【10】ドタキャン


 二〇二〇年六月二十六日

 時刻は十二時五十分頃。

 それは果南市のコンビニだった。

 自動ドアが開き、アイス珈琲のカップを二つ持った茅野循が姿を現した。

 彼女は駐車場のすみに停めてある銀のミラジーノの元へと歩いてゆき、助手席に乗り込んだ。運転席の桜井にカップを渡す。代わりに彼女から手作り弁当を受け取った。

 二人はここで探索前の腹ごしらえをするつもりだった。

 可愛らしいライオンの弁当箱を開けると、中にはピラフやチリコンカン、香ばしい焼き目のついたチキン、色とりどりのパプリカが綺麗に詰め込まれている。

 そのまま二人は弁当箱を膝の上に乗せて食べ始める。

「あら。これは、かなり本格的な、タンドリーチキンじゃない」

「いや、タンドリーチキンだね。タンドール釜を使った訳じゃないから」

 などと、桜井が妙なこだわりを見せたところでスマホの着信音が鳴った。

「あら。私のスマホね」

 茅野はアイス珈琲で口の中のチキンを押し流し、スマホを手に取る。

「誰から?」

「楪さんからだわ」

「何かあったのかな?」

「どうかしら?」

 と、茅野は首を傾げて、スマホの電話ボタンを押した。スピーカーフォンにしてダッシュボードの上に置く。

 すると、楪の声が聞こえてきた。

『もしもし……』

 なぜか釈然としない様子の声であった。

 茅野は桜井と顔を見合わせ、スマホに向かって問いかける。

「何か変わった事でもあったのかしら?」

『それが……情報収集のためにだけど、今日、その男の子……宮野くんの事を誘ったの』

「グイグイいくねえ……」と桜井。ピラフをもぐもぐとやり始める。

「それで、どうだったのかしら?」

 茅野は話を促し、ガムシロップをたっぷり入れて甘くした珈琲をずるずるとストローですすった。

『それで、海に釣りへ行く事になったんだけど……』

「何釣り?」

 桜井の質問に、楪は『何かさびき釣りとか言ってた』と答える。

「……渋いね」

 と独り言ち、桜井がチキンを噛り始める。

 茅野が話を軌道修正する。

「それで、どうしたのかしら?」

『それで、コンビニで買い物をして、釣具屋で餌を買って海の方に行って……』

 防波堤に着いたのが十一時三十分頃だったのだという。

 それから餌や仕掛けを準備して、釣り方を教えてもらい、雑談をしながら釣糸を垂らしていると……。

『そうしたら、宮野くんのスマホに電話が掛かってきて……』

「誰かしら?」

『宮野くんのお父さんだって。何か電話するうちに宮野くんの顔がどんどん不機嫌になってきて……それで、電話が終わったあと、宮野くんが“ごめん、帰らなきゃ”って。お父さんに家に帰ってこいって言われたらしくて』

「それは、残念だったねえ……」

 桜井はパプリカをカリカリと頬張った。

 どうも宮野が言うには、昨日からずっと彼の母親の元気がなく、それに関連しているかもしれない……との事だった。

「……という事は、その宮野くんにも、父親がなぜ、自分に帰ってこいと言ったのか、具体的な理由は解らないっていう訳ね?」

『うん。そう。よく解らないけど、兎に角、“お母さんが大変だから帰ってこい”って言われたみたい』

「循……これは……」

「生まれ変わりの件と関係があるかは、微妙そうだけど……」

 そう思案顔で呟いたのちに、茅野は楪に問うた。

「……そういえば、宮野くんは昨日、例の夢を見たのかしら?」

 すると、楪は『あー』と声をあげる。

『見たって。またちょっと違う夢だったみたい』

「どんなの?」

 と、桜井に促されて楪は、宮野颯天から聞き出した夢の内容を話し始める――


「……なるほど、さっぱり解らん」

 桜井が清々しいまでにきっぱり言い切った。

 茅野は再びうつ向きながら「唇の右端に黒子……虹の彼方……」などと、ぶつぶつ呟き始めた。

 すると、楪の申し訳なさそうな声が聞こえてきた。

『あ、あの……私の情報収集、役に立たなかったかな?』

 そこで茅野は、はっ、と顔をあげて明るい口調で言った。

「いいえ。とっても。興味深かったわ」

「うんうん」と腕組みをしながら頷く桜井。

 すると楪は打って変わったような明るい声音で言う。

『そ、そう。ならよかった。じゃ、じゃあ、お仕事、頑張ってね? 循お姉ちゃん、梨沙お姉ちゃん』

「うむ……」

「ええ。また、何かあったら知らせて頂戴ちょうだい

『りょうかいしました!』

 そう言って、楪は通話を終えた。

 途端に静まり返る車内。

 そこで、桜井が一言。

「別に仕事ではないんだけどね」

「まあ、そうね。サンタクロースにとってプレゼント配りは仕事ではない……それと同じね」

 そう言って肩をすくめ、茅野は先割れのスプーンをピラフへと突き刺す。

「それにしても、虹の彼方だっけ……? 何なんだろう。天国的なやつかな?」

 桜井がそう言って眉間にしわを寄せると、茅野はドリンクホルダーから珈琲カップを持ちあげながら首を横に振った。

「……というより、地獄ね」

「どゆこと?」

「二〇一二年に殺された徳元亮二の著作で“博愛教会事件の真実”という、教団について書かれたルポタージュがあって、それによると……」

「うん」

「末期の博愛教会……一九九五年以降は、教団内では粛清しゅくせいが横行していたらしいの」

「仲間割れか。いやだねえ。大切なのは友情、努力、勝利でしょ」

 桜井が顔をしかめる。

「まあ宗教、政治結社から不良グループまで、この手の団体ではさして珍しい事ではないわ」

「そなんだ」

「それで、粛清の対象者は“再教育”の名の元に酷い暴力を受けたそうなんだけど……」

 再教育を受ける者は、懲罰房ちょうばつぼうに監禁されたらしい。そこで理不尽な制裁を数日間に渡って受け続けたのだという。

 この再教育のお陰で、重い障害を負った者もいたのだとか。

「……それで、その懲罰房が虹の彼方と呼ばれていたらしいわ」

 因みに、その懲罰房には、大広間のステージ裏の地下倉庫が当てられていたらしい。

「うへえ……名は体を表してない部屋だね」

 桜井はぞっとしない表情で、チリコンカンを頬張った。

「徳元亮二の本によると、いわゆる“お花を摘みにいく”と同じような意図の表現だったらしいけれど」

「マイルドな感じにしたかったのかな……」

「まあ、趣味のいいセンスではないわね」

 茅野は再び肩をすくめ、ピラフをかき込み始める。

 それから、二人は昼食に専念し、食べ終わると再び見返村の教団施設を目指した。

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