【10】邪視


 前原建太郎はサプレッサーつきのトカレフを再び上着の内側にあるスリットに差す。

 それから、金塊入りのアタッシュケースの一つを背負っていた登山用のリュックに入れ、もう一つを右手に持った。

 因みにアタッシュケースは二つ合わせて小学生一人分くらいはある。かなり重たい。

 ともあれ前原は左手の懐中電灯で笹野を照らす。

 壁によりかかったまま項垂うなだれ、完全に脱力している。

 本当に死んでいるのか……と、疑わしく感じたが、それを確認するより、早くこの場を立ち去りたいという嫌悪感の方が勝った。

 入り口へと向かう。

 そして、前原の足が岩室を出たそのときだった。

 

 ……がりっ


 奇妙な音。

 それは、明らかに異質だった。

 水滴のしたたり。外から聞こえる渓流の流れる音。自らの息遣い。衣服の擦れる音。

 そのどれとも違う音が背後から聞こえた。

 前原はぞっとして足を止める。

 誰かの足音がゆっくりと背後から迫る。

 前原の荒い息遣いが、それらに重なった。

 意を決した彼は振り返る。

 すると、懐中電灯の明かりの中に胸から血を流した笹野の姿が浮かびあがった。

 フラフラと上半身を揺らめかせながら前原の元へとにじり寄る。

「ああ……嘘だろ!? 何で生きているんだよ……」 

 医学的な知識などなくとも、死亡したと断言できるほどの出血量。そして、青ざめた顔色。

 何よりも異常だったのは、その眼球の動きであった。

 上下左右に、斜めに、震えるように眼窩がんかの中でうごめいている。

「ひぃい……」

 前原は右手のトランクを地面に落とした。焦りながらウェアのジッパーを開けて、トカレフを右手で抜く。

「あああ……あぁ」

 安全装置を外すのにたっぷりともたつき、ようやく構えたときには、笹野はすぐ目の前にいた。

 トリガーにかけた右手の人差し指に力が入る。それより一瞬早く笹野の右腕が伸びて真上からトカレフの劇鉄を押さえつけた。

 トリガーを引いても弾丸が発射されない。

 更に血塗れの左手が前原の喉を掴む。

「やっ、やめろ……」

 そのまま笹野はぶれ動く眼球で前原の恐怖に濡れた右眼を覗き込んだ。

 前原の眼窩がんかから異常な量の涙がぶわりと溢れる。彼の脳内で根元的な恐怖が沸き起こった。

 全身を覆う絶望。無への恐怖。底知れない何かに飲まれる感覚……勝手に両足が震え出した。

 同時に前原の右眼から何かが侵入する。

 左手の指先から懐中電灯がこぼれ落ちて地面に転がる。

 断末魔が八女洞内に響き渡った。




「ああ……ああ……あ……」

 前原が死んだはずの笹野に組みつかれて数分が経過した。

 すると、笹野が唐突に膝を突き、がくりと前原の足元に倒れ込んだ。

 まるで、脱皮を終えた蝉の脱け殻のようにピクリとも動かない。

「あああ……ああ……ああ」

 前原は呆けた表情で虚空に目線をさ迷わせる。彼の眼球の動きが早くなり、次第に激しくブレ始める。

 笹野の中にいた何かが、死にかけの彼の中に残っていた精気を食らいつくし、前原へと乗り移ったのだ。

 その何かはフラフラと上半身を揺らめかせながらきびすを返して、八女洞の出口を目指した。




 絶叫が聞こえてからしばらくして、男が八女洞の入り口から姿を現す。

 その様子をナイトビジョンつきの双眼鏡で岩影から覗き見る茅野。因みにヘッドバンドライトの明かりは消している。

「どう? 循」

「男が一人。……右手に……あれはサプレッサーつきのトカレフね」

「え、本物?」

「流石にそこまでは解らないけれど、さっきの悲鳴を考えると、モデルガンだとは思わない方がよいでしょうね」

「そだね。で、どうする?」

「話の通じる相手ならいいんだけど……」

 男は何の躊躇ちゅうちょもなく流れの中に足を突っ込み、渓流を渡ろうとする。

 ゆっくりとした足取りであったが、バランスを崩したりするような事はなく、まるで平地を歩いているかのようであった。

 そもそも、普通ならば滑りやすく流れの速い渓流には立つ事すら困難なはずだ。その事から正体不明の男が明らかにまともではない事を二人は悟った。

 そして、茅野の双眼鏡のピントが男の顔に合わさる。

「眼が動いてる……上下左右に激しく……近藤さんの話にあった通りだわ」

「じゃあ、あれがナナツメサマ……?」

 しかし、茅野はその言葉に答えない。微かに唇を戦慄わななかせながら、双眼鏡をじっと覗き続けている。

「循……?」

 彼女の様子がおかしい事に気がついた桜井は肩を揺すって声をかける。

「循! 循っ! どうしたの!?」

 すると、茅野はやっとの事で己の両目を双眼鏡から引きはがし、うつむいて荒い息を吐いた。

「どうしたの……? ミントティーいる?」

 不安げな桜井の申し出を右手で制し、茅野は息を整える。

「梨沙さん。あいつと視線を合わせてはいけないわ。あれは邪視の一種かもしれない」

「じゃし……?」

「詳しい説明はあとよ。あいつ、たぶん私たちに気がついてる。いったん距離を取りましょう」

「らじゃー」

 桜井と茅野は同時にヘッドバンドライトをつけて岩影から飛び出す。

 男は渓流の中程にいた。もうじき此岸しがんへとやってくる。

 二人は急いで来た道を戻り始めた。




 桜井と茅野は渓流に沿った岩場をつたい、下流を目指した。 

 男は渓流を渡ったあとも、着実に二人を追尾してきた。やはり足元が不安定な岩場であるにも関わらず、よろけたりする様子はない。

 やがて桜井と茅野は沢の斜面を登り、籠目村の方へ続く登山道を引き返し始める。

 その道すがら、桜井が尋ねる。

「……んで、じゃしって何なの?」

よこしまな力を秘めた視線の事よ。睨んだだけで相手を呪う事ができる」

「チートじゃん」

 桜井がつまらなそうに唇を尖らせる。

「……その邪視っていうのは、防げないの?」

 茅野は首を横に振る。

「イスラム教圏では、邪視に対抗するハムサという護符アミュレットがあるけれども……あとは、汚い物を見せるとか」

「汚い物?」

「排泄物とか、性器とか、そういう不浄とされる物よ。邪視はそういったけがれを嫌う」

 茅野の言葉を聞いて、桜井は走りながらハーフパンツを脱ぐような仕草をして真顔で言う。

「いく?」

「いいえ。それは最終手段にしましょう。女子として」

「そだね。女子として」

「取り合えず、視界を塞いでぶちのめして動きを封じましょう」

「りょうかーい」

 桜井が獲物をいたぶる猫のように笑った。

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