【01】急病
二〇二〇年四月二十六日の朝。
ロングワンピースのパジャマに身を包んだ茅野循は、自宅リビングのソファーに腰をおろしてテレビを見ながら、こんがりと焼けたトーストにバターを塗っていた。
昨晩のオンライン女子会は、けっきょく夜中の三時近くまで続いた。
そこで茅野が得た教訓は、オンラインの方が直接顔を合わせるよりも解散し辛く、夜更かしに繋がりやすいという事だった。
ともあれ、バターナイフを皿の縁に置くと、朝のエネルギー摂取に取り掛かる。
ローテーブルの上にはトーストの他に、レタスとトマトが添えられたサニーサイドエッグの目玉焼き、湯気立つコーンスープとたっぷり甘くした珈琲が並んでいる。
さくり、と歯切れの良い音を立てて、トーストの一口目を
と、そこでキッチンの方から、弟の薫の声がした。
「……そういえばさ、姉さん」
「なあに?」
「裏口の扉なんだけど……建てつけが悪いのか何なのか知らないけど鍵が閉まらないんだ」
茅野邸のキッチンは、ダイニング、リビングと同じ空間にあるLDKタイプである。
裏口は流し台に向かって右側の引き戸を出てすぐ右手にあった。
その鍵が閉まらない理由について、茅野循は事もなげに述べる。
「ああ……それ、ちょっと退屈だったから、ディンプルキーの効率のよい破り方を研究していたら、鍵が回らなくなっただけよ。だから心配はいらないわ」
「またそんな……」
ボールに入れたレタスとトマトとサラダチキンをドレッシングであえながら、薫は盛大に呆れる。
「泥棒に入られたら、どうするのさ……」
「大丈夫よ。今日の午後には、ちゃんと直しておくわ」
と、茅野がどうでも良さそうに答えた直後だった。
テレビから聞こえる県内版のキャスターの声が耳をつく。
『……二十四日の深夜、勾留中に体調不良を訴え、病院への搬送中に脱走した
「あらあら……」
茅野が目を細めて微笑む。
このニュースはキッチンの薫の耳にも届いたらしく……。
「ほら、姉さん! 退屈しのぎに鍵なんか壊してる場合じゃないから……」
「大丈夫よ。昨今はコロナ禍でしょう? 在宅している人ばかりなのに、わざわざ家に押し入ったりなんかしないわよ。余程の馬鹿じゃあない限りは……」
「その余程の馬鹿だったりしたら、どうするのさ? まったくもう」
「はいはい。私の弟は怒っても可愛い、可愛い……」
プンスカと怒る弟の態度にほくそ笑みながら、茅野は雑な返事をする。そして、朝食を食べ進めた。
粗方たいらげると、薫がキッチンの方から自分の朝食を乗せたお盆を持ってやってくる。
トースト三枚、ベーコンエッグ、チキンサラダ、コーンスープ、ヨーグルトに牛乳。
そこに乗っている朝食は、品目も量も姉のものよりずいぶんと多い。流石は食べ盛りである。
「兎も角、今日中には鍵直しておいてよ?」
「はいはい」
「またそんな返事をして……本当に解っているの!? 姉さんってば!」
薫はそう言って、お盆をローテーブルの上に置いた。
そして、ソファーに腰を埋めた瞬間だった。
「うっ……」
などと、唐突に腹を押さえて身を屈めた。顔を見れば苦悶の表情を浮かべている。
茅野の表情が凍りついた。
「薫? どうしたの!?」
「姉さん……お腹が……痛い……」
「ちょっと!」
茅野が慌てて腰を浮かせる。
すると、薫は腹を両手に当てたまま、ゆっくりと床に転げ落ちる。
「ねえさん……きゅう……きゅうしゃ……」
「薫? 薫ー!!」
絶叫が轟いた。
「あー、
「あ、そうですか」
そこは駅前にある県立病院の診察室だった。
丸椅子に座り医師と向き合う茅野循は、ほっと胸をなでおろした。
大切な実弟の急病には、いかに冷静沈着な彼女とはいえども、かなり動揺してしまっていた。
因みに虫垂炎とは、何らかの要因で虫垂が炎症を起こす病気の事である。
いわゆる、
場合にもよるが、普通は命を脅かすに至らない病である。
「……ただ、炎症の度合いがけっこう酷いので、少し入院していただかなくてはなりませんね。一週間ほどですが」
「そうですか」
「それから、当面は患者さんへの面会は、日用品の差し入れ以外、ご遠慮させていただいております。ご了承ください」
ただ今、緊急事態宣言の真っ只中である。当然ながらコロナウィルスの感染対策であろう。
「解りました」
茅野は素直に頷く。
このあと
それから、再び帰宅した頃には、すっかりと裏口の鍵の事など忘れてしまっていた。
しかし、代わりに、とっておきの退屈しのぎのアイディアを閃いてしまう。
茅野は桜井梨沙へとすぐさま連絡を取った。
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