【File36】馬頭村
【00】笑顔
ナイロンの布地と、木の葉のこすれあわさる音が鳴る。
荒い息遣いと共にトレッキングシューズの靴裏が、地面に転がった小枝をへし折る。
そこは福島県の県境に位置する山間部であった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
必死の形相をした男が道なき山肌を降っている。
ウィンドブレーカーにナイロンのパンツ。首には手拭いを巻いている。
歩を進める度に背中のリュックの中で水筒の氷がカラカラと音を立てた。
その足取りは疲労でもつれ、限界が近づいていた。もう長くはもたないであろう。
不意に背後で、木立がざわめく。
「ひぃっ」
彼は首を後ろに捻り、かすれた悲鳴をあげた。
すると、その拍子に足を踏み外し、バランスを崩す。尻餅をついて、遊具の滑り台のように傾斜を滑り落ちる。
「うわあああああっ……」
そのまま、十メートルほどの
擦りむけた
すると、前方に横たわる笹の茂みの向こうに木造の家屋が見えた。どうやら人家らしい。その奥にも、そのまた奥にも……。
見るからに荒れ果てており、人が住んでいる気配はない。そこは、廃墟の村だった。
男は必死に茂みを掻き分けて、手前にある廃屋に身を隠す事にした。
表に回り、ひび割れて赤茶けた波板の玄関ポーチへと入る。その奥にあった磨り硝子の引き戸に手をかける。
運よく施錠はされておらず、あっさりと玄関は開いた。
男は倒れ込みながら敷居を跨ぐと、慌てて膝立ちになって玄関の戸を閉めた。
それから、土足のまま
廃屋の中は酷い有り様であった。
男は
そこは裏庭に面した六畳の和室であった。
その押し入れの下段へと腰を屈めて潜り込み、引き戸を閉めた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
奥の壁に背をもたれ膝を立てる。
ウィンドブレーカーのポケットから二つ折りの携帯電話を取り出して開く。
ブルーライトの明かりが、ぼんやりと彼の顔を照らした。
画面の左上の隅に標示された“圏外”の文字を見て、彼は表情を歪めた。
しかし、まだ電池はたくさんある。
このまま、ここで隠れて
現在地はさっぱりと解らなかったが、この場所がどこかの廃村ならば、必ず
そうであるなら、状況はさほど絶望的ではない。
その結論が正しいか否かはさておき、ほんの少しだけ彼の心に余裕が産まれる。
身体を捻り、リュックの中から水筒を取り出す。
蓋を開けようとした、その瞬間だった。
不意に外から硝子の割れる音が聞こえてきた。
更にめきめきと床を
男は暗闇の中で大きく目を見開き、まるで彫像のように身体をこわばらせた。
……
「ああぁ……うぅ……」
男は口から漏れそうになった悲鳴を両手で抑える。
男の心に黒々とした絶望が広がってゆく。もう、きっと、逃げられない……。
足音が六畳の和室の腐った畳を踏みしめる。ゆっくりと、
足音がぴたりと止まった。
微かな息遣いと共に伝わってくる禍々しい気配に、その身を震わせていると、押し入れの戸がおもむろに開かれた。
射し込む
すると、眼前にあったのは笑顔だった。
しわだらけの笑顔。
「ひっ……」
男は絶叫した。
あらん限りの力を振り絞って叫んだ。
しかし、その悲鳴は誰の元にも届かない。
次の瞬間、毛むくじゃらの右手が伸びて、男の
悲鳴が止まり、湿った破壊音が鳴り響く――
『廃村で行方不明者の下顎を発見』
2005年7月30日、福島県との県境に位置する廃村で、人のものと見られる下顎が見つかった。
発見したのは近くのキャンプ場を利用していた県内在住の大学生グループで、廃村には肝試し目的で訪れた。
発見当初は、野生動物の下顎だと思われたが、グループの一人がすぐに奥歯の詰め物に気がつき、警察へと通報した。
下顎の持ち主は歯の治療痕などから、福島県在住の男性(39)のものだと判明した。
この男性は5月3日に近隣の
なお、彼と共に行動していた同僚3名の消息も依然として解っていない。
(2005・7・31 北越新聞より)
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