。

「逃げるぞッ!!」

 猿に背を向けて駆け出す四人。

 柊が叫んだ。

「待って! 私を置いていかないで!」

 しかし、誰も彼女の言葉など聞き入れようとしない。

 猿が堤川の背中に飛びかかる。

「うわっ、ちょっ! 助けてえええ……」

 つんのめって転倒する堤川。彼の背中に足を乗せ、猿が消防斧を振りかぶる。

 しかし、彼を助けようとするものは誰もいない。明かりと足音が遠ざかってゆく。

「うわっ……うわっ……いやっ、いやあああああッ!!」

 日は沈みかけており、辺りは闇に包まれようとしていた。

 開け放たれた縁側から射し込む黄昏色たそがれいろの乏しい自然光だけが、唯一の光源であった。

 しかし、その薄暗がりの中、はっきりと柊は目にする事となる。

 堤川の頭が斧で叩き割られ、赤々とした中身を畳にぶちまけるところを……。

「ひぃッ!」

 猿が堤川の頭に振りおろし、畳にめり込んだ刃をゆっくりと引き抜く。

 そして、返り血にまみれた顔で、肩を揺すりながらカチカチと歯を鳴らす。

 その瞬間、柊は理解した。

 この猿は人間を狩る事を楽しんでいるのだと……。

「やっ、ややや……やめてぇッ!」

 盛大な絶叫をあげる柊。

 次は自分の番だ。そう覚悟を決めた。

 しかし、猿はどうやら縛られた彼女は後回しでよいと判断したらしい。

 先に逃げた三人を追って、猛然と駆けていった。




 そこは廃屋の玄関まで続く長い廊下であった。

 ばきん、と木板の割れる音が鳴り響き、木屑が舞い散る。最後尾を走っていた森山が床板を踏み抜いたのだ。

 野島と池田が共に彼の名前を呼びながら振り返る。

 しかし、廊下の奥から血の滴る斧をたずさえてやってくる猿の笑顔を見て悲鳴をあげ、再び玄関の外へ向かって駆け出す。

「待って! 待ってよぉ!」

 何とか足を引き抜いて、立ちあがる。振り向くと、既に斧を高々と振りあげた猿が、目と鼻の先にいた。

「うっわああああ……」

 叫び声をあげて、振りおろされる寸前だった斧の柄を両手で掴んだ。押し合いとなる。

 森山はでっぷりと肥えてはいるが、総合格闘技の経験もあり、膂力りょりょくは強い。体格だけでいったら猿よりもずっと大きかった。

 しかし、あっさりと押し負け、尻餅を突いてしまう。血塗れの刃が彼の顔面に迫ろうとする。

「あああ……ちっくしょぉお……」

 最近は姫を守護するためなどと、ダンベルトレーニングに精を出していたが、そんな努力など、この局面に置いて何の意味もなかった。

 それでも、どうにか堪えようと、斧の柄を掴んだ両腕に力を込めるが……。

「は……?」

 斧が軽くなる。

 次の瞬間だった。

 鼻先にあった猿の顔が笑う。口角を吊りあげて歯をカチカチと鳴らした。そのまま森山の右の首筋に噛みついた。

「あああああ……」

 まるで、林檎をまるかぶりしたときのような音がした。

「あ……あ……」

 噛みちぎられた首筋から、びゅうびゅうと鮮血を吹き出し、森山は目蓋を震わせる。

 その彼の視界が最後にとらえたのは、噛り取った肉片を歯に挟んで見せつけるように笑う、猿の顔だった。





 すっかりと日は沈み、辺りは深い闇に包まれていた。それは、街の明かりも、月や星明かりすらもない真の闇であった。

 その中を揺れ動く懐中電灯の明かりが二つ。

「……待って……待ってよ……池田くん」

 野島と池田の二人は、どうにか村の端から続く山道まで辿り着く。

 あとは渓流の河原を目指すだけであったのだが、完全に道に迷ってしまった。

 当たり前である。

 同じような景色が続く山深い森の中で、明かりがあるとはいえ視界は悪い。迷うなという方が難しい。

「池田くん……もう無理……」

 そして、野島の体力が限界に近づいていた。立ち止まり、腰を折って荒い息を吐き始める。

「姫……」

 気遣わしげに声をかける池田。

 すると、野島が顔をあげて、声を張りあげる。

「ちょっと! 本当に道はこっちでいいの!?」

「いや……その……」

 ばつの悪そうな顔で目を逸らす池田。

 そして、誤魔化すように言った。

「今日は、ここで、朝を待ちましょう」

「嫌よッ! あの猿が……猿が来る……嫌ッ!!」

 駄々っ子のように首を振って叫ぶ野島。

 池田は彼女の顔をのぞき込みながら、あくまでも落ち着いた声音で言い聞かせる。

「大抵の猿は人間と同じで夜目が利きません。きっと、向こうは諦めたと思います」

 そう言って池田は、泣きじゃくる野島の背中に手を置いた。

「安心してください……拙者がついています」

 すると、野島が池田の手を払い除けて、ヒステリックに叫んだ。

「五月蝿いッ!! お前なんかいても……お前なんかいても仕方がない……」

 そこで、野島は両手で顔を覆い、しゃがみ込んだ。

「ヒデくん……あああああ……」

 池田は大きく溜め息を吐いて立ち尽す。

 本当に、前沢英人あんな男のどこがよいというのか。

 思いの深さは自分の方が上だというのに。

 ここまで、ないがしろにされても、まだ付き従っているのは自分だというのに。

 池田は、まだ野島美姫への献身を忘れていなかった。

 しかし、それは、何があっても姫への愛を貫く自分が大好きなだけの、単なるナルシズムでしかない事に、彼は気がついていなかった。

「確かに、前沢氏の事は残念でしたが……」

 答えはない。すすり泣きの声が返ってくるのみだった。

「今、あなたの隣にいるのは、この池田俊であります! だから、姫! もっと、この池田を……」

 と、その言葉の途中だった。

 頭上の木立がガサガサと音を立てた。すると、木の枝から飛び降りた猿が彼の背後に落ちてくる。

 池田が驚いて背筋を震わせ、後ろを振り向いたのと同時だった。

 凶刃が弧を描く。

 消防斧が池田の首を一気にね飛ばす。

 野島はしゃがんだまま、その一部始終を呆然と見あげていた。

 両肩の間から吹き出す惨劇の赤いシャワーが降りそそぐ。

 飛沫が地面に置かれたLED照明に影を作った。彼の生首は近くの木の幹に当たって地面に転がる。

 すべてがスローモーションのようにゆっくりと見えた。

 そして、倒れかかってきた首のない池田を汚らわしい物のように跳ね除けて、野島は絶叫しながら運命を呪った。

 ヒロインは自分だったはずだ。

 野島美姫は、この『こっぺりあ』というサークルを中心とした青春物語の主人公であったはずだ。

 前沢英人という王子様と結ばれ、気の合う仲間と共に、ずっと楽しい時間を過ごすはずだった。

 それなのに、どうして、こんな事に……。

 しかし、血塗れの猿はカチカチと歯を鳴らすばかりで、その疑問に答えてはくれない。

 断末魔の悲鳴が闇夜の静寂せいじゃくを震わせた――。

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