【File35】おにぎり坂

【00】告げる者


 藤見女子高校に通う岡村十和子おかむらとわこが“それ”を目にしたのは二〇二〇年二月五日の事であった。

 その日は朝から陰気な空模様で、重苦しい湿気に満ちた教室内は朝から薄暗かった。中庭に面した窓硝子はずっと冷たい雨に濡れ続けていた。

 早々に各教室では電気が灯され、まるで深い夜の中にいるかのような錯覚を覚える。

 こんな日は決まって憂鬱ゆううつな気分となり、岡村は心ここにあらずといった調子で、ぼんやりと過ごす事となった。

 授業内容はもちろん、休み時間のクラスメイトたちの話し声も、鼓膜をすり抜けるようにして頭に入ってこない。

 すぐ目の前の風景も、画面越しに眺める動画のような現実感のなさがあった。

 そんな風に、ぷかぷかと地に足がつかないまま午前中が終わり、昼休みとなる。

 友だちのいない岡村は、独り教室中央の席で持参した弁当箱を開いた。

 そして、真ん中に梅干しが乗ったご飯にはしを突き立てた瞬間だった。

 ごろごろ……と、雷雲の唸り声が聞こえた。

 教室にいた誰かが短い悲鳴をあげる。

 ますます気が滅入り、岡村は何気なしに外へと面した窓の方を見た。

 すると、蛍光灯の明かりに反射した教室内の様子が窓に映り込んでいた。

 その自分の頭の後ろだった。

 いつの間にか誰かが立っている。

 見覚えのある鶯色うぐいすいろと白のワンピース。初めは学校の教師の誰かだと思った。しかし、おかしい。

 なぜ、声も出さずに佇んでいるのか。

 なぜ、ぴくりともそこから動こうとしないのか。

 自分は何か見てはいけないものを見ているのではないか……そんな予感を強く覚えて振り向けない。

 そして、岡村は気がつく。

 肩まで届く長い黒髪……低い鼻……切れ長の一重ひとえ

 その人物の顔が・・・・・・・自分と瓜二つ・・・・・・であるという事を・・・・・・・・……。

「ひっ」

 悲鳴が唇の隙間から漏れた。

 直後に、窓の外から雷光がまたたく。いくつかの悲鳴があがった。

 雷鳴により湿った空気が震える。

 そのときにはもう、自分とそっくりな顔の人物の姿は窓に映っていなかった。

 まるで金縛りが解けたかのように周囲を見渡し、唖然とする。

 あれはいったい何だったのか……何かの見間違いだろうか……。

 首を傾げて弁当に目線を落とす。取り合えず、ご飯に刺したままだった箸を動かそうとした。

 すると、そこで、ぷつ……ぷつ……と、ノイズの音が聞こえてスピーカーから声が響く。

『二年二組の岡村十和子さん、二年二組の岡村十和子さん、至急、職員室まで来なさい……』

 担任の雨宮元紘あまみやもとひろの声だった。

 教室にいた同級生たちの視線が、すべて自分に集まるのを感じた。

 岡村は戸惑い、首を傾げる。

 何か呼び出しを受けるような心当たりなどまったくなかった。

 彼女はおとなしく、素行が悪い訳ではない。成績もよい方だし、部活にも委員会にも入っていない。その事は自覚していた。

 ……では、いったい何なのだろうか。

 それに、このタイミングというのがどうにもせない。

 あの自分と瓜二つの人影を見た直後の今というのが……。

 曖昧模糊あいまいもことした不安が込みあげ、眉間に深いしわが寄る。

 岡村は少しだけ悩んだあと弁当箱をしまう。

 不躾ぶしつけな視線に晒されながら教室をあとにした。




 雨水の滴る窓の向こうから、青白い雷光が射し込む。雷鳴が陰鬱な雨音をかき消す。

 薄暗い廊下を渡りながら、岡村は考える。


 “ドッペルゲンガー”


 その言葉は知っていた。

 ドイツ語で“二重に歩く人”という意味らしい。

 自分とまったく同じ顔の亡霊。

 不吉な予兆として、様々な文学作品や伝承に登場するそれを見た者は、破滅の運命を辿るのだという。

 教室であれを目撃した際に込みあげた恐怖が再び蘇り、岡村は己の肩を抱いた。

 写真などではない自己像。

 それが自分ではない赤の他人として存在し、それを目にするというのは、こうも不安を掻き立てられるものなのかと、岡村は思い知った。

 自分と同じ顔が、どんな怪物よりも気持ち悪くて恐ろしく感じられた。

 しかも、なぜ、あの・・ワンピースなのだろう。岡村はあのワンピースに一度も袖を通した事がない。今後、着るつもりもなかった。

 やはり、ついさっき見たあれは、何かの見間違いなのか……それとも幻の類なのか……。

 けっきょく、しっくりと来る解釈を見つける事ができぬまま、岡村は職員室へと辿り着いた。

 扉は開いていたので「失礼します」と言いながら一礼して足を踏み入れる。

 何人かの教師が昼食を取っている最中の、その雑然とした室内を横切り雨宮の元へと向かう。

「おお、来たな」

 キャスターつきの椅子に腰をおろしていた雨宮がくるりと身体の向きを変えて、岡村に向き直る。

 同時に雷光がまたたき、間髪入れずにつんざくような雷鳴が轟いた。落ちた場所はずいぶんと近い。

 岡村は肩をすぼめてから、雨宮に恐る恐る尋ねた。

「えっと、先生……それで、何でしょう?」

 すると、雨宮は、ふう……と、鬱々うつうつとした溜め息を吐き出して言った。

「あー、落ち着いて聞いてくれよ?」

「はい?」

「君のお父さんが、職場で倒れたと連絡があった。駅前の県立病院に運ばれたらしい」

 岡村は言葉を詰まらせて、大きく目を見開いた。

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