【05】生霊


 一九六五年の事だった。

 窓のない病室で、遠藤はベッドの上の徳澤に向かって説明する。

「このペンダントは、想い人の所に生霊を飛ばす術を行うのに必要なものなんです」

「生霊……」

 徳澤は唖然と呟き、自らの胸元にぶらさがるコインを手に取って眺める。

 これまでのつき合いから遠藤が、不思議な力・・・・・を使えるのは知っていた。ゆえに、この世には、人智では測り知れない物事があるというのは疑う余地もない。

 しかし、いきなり“生霊”などと言われても、やはり絵空事じみており、にわかには飲み込めなかった。

「……といっても、気をつけてください。五感はあるので、当然ながら生身と同じように痛みも感じます。怪我をすれば、本物の肉体にも影響がでます。もちろん、痛みだけではなく、アッチの方・・・・・も、バッチリと感じる事ができますがねぇ……」

 下卑げびた笑いを漏らす遠藤は更に言葉を続ける。

「生霊は、生きている・・・・・人間には・・・・、白い煙のような人型にしか見えません。声も聞こえません。生きている・・・・・人間にはね・・・・・……」

 ここまで話を聞いて徳澤は思った。確かに素晴らしい術だ。

 遠藤の言葉がすべて事実ならば、気弱な自分でも横井圭子をモノにできる事だろう。

「……では、旦那。今から術のかけ方を教えます。よぉく、聞いていてください」

 しかし、こんな都合のよい術を使うに当たって、本当に・・・何の危険も・・・・・ないのであろうか・・・・・・・・……。

 徳澤は一抹いちまつの不安を覚えながら、遠藤の話しに耳を傾けた――





 山深い森に埋もれたトタン屋根がいくつか見える。かつての小浦谷である。

 その奥まった位置に佇む木製の洋館……。

 切妻の破風板に格子のギロチン窓。

 壁面にはおびただしい蔦が這い、まるでひびが割れているかのようだ。

 装飾の施された柱に支えられるひさしの奥には、今にも蝶番ちょうつがいから外れてしまいそうな扉板が二枚並んでいる。

 密室殺人のあった旧菅原邸である。

 上空から見ると南東と北西に両端を向けたVの字型をしており、その北西の端に事件現場となった寝室はあった。  

 室内には今も、天蓋てんがいつきのベッドや丸鏡の鏡台などの瀟洒しょうしゃな調度類が多く残されており、事件当時の情景を訪れた者に想起させた。

 テラスに面した左手の壁は硝子張りだったらしいが、今は格子の枠組みしか残っていない。周囲の床には硝子片と共に、風で飛ばされてきたらしい木の葉や枝が散らばっている。

 正面の壁には窓枠だけとなったギロチン窓があった。

 桜井と茅野はさっそく室内をつぶさに見て回る。

「……それで、事件の概要だけれども」

 茅野がギロチン窓のスクリュー錠を観察しながら再び話を切り出した。

 今度は桜井も真面目に聞くつもり満点らしい。ぱしゃぱしゃとスマホで写真を撮りながら話を促す。

「うん。お願い」

「それでは……」と、茅野は前置きして咳払いを一つ。

 事件の経緯を語り始める。

 発覚は一九六五年七月十四日の二十三時であったという。

 このとき、圭子の夫である実文は入浴を済ませ妻の待つ寝室へと向かった。すると、扉に鍵が掛かっていたらしい。

「鍵? 何で?」

 桜井が訝しげに首を捻る。

「事件後、実文さんが警察に証言したところによれば、ずいぶん前から圭子さんの様子がおかしかったらしいわ」

「どんな風に?」

「家の中や庭先で幽霊みたいな白い影を見たと、おびえていたそうよ」

「……幽霊みたいな白い影?」

 桜井の瞳が輝く。

「ただ、実文さんはあまりこの話を深刻にはとらえていなかったみたいね」

 圭子には過激なファンが多く、後をつけられたり、待ち伏せされたりといった事が以前より度々あったらしい。

 結婚の前後にも心ないファンより脅迫めいた手紙をいくつかもらったのだそうだ。

 そういった出来事のお陰で、神経過敏になっているのだろうと思ったのだそうだ。

 この頃はストーカーという言葉もなく、熱狂的なファンによる過激な行動は社会問題として、さほど認知度が高くはなかった。

 そのために実文は、この件に関して無頓着むとんちゃくであったらしい。

 圭子より話を聞いても、見間違いだろうと真面目に取り合おうとしなかったのだそうだ。彼女が人気のある作家である事は充分に理解していたが、まさかこんな山奥の田舎まで彼女を追いかけてくる者などいないだろうと、実文は甘く考えていたのだという。

「それで、実文さんは、圭子さんがその白い影に脅えるあまり寝室に鍵をかけたと考えたらしいわ」

「なるほど……」

 と、頷く桜井。茅野の話は更に続く。

「それで、扉を叩いて中にいるはずの圭子さんに呼びかけても、返事はなかった。鍵をかけたのを忘れて寝てしまったのかもしれない……実文さんは書斎へとマスターキーを取りにいたらしいわ。それで寝室の扉を開けると……」

 扉口から数メートル離れた床に、血を流した菅原圭子がうつ伏せで倒れていたのだという。

 首筋に深い傷があり脈はあったが、出血が酷く呼びかけても返事はない。

 すぐに応急手当てを施し、ふもとの病院へ運ぼうとしたが、その搬送途中で彼女は息を引き取った。

「それ、旦那さんが疑われなかったの?」

「そこまで警察は馬鹿ではないわ。実文さんが殺したなら、外部犯だと思わせておいた方がよいわけだし、現場を密室にする必要がないもの。それに、室内から誰のものか解らない足跡や指紋がたくさん見つかったそうよ」

「でも、その犯人が部屋の中にどうやって出入りをしたのか解らない……と?」

「そうね」

「……で、その足跡や指紋のぬしは特定できたの?」

 桜井の問いに対して茅野は首肯する。

「ええ。警察は犯行現場への侵入方法はさておき、圭子さんのファンに疑いの目を向けたの。彼女が見たと言っていた白い影も、館に忍び込んだ熱狂的なファンだったのではないかと考えたそうよ」

「自然な流れだね」

「圭子さんは、そうした心ないファンからの手紙やはがきもぜんぶ保管していたらしいわ」

 そうして警察は、圭子が保管していた膨大な手紙やはがきから指紋を採集し、現場に残されていた指紋との照合を試みた。

 すると……。

「ある絵はがきから現場の指紋と同じ指紋が採集されたわ。その絵はがきの送り主が徳澤祐司。当時、川崎の建築会社で営業職に就いていた男らしいわ。この徳澤という人物は圭子さんとは同じ大学出身で同期だったみたい。二人は顔見知りだったそうよ」

「怪しいねえ」

 と、桜井はいぶかしげに目を細める。

 すると茅野が右手の人差し指を立てて横に振る。

「でも、その徳澤にはどうやっても犯行は不可能だったのよ。密室の事を・・・・・除いてもね・・・・・

 そこで衣装箪笥を覗いていた桜井が、眉尻をさげてお腹をさする。

 その姿を横目でとらえた茅野は苦笑して、彼女の方に向き直る。

「そろそろ、燃料切れかしら?」

「うん。お弁当……」

 二人はいったん休憩を取る事にした。

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