【08】最後の使徒


 二〇二〇年六月二十七日の朝だった。

 その建物は山深い常緑の森に囲まれていた。建造されたのは八十年代の初頭であったのだという。

 そこは、さる県内企業が所有する保養所であったらしい。

 それが、諸々もろもろの事情で博愛教会の教団施設となったのは、一九九一年の春先であった。

 今は忌まわしい出来事のあった建物として周辺住民からいとわれており、ご多分に漏れず怪談話の舞台とされている。

 現在、所有権は元の企業へと戻っており、数年前に解体工事が始まったが、なぜかまったく進んでいなかった。

 網の目のようなつたに這われた白い外壁の内側には、野晒しになった重機が放置されるがままになっていた。

 そんな寂れた風景に響き渡るエンジン音。

 開きっぱなしの門扉を潜り抜け、敷地内へとやってきたのは、一台の白いミニバンであった。

 そのまま門から続くひび割れたアスファルトのスロープを登り、建物の入り口を目指す。

 エントランス前へには、廃車寸前と見まごう軽自動車が停まっている。その後ろに着けてミニバンは停車した。

 ややあって、運転席の扉が開く。姿を現したのは、四十代ぐらいの小汚ない格好の男だった。

 名前を加地博男かじひろおと言う。

 彼もまた、緒沢恵、宮野優香、徳元亮二と同じ、一九九九年のときの生き残りであった。

 今日、加地もまた宮野優香と同じく、緒沢によってこの場所へと呼び出されていた。

 エントランスのひさしの正面に掲げられた博愛教会のシンボルマークを見あげ、加地は目を細めた。

「懐かしいな……」

 そう独り言ち、彼はエントランスのステップを駆けあがる。

 自動ドアが割れて、開け放たれたままの玄関を潜り抜け、緒沢との待ち合わせ場所である大広間へと向かった。




 加地博男は宮野優香とは違い、緒沢の誘いに乗り気であった。

 もちろん、信仰心は冷めていたし、緒沢が狂気に憑かれて殺人を犯した事も知っていた。

 しかし、一方で今だに加地の黄金時代は、この教団施設で暮らしていた頃にあった。

 幸せを手にした宮野優香とは違い、一九九九年以降の彼の人生は、暗澹あんたんたる道のりであったからだ。

 職を転々とし、ときには言われなき差別を受けた。誰からも見放され、常に孤独だった。

 現在もコロナ禍により職を失ったばかりで、先行きの見通しは暗い。

 緒沢が具体的に何をやろうとしているのかは聞いていない。

 しかし、どうせ神人を教祖にして、後継団体を立ちあげるつもりなのだろうと高を括っていた。

 そして、彼女ならそれが可能であると信じていた。

 これは教団関係者ならば誰もが知っている事なのだが、緒沢恵は相当な箱入娘であった。彼女の両親は県会議員を務めた事もある地元の名士である。

 両親との仲は悪いとの話であったが、信者が五十人にも満たない小規模な博愛教会が、見映えのする教団施設を手に入れる事ができたのは、彼女のお陰であるとされていた。

 つまり、この話が事実ならば彼女は自らが自由に使える資産やコネを、ある程度は持ち合わせているという事になる。

 加地は取り戻したかった。

 あのキラキラと輝いていた日々を……。

 そのために彼は、緒沢恵にすがりつくつもりだった。




 戸田楪は九時少し過ぎに起きると、ベッドに寝転んだままスマホを手にして、宮野に『おはよう』とメッセージを送る。

 レスポンスは短く、秒で返事があった。

 『おはよう』のあとにキラキラとした絵文字が入っているあたりに彼のテンションの高さがうかがえて、クスリと微笑む。

 もしも、宮野が乗り気でないならば、いくら情報収集という重大任務があるとはいえ、自分の都合で彼を振り回すのは心が痛んだからだ。

 しかし、この調子ならば、その心配は杞憂きゆうのようだと、楪も気分をよくした。

 続けて宮野から『今日はどうする?』とメッセージがきた。

「うーん」

 楪は思案する。

 目的は情報収集。ならば、会話を交わす機会をできるだけ作りたい。

 そもそも、彼女らは小学四年生であり、出掛けると言っても、その行動範囲は限られている。更に折しものコロナ禍である。

 と、なれば、自ずと選択肢は搾られてくる。

 楪は『宮野くんが決めて』と、打ちかけて、自分から誘っておいて相手に丸投げはないな……と、妙な律儀さを発揮して、その文章を消す。

 けっきょく、もうよく解らなくなってきたので『私の部屋で遊ぶ?』とメッセージを送った。

 しかし、沈黙。

 既読はついているが、返事はいっこうにこない。

 仕方がないのでベッドから出て、楪は身支度をし始めた。




『私の部屋で遊ぶ?』


 そのメッセージを見て宮野はフリーズした。

 彼はモテる。

 それゆえに、女子の家に招待された事は何度かあった。

 しかし、今回は宮野にとって、過去のそれらとは大きく意味合いの異なるものだった。

 宮野は考え抜いた末に文章を打ち込み、返信を送る。

 その文面は……。


『ダメだよ。コロナだし』


 彼は真面目で常識的であり、尚且なおかつ、本命に対してはヘタレでもあった。

 すると、数秒後に楪から返信がある。

『そっか。ごめんなさい(何かへこんでる顔文字)』

 宮野はかなり慌てて、誘ってくれた事自体はとても嬉しい的な内容の長文を送り返した。

 その後も色々と案を出し合うも、中々決まらない。

 宮野としては、楪とせっかく二人きりになれるチャンスなのだから、なるべくクラスメイトと、ばったり顔を合わす事がないような場所がいいと思惑を巡らせる。

 その結果、ちょっと遠いが自転車で海の方まで出て、釣りをしようという事になった。

 今の時期なら防波堤で釣糸をたらせば小鯵こあじが狙える。楪も退屈はしないだろう。

 サビキ釣りなら釣り好きの父親と何度も行った事があり、やり方も把握していた。

 市販の仕掛けセットも余っている。

 竿は父の所持している物の中から、一番短い磯竿を一本借りる。そして普段、自分が使っている子供用の竿は楪に使わせれば問題はないだろう。

 餌は途中の釣具屋で購入して行けばよい。

 問題は女子である楪が釣りに興味を示すか否かというところだったが、返事を見るにかなり乗り気のようだった。

 宮野は手応えを感じつつメッセージのやりとりを終えると準備を整え朝食を取る。

 すると、母がまだ暗い顔をしていたので申し訳なくなって、ちょっとだけ気分が沈む。

 それでも、どうにか十時半頃には準備を終えて、両親に見送られて家を出た。

 自転車に股がり戸田楪との待ち合わせ場所へ向かう。

 宮野颯天の楽しい一日が始まるはずだった……。

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